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神猫の気ままな異世界旅  作者: 趣味の黒兎Z
1章 駆け出し冒険者と黒猫の師匠

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01-09 森に迫る異変


 森の中に、朝の光が差し込んでいた。


 木々の隙間から伸びる陽光が、夜露に濡れた草を照らしている。枝の上では小鳥がさえずり、どこか遠くからは、風に揺れる葉の音が聞こえてきた。


「んん……」


 テントの中で、ルシアがゆっくりと目を開けた。


 慣れない寝床だったが、思っていたよりもよく眠れたらしい。身体を起こして軽く伸びをすると、足元で丸くなっていた黒猫が片目を開いた。


「おはようございます、師匠」


《ああ、おはよう。よく眠れたか?》


「はい! ちょっと背中が痛いですけど、ぐっすり眠れました!」


《そりゃよかった》


 ナイトは小さく欠伸をすると、尻尾をゆらりと揺らした。


 昨夜、森の奥で見つけた不自然な魔物の群れ。


 念のため夜明け前にも様子を確認していたが、相変わらず同じ一帯をうろついているだけだった。


 魔力の流れは不安定で、動きにも統一性がない。


 何らかの異常が起きていることは確かだが、少なくとも現時点では、こちらへ向かってくる気配はなかった。


(まあ、今すぐどうこうって話じゃなさそうだな)


 ナイトはそう判断すると、テントの出口へ目を向けた。


《ほら、そろそろ起きろ。外が騒がしくなってきたぞ》


「はい!」


 ルシアは寝具を片付け、ナイトを肩に乗せてテントを出た。


 外では、既に何人もの新人冒険者が起き出していた。


 焚き火のそばでは大きな鍋から湯気が上がり、昨夜と同じように、ガルドが新人たちへ声をかけている。


「おう、起きたか! 顔を洗ったら飯にしろ。今日は昨日より動くぞ!」


「はい!」


 ルシアが元気よく返事をすると、少し離れた場所から聞き慣れた声が飛んできた。


「おーい、ルシア!」


 振り返ると、レオンが片手を上げていた。


 金色の髪の間から覗く獅子の耳が、朝の光を受けて揺れている。


「おはようございます、レオンさん!」


「おう! よく眠れたか?」


「はい! レオンさんは?」


「俺もばっちりだぜ! 今日は魔物について教えてくれるんだろ? 楽しみだよな!」


 レオンはそう言って笑ったが、その尻尾は落ち着かない様子で左右に揺れていた。


 ルシアは少し首を傾げる。


「……緊張してます?」


「なっ、してねえよ!」


「本当ですか?」


「ちょっとだけだって!」


 思わず声を大きくしたレオンに、ルシアはくすりと笑った。


「私も、ちょっと緊張してます」


「……そっか」


「でも、一緒に頑張りましょう!」


「おう!」


 レオンが勢いよく頷く。


 その様子を肩の上から眺めながら、ナイトは小さく喉を鳴らした。


(さて、今日はどんな講習になることやら)



 ◇ ◇ ◇



 朝食と後片付けを終えた新人たちは、野営地の中央に集められた。


 ガルドは全員が揃ったことを確認すると、太い腕を組んで口を開いた。


「よし! 昨日は薬草の採り方や野営の基本を教えたな。今日は、森で魔物に遭遇したときの対処法を覚えてもらう!」


 その言葉に、新人たちの間から小さなどよめきが起こった。


「魔物と戦うんですか?」


 一人が尋ねると、ガルドは首を横に振った。


「違う。何度も言ってるが、お前らはまだ新人だ。魔物を見つけたからって、すぐに戦おうとするな」


 ガルドは地面に落ちていた枝を拾い、足元の土に簡単な図を描いた。


「森じゃあ、こっちが魔物を見つけるより先に、向こうに気づかれることもある。そんなとき、どうする?」


「武器を構える!」


 レオンが答える。


「間違いじゃねえ。だが、それだけじゃ足りん」


 ガルドは枝で図の一部を指した。


「まず周囲を確認しろ。敵が一体とは限らねえし、逃げ道を塞がれてる可能性だってある。それから仲間に知らせる。勝手に飛び出すのは一番駄目なやり方だ」


「なるほど……」


 レオンが真剣な表情で頷く。


「それと、逃げるときは背中を向けて全力疾走すりゃいいってもんじゃねえ。相手との距離や地形によっては、かえって追いつかれる」


 ガルドは新人たちを見渡した。


「今日は実際に魔物を観察して、その後で退避の訓練をする。危険がないよう俺たちが見ているが、遊び半分で参加するなよ」


「はい!」


 元気な返事が森に響いた。



 ◇ ◇ ◇



 野営地を出てしばらく歩くと、先頭を進んでいた一人の冒険者が片手を上げた。


 灰色の髪から三角形の耳が覗く、細身の猫獣人だった。


「ガルド、少し先にいる。三体だ」


「種類は?」


「ゴブリン。こっちには気づいてない」


「よし。全員、声を落とせ」


 ガルドの指示で、新人たちは足を止めた。


 猫獣人の案内に従って低い茂みの陰へ移動すると、少し離れた場所に三体の魔物が見えた。


 緑色の肌に、細い手足。


 粗末な腰布を身につけた小柄な魔物が、倒木の周りをうろついている。


「あれが……ゴブリン……」


 ルシアが小さく呟いた。


 絵や説明で知ってはいたが、実物を見るのは初めてだった。


 人間に似た形をしているのに、顔つきも動き方もまるで違う。


 そのうちの一体が、地面に落ちていた何かを拾って口へ運んだ。


「うわ……気味悪いな……」


 隣でレオンが顔をしかめる。


《見た目はともかく、今のところこっちに敵意はなさそうだな》


 ナイトの声に、ルシアは小さく頷いた。


「よく見ておけ」


 ガルドが囁く。


「あいつらは三体で動いてる。単独行動することもあるが、仲間が近くに潜んでる場合もある。だから、見えてる数だけで判断するな」


 一人の新人が恐る恐る手を上げた。


「ガルドさんなら、あの三体を倒せますか?」


「もちろんだ。だが、倒せるからって戦う必要はねえだろ?」


 ガルドは即答した。


「依頼で討伐するなら別だが、今日は講習だ。わざわざ危険を増やす理由はねえ」


 その言葉を聞いて、ルシアは改めてゴブリンたちを見つめた。


 魔物を見つけたら倒す。


 冒険者とはそういうものだと、どこかで思っていた。


 けれど、ガルドの考えは違うらしい。


「戦わないことも、大事なんですね」


《そういうことだ。勝てる相手でも、怪我をする可能性はあるからな》


 ナイトが静かに答えた。


 その後、新人たちはゴブリンの行動をしばらく観察し、気づかれないようにその場を離れた。



 ◇ ◇ ◇



「次は逃げる練習だ!」


 少し開けた場所に移動すると、ガルドは新人たちを数人ずつの組に分けた。


「俺たちが魔物役になる。お前らは周囲を確認して、安全な方向へ退避しろ。ただし、仲間を置いていくなよ!」


 最初の組が前へ出る。


 ガルドが合図を出すと、少し離れた茂みから先ほどの猫獣人が飛び出した。


「うわっ!」


 新人の一人が驚いて後ずさる。


 別の一人は反射的に走り出そうとしたが、ガルドの声が飛んだ。


「待て! そっちは行き止まりだ!」


 慌てて足を止めた新人が周囲を見回す。


 その間にも猫獣人は素早く距離を詰め、木の陰へ回り込んだ。


「はい、そこまで」


 猫獣人が足を止める。


「今のままだと、逃げる前に捕まってたね」


「す、すみません……」


「謝る必要はないさ。失敗するための訓練なんだから」


 穏やかな口調でそう言うと、猫獣人はガルドへ視線を向けた。


「次、いけるよ」


「おう! ルシア、レオン! お前らの組だ!」


「はい!」


「よっしゃ!」


 二人は他の新人たちとともに前へ出た。


 今回の組は五人。


 レオンが先頭に立ち、ルシアはその少し後ろへ並ぶ。


「いいか。相手がどこから来るかは分からねえ。よく見て判断しろ!」


 ガルドの声に、全員が頷いた。


 そして、合図が出された。


 最初に動いたのはレオンだった。


「右だ!」


 木々の間で何かが揺れたのを見て、声を上げる。


 しかし、その直後。


「残念。そっちは囮だよ」


「えっ?」


 背後から声が聞こえた。


 振り返ると、猫獣人がいつの間にか反対側へ回り込んでいた。


「うわっ!」


 一人の新人が悲鳴を上げる。


「こっちです!」


 ルシアは咄嗟に仲間へ声をかけ、木々の間に見えた隙間を指した。


 だが、走り出そうとしたところで、ナイトの声が響く。


《ルシア、足元》


「えっ?」


 視線を落とすと、進行方向には地面から突き出した太い木の根があった。


 慌てて足を止める。


 その一瞬の遅れで、猫獣人が目の前に現れた。


「はい、捕まえた」


「あっ……」


 ルシアは悔しそうに肩を落とした。



 ◇ ◇ ◇



「今のは悪くなかったぞ」


 訓練を終えた五人へ、ガルドが声をかけた。


「レオンは敵の動きにいち早く気づいた。ルシアも仲間に逃げ道を知らせようとしていたな」


「でも、捕まっちゃいました……」


 ルシアがしょんぼりすると、ガルドは豪快に笑った。


「はっはっは! 最初から上手くできる奴なんざいねえよ!」


 そして、レオンへ視線を向ける。


「ただし、レオン。お前は最初に見つけた気配へ意識を向けすぎた。敵が一体とは限らねえって、さっき教えただろ?」


「……はい」


「ルシアも同じだ。逃げ道を見つけても、足元を確認せずに走り出すのは危険だ。森じゃ転んだだけで命取りになる」


「はい!」


 ルシアは真剣な表情で頷いた。


 その後も組を入れ替えながら訓練は続いた。


 何度か繰り返すうちに、新人たちも少しずつ周囲を見る余裕が生まれてきた。


 レオンは仲間へ声をかけるのが上手く、逃げる方向を決めるのも早い。


 一方、ルシアは細かな変化に気づくのが得意だった。


 もちろん、どちらもまだ失敗は多い。


 それでも、朝のうちに比べれば確実に動きがよくなっていた。


《少しは慣れてきたみたいだな》


「はい! でも、シオンさんってすごく速いですね……」


 ルシアは少し離れたところで新人へ助言している猫獣人を見つめた。


 先ほど、ガルドが彼をシオンと呼んでいた。


《ああ。足運びも上手いし、気配を消すのにも慣れてる。いい斥候だな》


「斥候……」


《仲間より先に進んで危険を探したり、周囲の様子を調べたりする役目だ。ああいう奴がいると、ずいぶん助かるぞ》


「なるほど……!」


 ルシアは感心したように頷いた。


 冒険者にも、いろいろな役割があるらしい。



 ◇ ◇ ◇



 昼食を終えた後は、怪我人が出た場合の対応について学ぶことになった。


「魔物から逃げ切れたとしても、怪我をして動けなくなっちまったら意味がねえ」


 ガルドがそう言うと、後ろに控えていたエルフの女性が前へ出た。


 長い耳と淡い金色の髪が印象的な、落ち着いた雰囲気の女性だった。


「ここからは私が説明するわ。エルフィナよ。普段は攻撃魔法を担当しているけれど、簡単な回復魔法も使えるの」


 エルフィナは新人たちを見渡し、穏やかに微笑んだ。


「まず覚えてほしいのは、回復魔法があれば何でも治せるわけではない、ということね」


 彼女は自分の手のひらを見せる。


「軽い傷なら初歩的なヒールでも治せるけれど、深い傷や大きな怪我には、それ相応の魔力と技術が必要になるわ」


「回復薬があれば大丈夫じゃないんですか?」


 新人の一人が尋ねた。


「回復薬にも種類があるし、効果には限界があるわ。それに、必要なときに必ず手元にあるとは限らないでしょう?」


「確かに……」


「だから、まずは怪我をしないこと。そして怪我人が出たら、慌てず安全な場所へ運ぶことが大切なの」


 その後、布を使った止血や、動けない仲間を支えて移動する方法を教わった。


 途中で、二人の新人が回復魔法を使えることも分かった。


 一人は茶色い髪の少女、ミナ。


 もう一人は、少し気弱そうな少年のトーマだった。


 二人とも使えるのは初歩的なヒールだけで、魔力にもそれほど余裕はないらしい。


「私は、続けて使えるのは三回くらいです」


 ミナがそう言うと、トーマも小さく手を上げた。


「ぼ、僕は二回が限界だと思います……」


「十分よ」


 エルフィナは優しく頷いた。


「大切なのは、自分にできることと、できないことを理解しておくこと。無理をして魔力を使い切ってしまったら、今度は自分が動けなくなるかもしれないもの」


 その説明を聞きながら、ルシアは自分の手を見つめ考える。


(私も、いつか回復魔法を覚えられるでしょうか……)


 ルシアは少し考えた後、肩に乗っているナイトへ小声で尋ねた。


「師匠、私も回復魔法を覚えられますか?」


《ああ。興味があるなら、そのうち教えてやるよ》


「本当ですか!?」


 思わず声を上げてしまい、周囲の視線が集まった。


「ルシア?」


 レオンが不思議そうに首を傾げる。


「あっ、い、いえ! 何でもないです!」


 慌てて両手を振るルシア。


 肩の上では、ナイトが面白そうに尻尾を揺らしていた。



 ◇ ◇ ◇



 午後の講習が終わりに近づいた頃。


 森の奥で、それまで停滞していた魔物たちが動き始めた。



 ◇ ◇ ◇



 その変化に最初に気づいたのは、当然ながらナイトだった。


(……ん?)


 ルシアの肩の上で目を細める。


 昨夜から確認していた不自然な魔力反応。


 それらが、ほぼ同時に移動を始めていた。


 しかも、今までのように同じ場所をうろついているのではない。


 明らかに一方向へ向かっている。


(何だ? 急に動き出したな)


 ナイトは意識を広げ、森の奥を探った。


 魔物たちの動きは相変わらず不規則だった。


 木々の間をまっすぐ進む個体もいれば、突然立ち止まり、何もない場所へ噛みつくような動きを見せる個体もいる。


 だが、全体としては同じ方向へ移動している。


(……何かを追ってるのか?)


 さらに感知範囲を広げると、森の反対側から近づいてくる二つの人間の気配が見つかった。


 一人はもう一人を庇うようにして進んでいる。


 移動速度はかなり速い。


 普通の人間が森の中を走っているとは思えないほどだった。


(妙だな。こっちの二人も、あの魔物どもも)


 二人が何者なのかは分からない。


 ただ、魔物たちの進行方向を考えると、追われている可能性が高かった。


 もっとも、魔物の群れはまだ野営地へ向かっているわけではない。


 距離も十分にある。


 しかし、これほど大きな変化が起きた以上、何も知らせずにいるのはよくないだろう。


《ルシア》


「はい?」


《ちょっとガルドに話しておけ。森の様子がおかしい》


「森の様子、ですか?」


《ああ。さっきまで大人しかった魔物たちが、急に動き始めた。まだこっちへ来てるわけじゃないが、気をつけた方がいい》


 ルシアは表情を引き締めた。


「分かりました」


 そして、講習の片付けをしていたガルドのもとへ駆け寄った。


「ガルドさん!」


「おう、どうした?」


「あの、森の様子がおかしいみたいなんです」


「……森が?」


 ガルドの表情がわずかに変わった。


「どういうことだ?」


「この子が、森が騒ぎ出したって言ってます」


 そう言って、ルシアは肩の上のナイトを指した。


「……猫が?」


「はい!」


 ガルドは一瞬、目を丸くした。


 しかし、笑い飛ばすことはしなかった。


 ルシアの真剣な表情を見た後、ナイトへ視線を移す。


「ふむ……」


 そして、少し考え込むように顎へ手を当てた。


「動物は人間より先に異変に気づくこともある。特に森じゃ、馬鹿にできねえ話だ」


 ガルドは顔を上げた。


「シオン!」


「ん?」


 近くの木にもたれていた猫獣人が振り返る。


「ちょっと周囲を見てきてくれ。森の奥で何か起きてるかもしれん」


「何かあったの?」


「まだ分からん。だが、念のためだ」


「了解」


 シオンはそれ以上尋ねず、軽く地面を蹴った。


 次の瞬間には木の枝へ飛び移り、そのまま森の奥へ姿を消した。


「す、すごい……」


 ルシアが目を丸くする。


 ガルドはその様子を見て、小さく笑った。


「シオンはああいうのが得意だからな。何かあればすぐ戻ってくるさ」


 そして、改めてルシアへ向き直った。


「知らせてくれてありがとな。何もなけりゃそれでいい。だが、こういう報告は大事だ」


「はい!」


 ルシアはほっとしたように頷いた。


 肩の上で、ナイトが静かに目を細める。


(いい判断だな)


 ただの子供の言葉として片付けず、確かめる。


 それだけでも、引率役として十分に信頼できる人物だった。



 ◇ ◇ ◇



 それからしばらくして。


 西へ傾いた太陽が、森の木々を赤く染め始めた頃。


 シオンが戻ってきた。


 その表情は、出発したときよりも険しかった。


「ガルド。ちょっといい?」


「おう。どうだった?」


「……妙だね」


 シオンは声を落とした。


「森の奥から、動物が逃げてきてる。鳥だけじゃない。小型の獣も、普段ならあまり見かけない魔物もだ」


「魔物まで?」


「うん。何かから逃げてるみたいに見えた」


 ガルドが眉をひそめる。


「大型の魔物でも出たか?」


「それなら、もう少し逃げ方に偏りが出ると思うんだけどね。今回は広い範囲で動きがある。何が起きてるのかまでは分からなかった」


「……そうか」


「それと、気になることが一つ」


「何だ?」


「逃げてくる連中の中に、普段ならそう簡単に縄張りを離れない魔物がいた」


 シオンは森の奥へ目を向けた。


「少なくとも、いつもの森じゃないよ」


 ガルドは黙り込んだ。


 この森は、初心者向けの実地講習が開催される程度には安全な場所だ。


 もちろん魔物がいないわけではないが、危険な個体が大量に生息しているわけでもない。


 だからこそ、ギルドも講習の開催地に選んでいる。


 その森で、普段なら人間を避ける魔物まで一斉に移動している。


 明らかに異常だった。


「……分かった」


 ガルドは顔を上げた。


「講習はここまでだ。全員、野営地へ戻すぞ」


「街へ引き返す?」


「それも考える。まずは全員を集めるのが先だ」


 シオンが頷く。


「了解」


 ガルドは新人たちへ向き直ると、よく通る声を張り上げた。


「お前ら! 今日の講習は終了だ! 全員、荷物を持って野営地へ戻るぞ!」


 突然の指示に、新人たちは顔を見合わせた。


「えっ、もうですか?」


「何かあったんですか?」


「詳しい話は戻ってからだ! まずは俺たちの指示に従え!」


 いつもより厳しい声に、全員が口を閉じた。


 ルシアもレオンと顔を見合わせる。


「……何かあったみたいだな」


「そうですね……」


 ルシアは肩の上のナイトへ視線を向けた。


《どうやら、思ったより騒ぎが大きくなってるらしいな》


 ナイトは森の奥を見つめていた。


 先ほどまで一方向へ進んでいた魔物の群れが、徐々に散らばり始めている。


 そして、その一部が野営地のある方角へ向きを変えつつあった。


(……面倒なことになりそうだ)



 ◇ ◇ ◇



 野営地へ戻った頃には、日がかなり傾いていた。


 ガルドは新人たちを集めると、森で異常が起きている可能性を説明した。


「いいか。今のところ何が起きてるかは分からねえ。だが、森の奥から動物や魔物が逃げてきてるのは確かだ」


 新人たちの間に緊張が走る。


「じゃ、じゃあ、街に戻った方が……」


「ああ。それも考えた」


 ガルドは頷いた。


「だが、街までは徒歩で四時間ほどかかる。今から出発しても、途中で日が暮れる」


「……!」


「夜の森を、慣れてねえお前らを連れて移動するのは危険だ。まして、何が起きてるか分からねえ状況じゃな」


 ガルドは一度言葉を切った。


「だから、今夜はここで守りを固める」


「ここで……?」


「ああ。この場所は昨日、俺たちが安全を確認して選んだ。周囲の地形も把握してる。闇雲に森を歩くよりはずっといい」


 新人たちは不安そうに顔を見合わせた。


 そんな中、ガルドは仲間の三人へ視線を向けた。


「ヴァルク、入口側を頼む。シオンは周囲の警戒を続けてくれ。エルフィナは壁を作ってくれ」


「了解」


 短く答えたのは、剣を腰に下げた人族の男だった。


 がっしりした体格で、落ち着いた表情をしている。


 彼がヴァルクらしい。


「分かった。気になる動きがあればすぐ知らせるよ」


 シオンも頷く。


「壁の配置はどうする?」


 エルフィナが杖を手に尋ねた。


「入口側を残して、左右と後方を囲ってくれ。全部塞ぐと、何かあったときに逃げられねえからな」


「分かったわ」


 エルフィナは杖を地面へ向けた。


 足元に魔力が集まり、地面が小さく震え始める。


 次の瞬間、土が盛り上がり、野営地の周囲に分厚い壁が形作られていった。


「おおっ……!」


 新人たちから驚きの声が上がる。


 エルフィナは壁の高さと厚みを確かめながら、慎重に魔法を調整していた。


 やがて、野営地の左右と後方を囲う土壁が完成した。


 正面には出入りできる場所が残されている。


「これで少しは守りやすくなるわね」


「ああ、助かる」


 ガルドは頷くと、新人たちを見渡した。


「お前らは勝手に動くな。何かあっても、俺たちが指示するまでこの場所を離れるんじゃねえぞ」


「は、はい!」


 返事は揃っていたが、その声には明らかな不安が混じっていた。


 ルシアも胸の前で両手を握りしめる。


「本当に、何か起きてるんですね……」


《ああ。ただ、今のところ慌てる必要はない。ガルドたちも十分に強いからな》


 ナイトの声に、ルシアは小さく頷いた。


《それと、ルシア。ちょっとこっちに来い》


「はい?」


 ルシアは周囲を見回すと、他の新人たちから少し離れた場所へ移動した。


 ナイトは近くに人がいないことを確かめ、前足を軽く動かした。


 すると、足元の影から小さな瓶が四本、音もなく現れた。


 赤みを帯びた液体が入った瓶が二本。


 それから、淡い青色の液体が入った瓶が二本。


「師匠、これは……?」


《上級回復薬と魔力回復薬だ。ガルドに渡しておけ》


「ガルドさんに、ですか?」


《ああ。何が起きるか分からないからな。使わずに済むならそれでいいが、持っておいて損はない》


「分かりました!」


 ルシアは四本の瓶を大切そうに抱えると、ガルドのもとへ駆け寄った。


「ガルドさん!」


「ん? どうした?」


「これ、使ってください!」


 ルシアは抱えていた瓶を差し出した。


「……こいつは?」


「回復薬と魔力回復薬です。師匠から、何かあったときのためにって渡されました!」


 ガルドは瓶を受け取り、目を細めた。


「……おいおい。これ、上級回復薬じゃねえか?」


「はい!」


「はい、じゃねえよ。こんなもん、気軽に渡すような品じゃねえぞ?」


 思わず声を上げるガルド。


 近くにいたエルフィナも、驚いた様子で瓶を覗き込んだ。


「本当ね……。しかも、魔力回復薬、こっちも上級だわ」


「でも、怪我をした人がいたら大変ですから」


 ルシアは真剣な表情で言った。


「師匠も、こういうときに使うためのものだって」


 ガルドはしばらくルシアを見つめていたが、やがて大きく息を吐いた。


「……分かった。ありがたく預からせてもらう」


 そして、瓶を慎重にしまい込む。


「詳しい話は後で聞く。今はこいつが必要にならねえことを祈るだけだな」


「はい!」


 ルシアが頷く。


 少し離れたところでは、ナイトが何食わぬ顔で毛づくろいをしていた。


(まあ、あれくらいならいくらでも用意できるしな)


 もちろん、そんなことを知る者はここにはいなかった。



 ◇ ◇ ◇



 日が沈み始めると、野営地の周囲には魔除けのお香が焚かれた。


 昨日と同じ、独特の香りが漂い始める。


「これがあれば、魔物は近づいてこないんですよね?」


 新人の一人が尋ねた。


「弱い魔物ならな」


 ガルドが答える。


「だが、万能じゃねえ。だから見張りも立てるし、武器も準備する」


 その説明を聞きながら、ナイトは漂ってくる香りへ鼻を向けた。


(……やっぱり、効果はせいぜいレベル三十くらいまでか)


 昨日、確認したとおりだった。


 普通の低級魔物なら、この香りを嫌って近づかなくなるだろう。


 しかし、森の奥で暴れている魔物たちは事情が違う。


 魔力が乱れ、正常な判断すらできていない。


(あの状態じゃ、匂いを嫌がる余裕もなさそうだな)


 お香だけで防げるとは思えなかった。


 それに、もう一つ問題がある。


 異常な魔物から逃げてきている中には、お香が効かない程度の強さを持つ個体も混じっていた。


 もっとも、そうした魔物は数えるほどしかいない。シオンの言う「そう簡単に縄張りを離れない魔物」というやつだろう。


 そもそもこの森に、それほど強い魔物は多くないのだ。


(……まあ、ガルドたちなら対処できる…か)


 ナイトは周囲へ目を向けた。


 ガルドは大盾を構え、ヴァルクは剣を抜いている。


 シオンは木の上から森を見張り、エルフィナは杖を手にしたまま周囲を警戒していた。


 四人とも、先ほどまでの講習中とは雰囲気が違う。


 長年の経験を持つ冒険者らしい、落ち着いた緊張感があった。


 その後方では、新人たちが一か所に集められていた。


「みんな、なるべく固まってようぜ」


 レオンが声をかける。


「何かあっても、勝手に走り出すなよ。今日の訓練でも言われただろ?」


「う、うん……」


「分かってるけど、怖いよ……」


「俺だって怖いさ」


 レオンはそう答えた。


 その声は、少しだけ震えていた。


「でも、バラバラになったらもっと危ねえだろ。だから、みんなで一緒にいようぜ」


 その言葉に、何人かの新人が頷いた。


 ルシアもレオンの隣へ並ぶ。


「私も、できることがあれば手伝います!」


「おう。頼りにしてるぜ、ルシア!」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑った。


 その様子を見て、ナイトは満足げに目を細める。


(いい感じだな)


 だが、その直後だった。


 森の奥から、何かが近づいてくる気配がした。



 ◇ ◇ ◇



 最初に聞こえたのは、枝が折れる音だった。


 ぱきり。


 続いて、草木を踏み荒らすような音が響く。


 シオンが木の上で耳を立てた。


「……来る」


 その一言で、ガルドたちの表情が引き締まった。


「数は?」


「100以上!かなり速い!」


「全員、構えろ!」


 ガルドの声が響く。


 新人たちが一斉に息を呑んだ。


 森の暗がりから、一体の魔物が飛び出してきた。


 四本の脚を持つ、灰色の獣。


 狼に似ているが、普通の狼よりも一回り大きく、背中には硬そうな毛が逆立っていた。


「……グレイウルフ?」


 ヴァルクが呟く。


 しかし、その魔物はガルドたちへ襲いかかってこなかった。


 野営地の手前でわずかに進路を変え、そのまま脇を駆け抜けていく。


 続けて、別の獣が茂みを飛び出した。


 こちらも人間には目もくれず、必死の形相で走り去っていく。


「……逃げてる?」


 エルフィナが眉をひそめた。


「ああ」


 ガルドは大盾を構えたまま、森の奥を睨んでいた。


「あいつら、俺たちを相手にしてる場合じゃねえって顔だったな」


 シオンが木の上から声をかける。


「ガルド。後ろから、まだ何か来る」


「分かってる」


 ガルドは低く答えた。


 森の奥から聞こえる音が、徐々に大きくなっていく。


 何かが木々を掻き分け、地面を蹴り、こちらへ近づいている。


 ルシアは思わずナイトを見た。


「師匠……」


《ああ。来たな》


 ナイトの金色の瞳が、暗い森の奥を捉える。


 そこにいるのは、昨夜から様子のおかしかった魔物たちだった。


 身体から漏れ出す魔力は乱れ、動きも不自然だ。


 そして、その進路は――。


(……こっちに向かってるな)


 次の瞬間。


「ギィィィィッ!」


 耳障りな叫び声とともに、一体の魔物が茂みを突き破って現れた。


 普通のゴブリンよりも大きな身体。


 発達した腕と、異様に膨れ上がった筋肉。


 ホブゴブリンだった。


 だが、その様子は明らかにおかしかった。


 目は血走り、口元からは泡混じりの涎が垂れている。


 腕や首筋には不自然に血管が浮き上がり、身体を小刻みに震わせていた。


「……何だ、あいつは」


 ヴァルクが低く呟く。


 ホブゴブリンは周囲を見回した。


 その鼻先には、魔除けのお香の匂いが漂っている。


 しかし、魔物は一瞬たりとも怯まなかった。


 むしろ、野営地に集まる人間たちを見つけると、さらに大きく口を開いた。


「ギャアアアアッ!」


 そして、地面を蹴った。


「来るぞッ!」


 ガルドが大盾を構え、前へ踏み出す。


 その背後で、新人たちの悲鳴が上がった。


 魔除けのお香が漂う野営地へ、狂乱したホブゴブリンが一直線に突っ込んでくる。


 実地講習の二日目。


 本来なら安全に終わるはずだった夜が、今、牙を剥こうとしていた。

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