00-01 猫の亜神
猫という生物を知っているだろうか。
猫とは賢く、気高く、美しく、愛らしく、しなやかで、気まぐれで、神秘的で、時に甘えん坊で……そして非常に強い生き物である。
◇ ◇ ◇
時は2×××年。
数々の名作を世に送り出してきたA社が、完全新作のVRMMORPGを発表した。
VRMMORPG。仮想現実大規模多人数同時参加型オンラインRPG。
今や世界中に溢れ返っているジャンルだが、この作品が世界を震撼させた理由は、ゲームそのものではなく、新たに開発された専用ハードウェアにあった。
風が肌を撫でる感触、耳に届く音、鼻をくすぐる匂い。
それらを含む五感のすべてを完全に再現するという、革新的な五感完全同期システム。
プレイヤーは仮想世界を、単なる映像や音声ではなく、文字どおり『もう一つの現実』として体験できるようになったのだ。
しかし、どれほど画期的な作品であっても、永遠に賑わい続けるわけではない。
サービス開始から三年。
かつて世界中のプレイヤーを熱狂させたそのゲームにも過疎化の波が押し寄せ、静かに終焉の気配が漂い始めていた。
そんな世界の最果て。
神域と呼ばれる場所の玉座の前に、ただ一匹の黒猫が佇んでいた。
大半のプレイヤーが人類側を選び、魔神を討ち倒す王道の英雄譚へと身を投じる中、その男が選んだのは、あえて「魔物」として生きる茨の道だった。
最弱クラスのただの猫から始まり、数多のプレイヤーを返り討ちにし、進化の階段を狂ったように駆け上がってきた男。
彼が目指したのは、世界を救う英雄になることなどではない。
この世界そのものを我がものとする、究極の覇道。
世界の根源たる『創造神』を弑し、その座を奪い取ること。
魔物プレイヤーの真の到達点ともいえる、神域の簒奪だった。
そして今、その野望が果たされようとしていた。
神域を揺るがす死闘の末、黒猫の振るった鋭い爪が創造神の心臓を穿つ。
致命の一撃を受けた創造神の肉体は、無数の光の粒子となって崩れ去った。
直後、黒猫の視界をシステムログが埋め尽くす。
『創造神の討伐を確認』
『報酬:「女神の欠片」を獲得しました』
『条件達成。最終進化の限界を突破します』
報酬として獲得した「女神の欠片」が、黒猫の目の前に現れた。
それは淡い光を放つ小さな結晶だった。
黒猫が口に含むと、欠片は舌の上で溶けるように消え、膨大な力となって全身へと流れ込んでいく。
次の瞬間、漆黒の肉体から黒き神気が噴き上がった。
その身に宿る力が急激に膨れ上がり、存在そのものが新たな段階へと押し上げられていく。
そして、黒猫は究極の獣たる『亜神』へと新生を果たした。
世界のすべてを統べる力を手にした、その瞬間だった。
だが、その力はあまりにも巨大すぎた。
創造神という世界の根幹を失った上に、システムの許容量を遥かに超える『亜神』という存在が生まれたことで、ゲーム世界そのものが悲鳴を上げ始めたのだ。
神域の空間に亀裂が走る。
一本、また一本と広がる亀裂は、やがて空を覆い尽くし、世界を形作るあらゆるものを呑み込んでいった。
足元の大地が砕け、玉座が崩れ落ちる。
黒猫が何かをする間もなく、世界は暗黒の裂け目へと沈んでいった。
そして、男の意識もまた、深い奔流の中へと呑み込まれていった。
◇ ◇ ◇
全身を撫でる風の感触。
鼻腔をくすぐる土と草木の匂い。
そして、空気そのものに溶け込んでいるかのような濃密な魔力。
それらを感じ取り、漆黒の黒猫はゆっくりと瞼を開いた。
頭上に広がっていたのは、果てしなく高い青空だった。
どこまでも澄み渡る空には白い雲が浮かび、周囲からは木々のざわめきや鳥の鳴き声が聞こえてくる。
作り物のテクスチャとは思えないほど、生々しい世界。
いや、これは本当に作り物ではないのかもしれない。
「にゃぁ……っ!?」
思わず漏れた声に、黒猫は驚いた。
口から出てきたのは、慣れ親しんだ青年の声ではない。
どこからどう聞いても、ただの愛らしい猫の鳴き声だった。
黒猫は前足を口元に当て、そのまま固まった。
ゲーム時代、魔物種族のプレイヤーは【言語翻訳】や【念話】といったスキルを用いることで、ほかのプレイヤーやNPCと意思疎通を図っていた。
最終進化にまで至っていた男にとって、人間と会話することなど息をするのと同じくらい自然な行為だった。
それが、今はできない。
正確には、発動させようとしても、これまで使っていたスキルの感覚が見つからないのだ。
まるで、頭の中にあったはずの何かが、ごっそりと抜け落ちてしまったかのようだった。
しかし、いつまでも驚いているわけにはいかない。
男は一度深呼吸をすると、金色の瞳を細め、周囲の状況を確認し始めた。
そこは、見上げるほど巨大な樹木が立ち並ぶ大森林だった。
木漏れ日が苔むした巨岩を照らし、足裏の肉球には湿った土の冷たさが伝わってくる。
木々の隙間を吹き抜ける風には、草木の青臭さと土の湿り気が混じっていた。
何より異常なのは、周囲に満ちる魔力の濃さだった。
空気を吸い込むだけで、その中に含まれる魔力の存在をはっきりと感じ取れる。
さらに、遠く離れた場所で小動物が枝を踏み折る音さえ、耳が拾い上げていた。
五感完全同期を謳っていたゲームでさえ、ここまでの感覚はなかった。
男は周囲を見渡しながら考える。
ゲームの世界が崩壊した直後に、見知らぬ森で目覚めた。
しかも、目に映る景色も、体に伝わる感覚も、これまでとは明らかに違っている。
どうやら、単なるゲーム内の転送ではなさそうだった。
そこで、ふと自身の前足に視線を落とす。
黒い毛に覆われた、小さな前足。
見慣れた猫の肉球が、そこにあった。
しかし、その大きさがおかしい。
創造神との決戦時、男は【超巨大化:Lv-】を発動させ、天を衝く竜王と真正面から取っ組み合えるほどの巨躯で戦っていた。
その効果が解除されているだけなら、まだ理解できる。
だが、今の体は最終進化時の本来の大きさよりも、遥かに小さかった。
地球の街中で見かけるような、ごく普通の黒猫。
ゲームを始めたばかりの頃と、ほとんど変わらない大きさだった。
男の胸に嫌な予感がよぎる。
限界突破の進化ログは、確かに表示されていた。
それなのに、声は出せず、体も小さくなっている。
まさか、積み上げてきた能力がすべて失われ、初期状態に戻されてしまったのだろうか。
男はすぐさま意識を集中させ、自身のステータスを呼び出した。
すると、目の前に半透明の文字列が浮かび上がった。
ーーーーーーーーーー
[個体名]ナイト・アルファ
[種族]亜神/猫魈
[権能]【森羅万象】
[称号]「獣王」「魔王」「妖王」「世界の天敵」
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男は思わず目を疑った。
スキルが、たった一つしかない。
かつて画面を埋め尽くしていた膨大なスキルツリーは跡形もなく消え去り、そこには【森羅万象】という権能だけが刻まれていた。
しかし、種族は確かに『亜神』となっている。
進化そのものが失敗したわけではないらしい。
男は戸惑いながらも、【森羅万象】の文字列へと意識を集中させた。
すると、まるで最初から知っていたかのように、その権能の仕組みが脳裏へと直接流れ込んできた。
魔力を対価として、世界の法則に縛られることなく、あらゆる事象を引き起こす力。
それが【森羅万象】だった。
かつて愛用していた全属性魔法も、超巨大化も、索敵も、念話も。
そのすべてが【森羅万象】という一つの権能に統合されていたのだ。
個別のスキルを発動させるという仕組みそのものが、亜神となった男には必要なくなっていた。
なるほど、そういうことか。
男はようやく納得した。
先ほど声が出なかったのも、今までと同じ感覚で発声用のスキルを使おうとしていたからだ。
それならば、やり方を変えればいい。
男は喉の奥を鳴らし、【森羅万象】へと意識を向けた。
スキルを探すのではなく、自分の思念を言葉として周囲に響かせる。
ただ、その現象を思い描く。
「あー……テスト、テスト。ふむ、ちゃんと喋れるな」
静かな森に、青年の落ち着いた声が響いた。
今度は猫の鳴き声ではない。
ゲーム時代から慣れ親しんだ、自分自身の声だった。
どうやら、発声にも問題はないらしい。
もっとも、猫の姿で人語を話していれば、周囲から奇異の目を向けられることは容易に想像できる。
必要がなければ、普通の猫として振る舞った方がよいだろう。
「さて……問題は、この体がどこまでゲーム時代の動きを再現できるか、だな」
男、ナイト・アルファは右の前足を握りしめ、能力の検証を始めることにした。
まずは、身体の大きさを変えることからだ。
ナイトは【森羅万象】を介して、自身の肉体の質量と空間占有率を変化させるイメージを浮かべた。
すると、小さな黒猫の体がみるみるうちに膨張していく。
大型犬ほどの大きさから、さらに熊ほどの巨体へ。
周囲の木々に体がぶつかりそうになったところで、ナイトは変化を止めた。
どうやら、大きさの調整は思いのままらしい。
しかも、以前のようにスキルを発動させる必要もなければ、段階的に大きさを切り替える必要もない。
ナイトは再び体を縮め、元の黒猫の姿へと戻った。
無駄に木々を倒して目立つのも馬鹿らしい。
それに、普段から巨大な姿でいるよりも、この小さな体の方が落ち着く。
ひとまず、普段の大きさはこれでよいだろう。
続いて、身体強化を試すことにした。
以前であれば、専用のスキルを発動させて身体能力を底上げしていた。
しかし、今は違う。
ナイトは【森羅万象】を通じて、体の隅々へと魔力を巡らせた。
血管に血を通わせるように、魔力が全身へと行き渡っていく。
すると、全身の細胞が膨大なエネルギーで満たされ、筋肉の一本一本が鋼のように引き締まる感覚があった。
試しに軽く地面を蹴ってみる。
ほんのわずかに力を込めただけで、体は驚くほど軽やかに動いた。
続けて前足を振るうと、爪の軌跡に沿って空気が鋭く震えた。
力の加減を間違えれば、周囲の地形まで変えてしまいかねない。
それほどの力が、小さな猫の体に宿っていた。
身体強化も問題なし。
しかも、以前のスキルのような発動までの時間や制限時間を気にする必要もない。
意識するだけで自在に強化でき、まるで元から備わっていた身体能力のように扱える。
次は魔法だ。
ナイトは基本となる六つの属性を思い浮かべた。
火、水、風、土、光、闇。
その瞬間、周囲に六つの小さな魔力球が浮かび上がった
。
ゆらめく紅蓮の火球。
澄み切った水の球体。
青白く渦巻く風球。
硬質な土の球。
柔らかな光を放つ光球。
そして、周囲の光を吸い込むような漆黒の闇球。
六つの球体はナイトの意思に従い、頭上でゆっくりと円を描きながら回転している。
詠唱も、魔法陣も必要なかった。
ただ思い描いただけで、すべての属性を完璧に具現化できたのだ。
もっとも、ここは森の中である。
火を放って森林火災でも起こしてしまえば、さすがに面倒なことになる。
ナイトは火球を含む五つの球体を消し、水の球体だけを残した。
試しに水球へ魔力を注ぎ込み、細く鋭い刃の形へと圧縮していく。
狙うのは、数歩先にある苔むした岩だ。
ナイトが意識を向けると、水刃は一直線に飛んでいった。
ヒュンッ!
鋭い風切り音が響く。
次の瞬間、岩が真っ二つに切断された。
ずれた岩の上半分が地面へと落ち、鈍い音を立てる。
切断面は、まるで刃物で切り分けたかのように滑らかだった。
ナイトはその様子を眺め、魔力の流れを確かめた。
威力は、込めた魔力量に応じて増大する。
そこまではゲーム時代と変わらない。
しかし、以前の【水魔法】では、威力の上限を突破するために【威力操作】や【魔法創作】といった別のスキルが必要だった。
今は、そのような制約が一切感じられない。
魔力量を調整するのも、形状を変えるのも、すべて自分の意思一つで行える。
しかも、注ぎ込める魔力量に明確な上限すら感じられなかった。
ナイトはさらに、別の実験を試すことにした。
頭上に小さな水龍を生み出す。
大きさは肉球ほど。透明な水で形作られた龍が、空中を泳ぐように身をくねらせていた。
ナイトは、その水龍が岩を貫通する様子を思い描いた。
すると、水龍は岩へ向かって飛んでいき、そのまま表面をすり抜けて反対側から現れた。
岩には傷一つついていない。
どうやら、貫通するというイメージが、岩を透過する現象として実現されたらしい。
ナイトは興味深そうに水龍を見つめた。
今度は、岩を食い破りながら突き進む様子を、より鮮明に思い描く。
すると、水龍は勢いよく岩へと突っ込み、激しい水音とともに岩肌を削り取っていった。
硬い岩が砕け散り、やがて向こう側まで貫く風穴が開いた。
同じ水龍であっても、術者のイメージによって結果が大きく変わる。
単に魔法を発動させるのではなく、思い描いた現象そのものを引き起こす。
これが【森羅万象】の本質なのだろう。
ナイトは満足げに頷くと、水龍を消し去った。
次に確認するのは、空間収納だ。
ナイトは足元に伸びる自身の影へと視線を向けた。
そこに、空間の裂け目が開く様子を思い描く。
すると、影がゆらりと揺れ、底の見えない暗黒の空間が口を開けた。
ナイトは近くに転がっていた小石を前足で拾い、その中へ放り込んでみる。
小石は音もなく影へと吸い込まれ、完全に姿を消した。
続いて、先ほどの小石を取り出す様子を思い描く。
すると、影の中から小石が現れ、地面へと転がり落ちた。
出し入れにも問題はない。
容量についても、今のところ底が見えなかった。
これなら、今後何かを持ち運ぶ際にも困ることはないだろう。
サイズ変更、身体強化、全属性魔法、空間収納。
一通り試してみた結果、どの能力もゲーム時代と同等か、それ以上の性能を発揮できることが分かった。
いや、性能が向上したというよりも、これまで存在していた制約そのものが取り払われたと考える方が正しい。
個別のスキルに縛られず、魔力とイメージだけであらゆる現象を引き起こせる。
まさしく、権能と呼ぶにふさわしい力だった。
ナイトは満足げに、三股に分かれた細い尻尾を揺らした。
さて、能力の確認はひとまず十分だ。
次は、この森がどのような場所なのか調べる必要がある。
ナイトは周囲の索敵を行おうとして、ふと動きを止めた。
そういえば、自分の気配や魔力はどうなっているのだろうか。
ゲーム時代、高位の魔物は【気配遮断】や【魔力隠蔽】といったスキルを使わなければ、その存在を容易に感知されてしまうことがあった。
今の自分は、創造神を超えるほどの力を持つ亜神である。
その気配を無防備に垂れ流していれば、周囲にどのような影響を与えるか分からない。
ナイトは改めて、自身の内側へと意識を向けた。
亜神となった肉体は、膨大な神気を驚くほど自然に内側へと留めていた。
しかし、完全に抑え込まれているわけではない。
ほんのわずかではあるが、神気と魔力が外へ漏れ出していた。
蛇口から水滴がぽたぽたと零れ落ちるような、ごく微量の漏出。
それでも、ナイトの持つ力を考えれば、周囲の生物にとっては十分すぎるほどの威圧感となっている可能性があった。
これでは、自分から危険な存在であることを知らせているようなものだ。
ナイトは【森羅万象】を意識し、漏れ出していた神気と魔力を完全に肉体の内側へと閉じ込めた。
同時に、周囲へ伝わる気配も抑え込む。
すると、先ほどまで微かに漂っていた異質な存在感が、跡形もなく消え去った。
今のナイトは、外見だけでなく、気配の上でも森の片隅にいる無害な黒猫と変わらない。
これなら、無駄に周囲を警戒させることもないだろう。
準備が整ったところで、ナイトは改めて索敵を開始した。
自身の魔力を大気へと同化させ、意識を全方位へ広げていく。
魔力は風が森を撫でるように、木々の間を静かに通り抜けていった。
すると、意外なことが分かった。
周囲数百メートルの範囲に、予想以上の数の生物反応があったのだ。
草陰の奥。
巨木の洞。
土の中。
そこには、息を潜めて身を隠す野生動物や魔物たちがいた。
しかも、その多くが微動だにせず、怯えたように身を震わせている。
ナイトは不思議に思い、少し考えた。
そして、すぐに原因へと思い至った。
先ほどまで、自分が無意識に漏らしていた神気だ。
この広大な森林を生き抜いてきた野生の魔物たちは、危険を察知する本能に優れている。
中には、わずかながら知能を備えた個体もいるのだろう。
そうした魔物たちが、ナイトの放つ神気から圧倒的な格の違いを感じ取り、恐怖のあまり身を隠していたのだ。
縄張りへ入り込んできたのは、見た目だけなら小さな黒猫。
しかし、その内側に潜む力は、彼らの理解を遥かに超えていた。
だからこそ、襲いかかるどころか、身動き一つ取れずにいたのだろう。
もっとも、今は神気も魔力も完全に隠している。
この場にいた個体たちはともかく、別の場所へ移動すれば、ナイトをただの小動物と見なす魔物もいるはずだ。
それならそれで構わない。
襲われたところで、どうにでもなる。
ナイトは怯える魔物たちへの興味を失い、さらに索敵の範囲を広げた。
数キロ。
十数キロ。
意識の網は森の奥深くへと伸び、木々の隙間を抜け、大地の起伏を越えていく。
やがて、森の外れに一本の道が見つかった。
木々の途切れた先に広がる平原。
そこを横切るように、一本の街道が伸びている。
どうやら、この森の近くには人の往来があるらしい。
ナイトはその街道へと意識を向けた。
すると、複数の生物反応が感知に引っかかった。
魔物の咆哮。
金属同士がぶつかり合う甲高い音。
そして、人間の切迫した悲鳴。
街道の上では、一台の馬車が魔物の群れに取り囲まれていた。
護衛と思われる者たちが武器を振るい、必死の防戦を繰り広げている。
どうやら、穏やかな状況ではなさそうだった。




