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神猫の気ままな異世界旅  作者: 趣味の黒兎Z
序章 転生、そして出会い

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00-02 奴隷の少女

 街道で馬車を取り囲んでいるのは、狼に似た魔物の群れだった。


 ナイトは広範囲に展開していた魔力の感知網を維持したまま、そのうちの一匹へと意識を向ける。


 そういえば、鑑定はまだ試していなかった。


 相手は十数キロも離れた場所にいる。直接視界に捉えているわけでもないが、【森羅万象】ならば問題なく情報を読み取れるのだろうか。


 試しに魔力の波長を一匹の魔物へと絞り込み、意識の焦点を合わせてみる。


 すると、次の瞬間。


 膨大な情報が、ナイトの脳内へ一気に流れ込んできた。


 最大HPやMP、詳細な身体能力の数値、所持スキル。


 それだけではない。


 筋肉の疲労度や胃の内容物、体内を巡る魔力の状態に至るまで、対象を構成するあらゆる情報が、無数の項目となって展開されたのだ。


 ナイトは思わず顔をしかめた。


 これは、いくらなんでも情報が多すぎる。


 先ほど自分のステータスを確認した際には、個体名や種族、権能といった本質的な情報しか表示されなかった。


 おそらく、自分自身のことは感覚的に把握できていたため、必要な情報だけが示されたのだろう。


 しかし、今回は未知の対象について知ろうとした。


 その結果、【森羅万象】がナイトの意図を過剰に汲み取り、対象の情報を余すところなく引き出してしまったらしい。


 とはいえ、ただの魔物を調べるために、毎回これほどの情報を確認していてはきりがない。


 ナイトは不要な数値や細かな情報を切り捨て、必要最低限の項目だけを表示するように意識を調整した。


 すると、先ほどまで脳内を埋め尽くしていた膨大な情報が消え、簡潔なステータスが浮かび上がった。


 ーーーーーーーーーー

[種族]草原狼(グラスウルフ)

[状態]空腹・興奮

[位階(ランク)]E

 ーーーーーーーーーー


 これならば、一目で相手の情報を把握できる。


 種族と状態、それに危険度の目安となる位階が分かれば、ひとまず十分だろう。


 表示形式を整えたナイトは、続けて馬車の方へと意識を向けた。


 魔物だけでなく、人間に対しても同じように情報を読み取れるか確認するためだ。


 まず、御者席にしがみついている肥満体の男へと意識を集中させる。


 ーーーーーーーーーー

[種族]人間

[職業]違法奴隷商人

[状態]恐慌・軽傷

 ーーーーーーーーーー


 続いて、馬車の周囲で剣を振るっている護衛たちを調べていく。


 ーーーーーーーーーー

[種族]人間

[職業]殺人鬼

[状態]出血・錯乱

 ーーーーーーーーーー

[種族]人間

[職業]暗殺者

[状態]軽傷

 ーーーーーーーーーー

[種族]人間

[職業]強盗魔

[状態]死亡

 ーーーーーーーーーー


 なるほど。


 どうやら、まともな商人の一行ではないらしい。


 御者席の男は違法奴隷商人。


 護衛として雇われている者たちも、殺人鬼や暗殺者、強盗魔といった連中ばかりだった。


 正規の冒険者を雇えない裏稼業ゆえに、金で集めたお尋ね者や荒くれ者を護衛にしていたのだろう。


 もっとも、その護衛たちも今や壊滅寸前だった。


 二十頭を超える草原狼(グラスウルフ)の群れが、馬車を完全に取り囲んでいる。


 護衛たちは必死に剣を振るっているものの、圧倒的な数の差を覆すことができない。


 すでに何人かは馬車から引きずり落とされ、狼たちの餌食となっていた。


 残った者たちも、互いを助ける余裕などないらしい。


 我先にと逃げ出そうとしては別の狼に進路を塞がれ、悲鳴と怒号を上げている。


 悪党が自業自得の末に野垂れ死ぬことについて、ナイトは特に何も思わなかった。


 しかし、馬車には気になるものがあった。


 荷台に設置された、大きな鉄格子の檻。


 その中には、五、六人ほどの子供たちが閉じ込められていた。


 粗末な襤褸布を身にまとい、互いに肩を寄せ合って震えている。


 人間や獣人の子供が大半だったが、檻の片隅に一人だけ、ほかとは明らかに異なる気配を持つ少女がいた。


 少女はぐったりと横たわり、ほとんど身動きしていない。


 ナイトはその少女へと意識を向けた。


 ーーーーーーーーーー

[種族]真祖吸血鬼

[職業]魔法使い

[状態]奴隷・魔力封印・衰弱

 ーーーーーーーーーー


 真祖吸血鬼。


 その種族名を見て、ナイトはわずかに興味を引かれた。


 吸血鬼というだけでも珍しいが、真祖ともなればなおさらだ。


 少なくとも、ゲーム時代の知識では滅多に見かけるような存在ではなかった。


 そんな希少な種族の少女が、奴隷として檻に閉じ込められている。


 商人にとっては、相当な金になる商品だったのだろう。


 もっとも、その儲け話も今まさに消えようとしていた。


 馬車を取り囲む狼たちの猛攻は、一向に衰える気配がない。


 護衛たちが防戦に追われる中、瀕死の一匹が防衛線をすり抜け、馬車へと迫った。


 空腹に駆られた草原狼(グラスウルフ)は、ぎらつく瞳を馬へと向ける。


 そして、鋭い牙を剥き出しにして飛びかかった。


 馬は咄嗟に身をよじったものの、馬具と手綱に繋がれた状態では避けきれない。


 狼の牙が、太ももを深々と引き裂いた。


「ヒヒィィィンッ!!」


 激痛に襲われた馬が、狂ったように嘶いた。


 それまで包囲されて立ち往生していた馬は、痛みと恐怖によって完全に錯乱し、御者の制御を振り切って走り出した。


「おい、止まれ! 止まりやがれぇぇッ!」


 肥満体の商人が血相を変え、必死に手綱を引く。


 しかし、暴走した馬は止まらない。


 前方に立ちはだかる狼を強引に跳ね飛ばし、群れの包囲を突破していく。


 馬車は護衛たちを置き去りにしたまま、街道を大きく外れた。


「テメェ、待てコラァ!」


「見捨ててんじゃねえぞ、クソがぁッ!」


 背後から怒号と罵声が飛ぶ。


 しかし、それらもすぐに狼たちの唸り声と、男たちの断末魔に掻き消されていった。


 暴走した馬は、そのまま森の境界へと突っ込んでいく。


 だが、整備された街道とは違い、森の地面には太い木の根が無数に張り巡らされていた。


 馬車の車輪が、そのうちの一本へ勢いよく乗り上げる。


 次の瞬間、荷馬車は大きく傾き、凄まじい音を立てて横転した。


 ドガァァンッ!!


 木材が砕け、鉄格子が軋む。


 激突の衝撃で荷台の外枠や目隠しの幌が弾け飛び、歪んだ檻が地面へと投げ出された。


 商人も御者席から放り出され、地面を転がる。


 そこへ、遅れて追いついてきた狼たちが容赦なく襲いかかった。


 血飛沫が舞い、肉を貪る音が森に響く。


 檻の中では、子供たちが悲鳴を上げていた。


 横転の衝撃で鉄格子は大きく歪んでいる。


 その隙間から、血に飢えた狼たちが牙を剥いて迫っていた。


 子供たちは必死に身を寄せ合い、少しでも狼から離れようと檻の奥へと後ずさる。


 しかし、逃げ場などどこにもない。


 そんな中、檻の片隅に横たわる真祖の少女だけは、薄く目を開けていた。


 周囲の悲鳴にも、迫り来る狼にも、ほとんど反応を示さない。


 ただ静かに身を縮こまらせ、訪れるであろう死の瞬間を待っているかのようだった。


 その光景を、ナイトは遠く離れた森の中から感知していた。


 悪党たちがどうなろうと知ったことではない。


 しかし、何の罪もない子供たちまで見殺しにするのは、さすがに寝覚めが悪かった。

 助けるか。


 そう判断したナイトは、【森羅万象】を使って自身の姿を透明化させた。


 すでに気配も魔力も隠しているため、これで周囲から存在を察知されることはほぼないだろう。


 続いて、横転した檻の近くにある巨木へと意識を向ける。


 そして次の瞬間、ナイトの姿がその場から消えた。


 空間を跳び越えた小さな黒猫は、檻の真上に張り出した太い枝へと、音もなく降り立った。


 眼下では、先に追いついた狼たちが商人に群がっている。


 さらに、遅れてやってきた第二陣が、檻の周囲へと迫っていた。


 次の標的が子供たちになるのは、火を見るより明らかだった。


 しかも、檻の中には怪我をしている子供が多い。


 もともと雑に扱われていたのか、横転した際に負傷したのかは分からないが、まともに動けそうにない者もいた。


 さて、どうやって助けたものか。


 ナイトは枝の上から状況を眺めながら考えた。


 自分が直接助けてもよい。


 この程度の魔物なら、わざわざ戦闘と呼ぶほどのことにもならないだろう。


 しかし、猫の姿のまま狼の群れを蹴散らせば、子供たちに妙な警戒をされるかもしれない。


 かといって、人化して助けるのも気が乗らなかった。


 人の姿になること自体は、今の感覚なら問題なくできそうだ。


 だが、せっかく猫として気ままに過ごせるのだから、必要もないのに人間の姿へ戻る理由はない。


 そこで、ナイトはふと思い出した。


 そういえば、ゲーム時代のアイテムや眷属はどうなっているのだろうか。


 能力の検証では、そこまで確認していなかった。


 ちょうどよい機会だ。


 試しに、あいつを呼んでみるか。


 ナイトが思い浮かべたのは、ゲーム時代から自身に仕えていた一人の従者だった。


 拠点の管理や事務仕事、身の回りの世話に至るまで、雑務全般を任せていた人間の青年。


 猫であるナイトに代わり、対人折衝も完璧にこなしていた秘書のような存在だ。


 戦闘に特化した獣の眷属たちと比べれば、純粋な戦闘能力は控えめだった。


 とはいえ、この程度の狼の群れを相手にするくらいなら、何の問題もないはずだ。


 ナイトはゲーム時代の感覚を思い出し、【森羅万象】を通じて眷属の召喚を試みた。


 すると、目の前の空間に精緻な魔法陣が展開された。


 ゲーム内で何度も目にした、見慣れた召喚陣。


 その中心から光が溢れ、一人の男が姿を現す。


 召喚は成功した。


 しかし、その直後。


 ナイトは重大なことを忘れていたと気づいた。


 今、自分がいるのは地上数十メートルの木の枝の上だ。


 そして、召喚した従者の足元には何もなかった。


 当然、男は空中に出現した瞬間、そのまま重力に従って落下していった。


「……っ!?」


 男は一瞬だけ驚愕の表情を浮かべた。


 しかし、次の瞬間には周囲の状況を把握し、即座に戦闘態勢へと移行していた。


 落下しながら腰のホルダーへ手を伸ばし、一本のナイフを抜き放つ。


 その真下にいたのは、檻へ飛びかかろうとしていた一匹の草原狼(グラスウルフ)だった。


 男は落下の勢いを利用し、すれ違いざまにナイフを振るった。


 ザシュッ!!


 鋭い一閃が狼の首を断ち切った。


 鮮血が噴き出し、切断された頭部が宙を舞う。


 男は空中で身を捻り、返り血を紙一重でかわした。


 さらに魔力を巡らせて落下の衝撃を殺し、軽やかに地面へと着地する。


 ストンッ。


 まるで、最初からそのように着地する予定だったかのような、見事な身のこなしだった。


 男はナイフについた血を素早く払い、腰の鞘へと収めた。


 そして、衣服の乱れを整えながら、周囲の狼たちへ冷淡な視線を向ける。


 整った執事服を身にまとった青年。


 その姿は、血生臭い森の惨状とはあまりにも不釣り合いだった。


 一方、狼たちは突然の出来事に警戒を強めていた。


 何もない空中から人間が現れ、仲間の一匹を瞬く間に仕留めたのだ。


 狼たちは一斉に足を止め、低い唸り声を上げながら男を取り囲んだ。


 木の上では、ナイトが密かに反省していた。


 完全に召喚位置を間違えた。


 足場のない場所に呼び出してしまったのは、こちらの不注意だ。


 悪いことをした。


 もっとも、当の従者は何事もなかったかのように立っている。


 怪我もなく、服も汚れていない。


 さすがは長年仕えてきた従者だった。


 彼の名はジル。


 ナイトが信頼を寄せる眷属の一人である。


 ジル一人でも、この程度の魔物なら問題なく処理できるだろう。


 しかし、今回は檻の中に子供たちがいる。


 万が一にも被害が及ばないよう、できる限り迅速に片付けたい。


 それに、ほかの眷属も問題なく召喚できるか確かめておきたかった。


 ナイトは次の召喚対象を思い浮かべる。


 今度は失敗しないよう、召喚位置をジルのすぐ隣、地上の空間へと指定した。


 さらに、衰弱している子供たちを驚かせないよう、余計な発光も抑える。


 すると、地面に薄い魔法陣が浮かび上がった。


 その中心から、巨大な影がゆっくりと姿を現す。


 雪のように透き通る純白の毛並み。


 雄々しく波打つ白銀の鬣。


 そして、周囲を威圧する黄金の瞳。


 現れたのは、巨大な白獅子だった。


 四足で立っているにもかかわらず、その頭部は隣に立つジルの頭上を超えている。


 ただそこに存在するだけで、周囲の空気が凍りつくような威圧感が漂っていた。


 その姿を目にした狼たちは、明らかに動揺した。


 先ほどまで獲物を求めて牙を剥いていたというのに、今では恐怖に引き攣った声を漏らしている。


 檻の中の子供たちも同様だった。


 突然現れた執事服の青年が狼を倒したことで、助かるかもしれないという希望を抱きかけていた。


 しかし、今度は狼など比較にならないほど巨大な白獅子が現れたのだ。


 子供たちは息を呑み、再び身を寄せ合って震え始めた。


 助かったのか。


 それとも、さらに恐ろしい魔物に襲われるのか。


 もはや、何が起きているのか理解できていなかった。


「……グルゥ」


 白獅子は黄金の双眸で狼たちを見渡し、億劫そうに短く喉を鳴らした。


 それだけで、周囲の空気が一段と冷え込む。


 狼たちは完全に戦意を失った。


 尻尾を巻き、我先にと逃げ出そうとする。


 しかし、ナイトはそれを許すつもりはなかった。


《逃がすな。一匹残らず仕留めろ》


 木の上から、ナイトの念話が二人の眷属へと届いた。


 その瞬間、白獅子の黄金の瞳に獰猛な光が宿る。


《貴様はここで人間を見ていろ。我だけで十分だ》


 白獅子は隣に立つジルへと念話を送った。


 ジルと白獅子は、いずれもナイトの側近として仕える眷属である。


 内政や事務の分野で頂点に立つジル。


 そして、純粋な武力において頂点に立つ白獅子。


 互いの能力と立場を認め合ってはいるものの、主の前で己の有用性を示す機会となれば話は別だった。


 特に戦闘において、白獅子がジルに手柄を譲るつもりなど毛頭ない。


 白獅子は逃げ惑う狼たちを追いかけることすらせず、ただ静かに前足を一歩踏み出した。


 直後、周囲の大気が急激に冷え込む。


 キリキリと音を立てながら空気中の水分が凍りつき、逃走する狼たちの頭上に鋭利な氷の槍が次々と形成された。


 氷の槍は、狼の数と同じだけ浮かんでいる。


 氷属性の魔法、〈アイススピア〉。


「グラァッ!」


 白獅子が一声吠える。


 それと同時に、無数の氷槍が一斉に放たれた。


 逃げ惑う狼たちの頭部を寸分の狂いもなく貫き、そのまま大地へと縫い留める。


 狼たちは悲鳴を上げる暇すらなかった。


 十頭足らずの群れが、一秒にも満たない時間で全滅した。


「……相変わらず、容赦がありませんね。獅子丸さんは」


 手番を完全に奪われたジルは、腰のナイフを鞘へ戻しながら小さく息を吐いた。


 白獅子の名は獅子丸。


 ナイトが従える、戦闘特化の眷属だった。


《主、森の外……街道の残党はいかがいたしますか》


 獅子丸が頭上を見上げ、恭しく念話を送ってくる。


 ナイトは少し考えた。


 街道には、まだ狼や護衛たちが残っているはずだ。


 獅子丸を向かわせれば、片付けること自体は簡単だろう。


 ただし、命令の仕方には気をつける必要がある。


 獅子丸は主への忠誠心が非常に厚い。


 その反面、敵味方の線引きが極端になりがちなところがあった。


 仮に「外にいる奴らを全部始末しろ」などと曖昧に命じれば、たまたま通りかかった無関係な旅人まで巻き込むかもしれない。


 実際に旅人がいるかどうかは別として、余計な被害を出すつもりはなかった。


 ナイトはひとまず透明化を解除し、枝先を軽く蹴った。


 小さな黒猫の体が、ふわりと宙を舞う。


 そして、獅子丸の白銀の鬣の上へと、音もなく降り立った。


 二メートルを超える巨大な白獅子。


 その頭上に、一匹の小さな黒猫がちょこんと座っている。


「……あ、猫……?」


「な、なんで……?」


 檻の中から、子供たちの困惑した声が聞こえてきた。


 突然空から降ってきた執事服の青年。


 地面から現れた巨大な白獅子。


 そして、その白獅子の頭に乗っている小さな黒猫。


 あまりにも脈絡のない光景の連続に、子供たちは完全に混乱していた。


 ナイトはそんな子供たちを眺めながら、ふと別のことを思い出した。


 そういえば、ゲーム時代のアイテムは取り出せるのだろうか。


 空間収納の能力は確認したが、ゲーム時代に所持していたアイテムについては、まだ試していなかった。


 ナイトは当時のインベントリを思い浮かべ、その中に保管していた一本の小瓶へと意識を向けた。


 すると、獅子丸の背中の上に、小さなガラス瓶が現れた。


 中には、透き通った緑色の液体が入っている。


 上級回復薬だ。


 どうやら、ゲーム時代のアイテムも問題なく取り出せるらしい。


 ナイトは続けて、檻の中にいる子供たちの人数分だけ回復薬を取り出した。


 すると、獅子丸が主の意図を察したのか、その場にゆっくりと伏せた。


 ジルが背中の薬を取りやすいよう、体勢を低くしたのだ。


《ジル、檻の子供たちを解放して、回復薬を飲ませてやれ。傷の手当ても頼む》


「かしこまりました、主様」


 ジルは優雅に一礼すると、獅子丸の背から回復薬を受け取り、歪んだ鉄格子の檻へと向かった。


 檻の扉は横転の衝撃でひしゃげ、まともに開かない状態になっていた。


 しかし、ジルは何の苦労もなく鍵を外し、歪んだ扉を押し開けた。


 子供たちは怯えた様子で身を縮こまらせる。


 それでも、ジルは落ち着いた態度を崩さなかった。


 静かに声をかけながら、子供たちへ回復薬を配っていく。


 薬を飲んだ子供たちの体には、すぐに変化が現れた。


 擦り傷が塞がり、打撲の腫れが引いていく。


 骨折していた者も、傷ついた骨が瞬く間に修復され、痛みが消えていった。


 上級回復薬の効果は絶大だった。


 やがて、極度の緊張と恐怖から解放された子供たちは、糸が切れたように次々と眠りに落ちていった。


 しかし、一人だけ眠らない少女がいた。


 檻の片隅に横たわっていた、真祖吸血鬼の少女だ。


 少女は大樹の幹に背を預け、薄い唇をわずかに噛み締めていた。


 深紅の瞳は、目の前の光景を必死に追っている。


 何が起きているのか。


 自分たちは本当に助かったのか。


 それとも、別の何かが始まろうとしているのか。


 少女の瞳には、困惑と警戒が入り混じっていた。


 ナイトはその視線に気づいていたが、今は街道に残った魔物たちを片付ける方が先だった。


《よし、獅子丸。外の掃除に行くぞ》


《御意に》


 ナイトは獅子丸の疾走に備え、自身の周囲へ魔力による風除けを展開した。


 主の準備が整ったことを察した獅子丸は、音もなく大地を蹴った。


 巨大な白獅子の体が、矢のような速度で森の中を駆け抜けていく。


 木々の間を抜け、あっという間に街道へと戻った。


 そこでは、惨劇がすでに最終局面を迎えていた。


 護衛たちの数はさらに減り、生き残っていたのは三人だけだった。


 いずれも血まみれで、満身創痍の状態にある。


 三人は剣を構え、一匹の巨大な狼と対峙していた。


 その狼は、通常の草原狼(グラスウルフ)の倍近い体躯を持っていた。


 額には一本の鋭い角が生えている。


 どうやら、群れを率いる上位個体らしい。


 ナイトはその狼へと意識を向け、ステータスを確認した。


 ーーーーーーーーーー

[種族]草原狼王(グラスウルフキング)

[状態]空腹・興奮・激怒

[位階(ランク)]D

 ーーーーーーーーーー


 草原狼王。


 名前こそ大層だが、位階はDに過ぎない。


 ナイトにとっては、脅威と呼ぶほどの存在ですらなかった。


 先ほど周囲を索敵した際には、見当たらなかった個体だ。


 後方で戦況を窺っていたのか、それとも獲物が弱るのを待って合流したのだろう。


 いずれにしても、今さら現れたところで結果は変わらない。


《獅子丸、狼王も護衛のクズどももまとめてやれ》


《はっ!》


 獅子丸は速度を緩めることなく、街道へと躍り出た。


 突然現れた巨大な白獅子の気配を察知し、狼王が振り返る。


 しかし、その時にはすでに遅かった。


 獅子丸の巨大な前足が、狼王の頭部を捉えていた。


 バキィッ!!


 鈍い破砕音が響く。


 額の角ごと頭部を粉砕された狼王は、抵抗する間もなく絶命した。


 文字どおり、一撃だった。


 その光景を目にした三人の護衛が、呆然と立ち尽くす。


「な、助かっ……」


「バカ、逃げろッ! あれは……!」


「ひっ……!?」


 しかし、彼らが状況を理解する暇はなかった。


 獅子丸が大きく息を吸い込み、口を開く。


 次の瞬間、凄まじい冷気が街道を薙ぎ払った。


 無数の微細な氷塊を含む、極寒のブレス。


 それを浴びた三人の男たちは、立ったままの姿勢で瞬く間に凍りついた。


 そして、次の瞬間。


 凍結した肉体は音を立てて砕け散り、地面へと崩れ落ちた。


 戦闘は、わずか数秒で終わった。


 ナイトは周囲を確認する。


 狼王はすでに息絶え、残っていた護衛たちも一人残らず始末されていた。


 これで、街道の掃除は完了だ。


 ナイトを頭に乗せた獅子丸は、再び森の中へと戻っていった。


 横転した馬車の近くでは、ジルが子供たちの様子を見守っていた。


 救出された子供たちは、すでに穏やかな寝息を立てている。


 その中で、唯一目を覚ましていたのが、真祖吸血鬼の少女だった。


 少女は大樹の幹に背を預けたまま、森の奥から戻ってきた白獅子を見つめていた。


 そして、その頭上に鎮座する小さな黒猫へと視線を向ける。


 信じられないものを見るような、深紅の瞳。


 ナイトはそんな少女に向かって、右の前足を軽く挙げてみせた。


「にゃー(よっ、無事か?)」


「…………え?」


 少女の呆然とした声が、静かな森にぽつりと響いた。

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