第2話 異貌の連れ子と弓
凱旋の隊列が丘を越えたとき、夕映えは草原を金と紫に染めあげていた。
半日の道を駆けて戻ってきた一行の目に、谷あいの窪地が見えてくる。
石を積み、木を渡して築かれた家々の群れ。部族が「冬の町」と呼ぶ、雪の季節の住まいである。
風よけの石垣が町をぐるりと囲み、煙突から幾筋もの細い煙がのぼっている。
夏の間、働ける者は天幕を携えて家畜とともに草原に出て、野営地で暮らす。この町に残るのは、身重や乳飲み子を抱える女、年老いた者、病む者、その他の理由で働けぬ者、わずかな護衛だけだ。病が重くなってからは、族長も町で暮らしている。
傷ついた者を運び、勝利の報せを携えて、アルトゥナイは町へ戻ってきたのだった。
いつもは静かな町から、赤子の泣き声と人々のざわめきが聞こえてくる。
「帰ってきたぞ。弓姫が戻られた!」
物見の石塔に立つ老兵が叫ぶやいなや、冬の町はたちまち沸き立った。
戸口から人があふれ、身重の女は腹を庇いながら駆け寄り、赤子を抱いた女たちは喜びの声を上げた。
老人は杖を振り、病み上がりの者は戸口の柱にすがって目を細めた。幼い子らは、母の裾を抜け出して裸足で馬のまわりを駆けまわった。
「アルトゥナイさま!」
「二本の矢を一度に射たというのはまことか」
「敵将の喉を百歩の遠矢で射抜いたそうだぞ」
幾本もの手が、彼女の鐙に、ラジの鬣に伸びてきた。
幼い少年が頬を紅潮させながら黒馬の脚に触れ、「ぼくも弓姫になる」と叫ぶと、どっと笑いが起きた。
アルトゥナイは微笑み、手を上げてそれに応えた。
笑顔のまま、胸の奥が冷たく軋むのを感じた。
井戸端で馬を降り、水桶でラジに水を飲ませる。
桶の面に、自分の顔が映って揺れていた。
癖のないまっすぐな黒髪。深い茶色の瞳。みなに比べて平らかな面立ち。
草原の血を引く者たちは、大抵は亜麻色や栗色の髪と琥珀色の瞳を持つ。喝采に沸く人々の中で、自分だけが別の絵から抜け出してきたかのようだった。
水面や鏡を見るたびにアルトゥナイは痛感する。
(私は草原の者ではない)
おそらくは血筋からして違う。アルトゥナイのような色と容姿は、南の大国カルカに多いとされる。
思い返すに、幼い日の記憶は断片の寄せ集めだ。
南部であろう国境近くの貧しい村。押し寄せてきた馬蹄の轟きと、くすぶる炎と煙の匂い。手を引く母の必死な声。
ガタゴトと揺れる荷車と、見知らぬ男たち。母子は匪賊にさらわれ、商人の手に渡った。やがて北の草原へ入り、羊や毛皮と同じように売られた。
そこからまた別の商人に引き渡され、今度は西へ進んだ。
カルカ人の女、もしくはそれに近い容姿の者は、西方では珍しいため高値で売れる。商人は、母子を生粋のカルカ人として触れ回った。
隊商が進む先にあったのがサラクス・イルガで、長旅で疲弊した母子を買い取ったのが族長のナジフだった。
ナジフは母のジェンを自分の妻にした。カルカの女は若く見えるし、すでに子供もいる。経産婦なら、また子供を産めるだろうと期待したのだ。ジェンに否も応もなかった。奴隷にされたり、また売られたりしないだけマシという程度のことだった。
ナジフはジェンの連れ子を、母子が来た夜に雲の切れ間から金色の月が顔を出したことにちなんで「アルトゥナイ」と名付けた。
ジェンはこの土地の気候や水が合わなかったのか、徐々に弱っていった。サラクス・イルガに来て一年後に病で亡くなった。
ナジフはアルトゥナイをそのまま養い続けた。
アルトゥナイは四、五歳で馬を乗りこなし、すでに弓の才能を見せていた。戦士の素養がある者を部族は手放さない。
母がアルトゥナイに遺したものは、一つの形見と一つの謎だった。
形見とは青い石の首飾り。
透きとおる石には細かな文様が刻まれているが、何を表すのかはわからない。
母はこれが何であるのか教えてくれなかった。
ただ「何があっても決して手放してはいけない」と、病の床で何度も繰り返した。以来、アルトゥナイは眠るときも弓を引くときも肌身離さず身につけている。
謎とは、アルトゥナイの左の手首から前腕に刻まれた刺青である。
藍と朱、碧、そして金。幾種もの色が絡みあい、蔓のような、羽根のような、流れる水のようでもある紋様が肌に走っている。
母は誰にも見せてはいけないと言い、いつもそっと彼女の服の袖を下ろした。刺青の意味を尋ねても、悲しげに首を振るばかりだった。
草原の民の間では、罪人や奴隷の顔や腕には焼印が押され、粗い墨が入れられる。所有する部族の紋だったり、犯した罪を表す太線だったりするが、一度刻まれると一生消えない烙印となる。
ならばこれも奴隷の証なのか、とアルトゥナイは怯えた。
誰かの持ち物であった証。誰かに所有された印。それにしては美しすぎるとも思うのだが……。
だから彼女は、どんなに暑くても長袖の服を着て肌を晒さなかった。女たちと過ごすときも、着替えや水浴びは一人離れて行った。人前では常に手の甲から肘までを覆う革の腕当てを着け、刺青を隠している。
母の腕に刺青はなかった。なのに、どうして自分にはあるのか。
考えれば考えるほど気が滅入ってくる。アルトゥナイは、知らず知らずのうちにため息をついた。
「姫。族長がお呼びじゃ」
セダの声に、彼女はハッとして顔を上げた。
「わかった」と反射的に答える。やることができてホッとした。
ラジを連れ、町の一番奥にある石造りの館へ向かう。
厩舎にラジをつなぎ、息を整えて分厚い木の扉をくぐる。
父の部屋に入ると、薬草と獣脂の匂いが重く澱んでいた。
奥の毛織物を重ねた寝台に、老人が横たわっている。
かつては草原に名を轟かせた猛将ナジフ。
今は病を得て、落ちくぼんだ眼窩と浮き出た頬骨ばかりが目立つわびしい老人だ。
ナジフはアルトゥナイを見ると、待ち構えていたように上半身を起こした。
「……勝ったそうだな」
「はい、父さん。ご安心ください。敵はすべて退けました」
「怪我はないか」
「ありません」アルトゥナイは首を横に振り、微笑んでみせた。
「敵はどこの者だ」
「旗も部族の印もありませんでした。何者かはまだ……」
ナジフの眉がわずかに寄った。「ドルガンではあるまいが……」と呟いた。
アルトゥナイの脳裏を、ベルクトの顔がよぎった。
やがてナジフは部屋をゆっくりと見回した。乾いた唇がほころぶ。
「お前はわしの自慢の子だ。誉れ高き最後の娘だ」
アルトゥナイの喉は詰まった。
この部屋の壁には、いくつもの形見が掛けられている。
折れた槍に端が欠けた兜、色褪せた飾り帯。
サラクス・イルガは戦士の一族で、男も女も戦場に出て戦う。人口が少ないこともあり、そうしなければ生き残れなかった。
ナジフは三人の息子と二人の娘をすべて戦で、あるいは小競り合いで負った傷がもとで失った。血を分けた子は、一人も残らなかった。最後に残り、誰よりも弓の腕が優れているのが、異人の風貌をした末娘だった。
ナジフは諦念に満ちた声で言った。
「わしはもう長くない」
「そのようなことを。悲観は悪い精霊を呼び寄せます」
「いや、聞け。もはや冬を越せるかどうかもわからぬ。長老たちも覚悟しておる」
節くれだった手が、毛布の上で震えながらアルトゥナイの手を握った。
「次はお前だ、アルトゥナイ。お前がサラクス・イルガを率いるのだ」
「……」
草原では、血筋は重要視されない。そのことはわかっている。部族を率いる長には常に強き者が立つ。ナジフが長になったのも、彼が男衆の中で一番強かったからだ。
しかし、人の情として、自分に近しい者を後継にしたい気持ちもある。不足がないのなら、娘を次の族長に推すのは当然だった。
アルトゥナイは頷くことも、首を振ることもできなかった。
黙ったまま、父の乾いた手を両の手のひらで強く包んだ。
「孫の顔を見ることは叶わぬだろう。しかし、そのきざしくらいは見てから旅立ちたい。わしの願いだ」
「それは……」
アルトゥナイは悄然と俯いた。心は鉛を縛り付けられたように沈んでいく。
館を出ると、夜気が頬を撫でた。空は冷たく澄み、頭上の星の数は数えきれない。
父が病に臥せった昨年ごろから、囁きは耳にしていた。
「長が倒れれば、次は弓姫か」
「見事な腕だが余所者だぞ。一番の狩人とはいえ……」
「だが、ほかに誰がいる」
誰もあからさまな悪意は口にしない。が、どの声も彼女を「この部族の者」とは呼ばなかった。
(私にこの部族が背負えるのか)
血の一滴も分かち合わぬ自分が、部族の命運を預かるなど許されるのだろうか。許されたとして、背負いきれるのだろうか。
肩にのしかかる重みは、仔馬を抱いて眠った幼い夜とは比べものにならない。
気がつくと、足は射場に向かっていた。
月の淡い光の下に、藁束の的が十、二十と並んでいる。
アルトゥナイは練習用の弓を取り、矢をつがえた。
一度引く。ひょうと放つ。
空気を裂く音のあと、乾いた音を立てて矢が的に突き立った。もう一本。もう一本としゃにむに射続ける。
弦を引くたび、胸のざわめきが静まっていく。
首飾りの石が揺れ、胸を打つ。鼓動が昂ぶり、腕当ての下に隠された紋様まで脈打つようだ。
指の皮が裂け、血が滲んでも、彼女は止めなかった。
矢をつがえ、息を止め、狙って放つ――その瞬間、世界は研ぎ澄まされ、血も出自も期待も重圧もどこかへ吹き飛んでしまう。
幼い頃からそうだった。余所者と囁かれるたびに、一心に弓を握った。弓は、自分がここにいてよい理由となった。
何十本目かを射終えると、手を止めて、町の外れを振り返った。
人家の灯からも離れた場所に、ぽつんと小さな天幕が張られている。入口の幕の隙間から、柔らかな明かりがこぼれていた。
(……起きているのかな)
アルトゥナイはあの人を思った。弓を握る指先が、少しだけ温かくなった。




