第1話 疾風の迎撃戦
初夏の草原は、朝の光の中で息をしていた。
雪解けの水を吸い上げた若草が、一夜のうちに丈を伸ばしたかのように、天と地のあわいをびっしりと埋めている。
朝露を孕んだ羽根草の銀の穂が風にたわみ、よもぎの苦い香が立ちのぼり、波うつ緑の海の彼方に冠雪した峰々が蒼の稜線を描いている。
上空では雲雀が高く螺旋を描き、澄みわたったさえずりが朝の静寂に溶けてゆく。
だが自然の美しさは、人にとって決して優しいものではない。
この地では、夏の陽は肌をじりじりと炙り、夜は骨まで染みるように冷える。
昨年の冬、白い災いが一夜にして三百の羊を奪っていった。水場が一つ涸れれば命の綱が断たれ、飢えた狼は仔馬の匂いを嗅ぎつけて夜ごと丘を巡る。
草原は恵みの園であると同時に、生き残れる強さを持つ者だけを生かす厳粛な戦場でもあった。
その波の頂を、一頭の黒馬が滑るように渡っていた。
艶やかな毛並みは夜の水面のごとく光を弾き、疾駆するたびに筋肉が鋼のようにうねる。
馬の名はラジ。この地の特産である「斑風馬」の一頭だ。俊足で駆け、特に南では騎馬として重宝されている。
斑風馬は鹿毛や栗毛、まだらやぶちが主流だが、ごくまれに黒馬も生まれる。
ラジの背には、馬と同じ色を持つ乙女が跨っていた。
頭頂で結われて垂れた黒髪が、尾を引く彗星さながらになびく。
乙女の名はアルトゥナイ。
風の道を知る草原の部族「サラクス・イルガ」にあって「金の月」を名に持つ娘である。
「姫、あまり前へ出られるな」
背後から、しわがれた声が追いかけてきた。
目付け役の長老セダだ。白い髭を朝風に晒し、自分と同じく年老いた栗毛を駆って彼女の横に並ぶ。
この老人はアルトゥナイが馬群の見回りに出るたびに、影のようにつき従っている。
「わかっている。でもセダ、今日の風は……何かおかしい」
彼女はしきりに鼻をひくつかせた。
よもぎの清冽な香りの奥に、獣ともつかぬ、鉄と汗の匂いが混じっている。
ラジが耳を前へ向け、低く鼻を鳴らした。丘の斜面で朝草を食んでいた仔馬たちが一斉に顔を上げる。
旋回する金鷲の影が、鋭い羽音とともに地上を低く掠めた。
次の刹那、地平が震えた。
丘の稜線を黒い波が越えてくる。幾つもの騎影だった。
一つ越えるごとに数が膨らみ、やがて稜線そのものが黒く溶け出したかのようだ。土煙が巻き上がり、蹄の轟きが聞こえてくる。
旗は見えない。部族を示す羽根飾りも頭巾の色も、見たことのないものだった。馬具の飾り紐は一本残らず切り落とされ、毛皮の外套も無地である。
どこの者とも知れぬ男たちが、獣じみた喚声をあげ、まっすぐに馬群へなだれ込んでくる。
「盗人か。いや、数が多すぎる。あれは戦の備えじゃ」
セダが唸り、信じられぬというように首を振った。
「まさか。ここへ刃を向ける者はおらぬはず……」
牧童たちの悲鳴が上がり、逃げ惑う仔馬の嘶きがそこかしこから聞こえた。数百頭の馬群が恐慌に陥り、地鳴りのような蹄の音が渦を巻く。
「行かなくちゃ」
アルトゥナイは叫んだ。
もし馬を奪われれば、サラクス・イルガは冬を越せない。
彼女は肩越しに手を回し、背負った短弓に触れた。
幼い日から幾千、幾万と引き絞ってきた弦の感触が、指先に勇気を灯す。
敵を前にして武器を構えぬ者に、誰が居場所をくれるだろうか。自分は戦士だ。戦わなければここでは生きられない。かつて胸に刻んだ思いが、闘志の火花を散らす。
「ラジ」
鋭く名を呼ぶと、黒馬は応えるように首を振った。弾かれたように駆け出す。
アルトゥナイは手綱を放した。膝だけで馬体を操り、背の弓を取る。疾駆する馬の背は荒海に浮かぶ小舟にも似ている。
彼女にとっては、その揺れこそが足場だった。鐙に立ち、腰で拍子をとる。
馬の四肢が地を離れる一瞬、すべての蹄が宙に浮く刹那に弦を放つ。幼い頃から身体に染み込ませてきた騎射の呼吸だ。
ひょうと弦が鳴り、先頭の騎兵が鞍から弾け飛んだ。
矢は続けざまに飛んだ。右へ、左へ射ち続ける。
ラジが斜めに身を翻し、敵の隊列の外縁を駆け抜けるたび、アルトゥナイは上体をひねって背後へ射る。
追いすがる騎兵の喉に、胸に、馬の眼窩に鏃が食い込んでいく。敵の槍が届くより早く、彼女は間合いの外に出た。走り続け、かわし続ける。引いては放ち、放っては駆ける。それは戦というより、風と矢が織りなす舞のようだった。
しかし敵は多かった。そして戦場慣れしている。
敵は倒れた者を踏み越えた。後続が左右に翼を広げる。
アルトゥナイを包囲する統率された動きだ。男たちの黒い顎が閉じようとしていた。
彼女は鞍の上で、静かに息を整えた。
矢筒から二本取り出す。指の間に挟み、一つの弦に並べてつがえる。
一弦二矢。
これはサラクス・イルガの伝説の弓の名手でさえ、成し得なかった業である。
敵はアルトゥナイが理解できない言葉を叫んでいる。
並んで迫る二騎の間隙を見極めた瞬間、指が離れた。
放たれた二条の矢は、空気の抵抗を受けてわずかに扇状に開き、並び立つ敵兵の胸元と喉へ同時に突き立った。
次の瞬間、二つの身体が鞍から吹き飛ぶ。男たちの喚声が尻すぼみに消えた。
「……なんじゃ、今のは」
追いすがってきたセダが目を剥く。
それもつかの間、ほころびを塞ぎ直した敵の網が、横合いから押し寄せてくる。
「姫、お退きなされ!」
老人は叫び、老骨に鞭打って突っ込んだ。長槍が繰り出され、一騎を馬上から払い落とした。
頭上を、金鷲が甲高い鳴き声をあげて旋回した。
直後、大きな騎影が飛び込んできた。
雷鳴のような馬蹄を轟かせ、巌のごとき大男が反りの深い大剣を肩に担ぐようにして、敵の槍衾へ真正面から突っ込む。
「ベルクト!」
アルトゥナイは男の名を呼んだ。
鉄が鉄を打つ。幾合かの交錯の後、押し負けた者の骨が砕ける鈍い音がした。
大剣がひと薙ぎされるごとに、馬上の男が藁人形のように寸断されて宙を舞う。
ベルクトは突き出された三本の槍を柄ごと鷲掴みにして引き寄せ、持ち主たちを鞍から引きずり落とした。返す刃で、落ちた男たちを馬蹄の下へ叩き伏せる。血飛沫が若草を濡らし、朝の陽に赤く光った。
彼は岩が波を割るように、敵の群れを押し分けていく。
刃を受け、傷を負い、それでも前進する。足を止める気配はない。
あまりの迫力に、敵の馬が怯えて後ずさった。ベルクトが振り返りざまに叫んだ。
「下がれ、アルトゥナイ! お前一人で受ける数じゃない!」
「余計なお世話!」
叫び返しながら、彼女の口元には知らず笑みが浮かんだ。
ベルクトが大剣で押し開いた道が今、アルトゥナイの眼前にまっすぐに伸びている。
敵将までの一直線の隙間。風が導くように、ラジがその道を駆け抜けた。
距離が詰まる。
敵将は、ひときわ大きな黒鹿毛に跨っていた。
毛皮の兜、鉄の胸当て、傲然と上げた顎。彼との間は百歩あまり。アルトゥナイは鐙の上に身を起こし、息を止め、弦を耳もとまで引き絞った。
――世界が止まる。
蹄の音が遠のく。叫び声が遠のく。風の中の一筋の道と、その先にいる男の剥き出しの喉だけが見えた。
「――風よ」
一気に放つ。
矢は朝の金の光を曳いた。
絶妙な間合いと疾走の勢いを乗せた一撃が、風に抱かれてまっすぐに伸びる。敵将の顎の下、喉の窪へ吸い込まれてゆく。
男は、何が起きたのか理解する間もなかった。ただ目を見開き、手綱を取り落とし、ゆっくりと鞍から崩れ落ちた。
敵将の死を悟った瞬間、敵陣に恐慌が走った。
騎兵たちは口々に喚きながら、潮が引くように馬首を返した。丘の向こうへ一目散に逃げていく。
逃げ遅れた数騎を、ベルクトの大剣が背後から一刀両断した。騎兵たちが鞍から転げ落ち、戦の趨勢は決した。
息を潜めていた牧童たちが、草むらから飛び出してきた。
ようやく我に返って歓声をあげた。
「勝った……!」
「弓姫だ、アルトゥナイさまが賊を蹴散らした!」
声の渦の中で、アルトゥナイはラジの歩みをゆっくりと緩めた。
弓を下ろした指が、かすかに震えている。熱い。身体の芯が燃えるように熱い。
ラジの首筋は汗に濡れ、荒い息とともに湯気が立ちのぼっている。
上空では相変わらず金鷲が旋回している。
ベルクトの相棒のデデだった。若い雄で、金鷲にしては小ぶりな個体である。地上の争乱が収まると舞い降りてきて、ベルクトの肩に収まった。
血と土と草の匂いを風が吹き散らす中、ベルクトが馬を寄せてきた。身体のあちこちに傷を負い、返り血で顔の半分を染めたまま、じっと彼女を見つめる。
「……二本、同時に射たな」
「見ていたの」
「見えないはずがあるか」
ぶっきらぼうに言い捨てながら、男の目には隠しようのない畏れと熱が揺れていた。
アルトゥナイは、思わず目を逸らした。
ベルクトの頑健さ、勇猛さは尊敬に値する。彼が駆けつけて道を開いてくれなければ、敵将を射ることはできなかった。
だが、彼が向けてくる視線は痛かった。それこそ矢が突き刺さるようだ。
セダが、肩で息をしながら追いついてくる。
「姫。このセダ、長く生きてきたが、これほどのものは……」
見たことがない、と言いかけて言葉を詰まらせ、老人は眩しそうに目を細めた。
アルトゥナイは答えず、ただ遠い地平を見つめた。
斃れた敵の馬の鞍には、飾り紐を切り落とした痕が残っていた。あの旗なき軍勢はいったい何者だったのか。
誰が、何のために、この草原へ血を運んできたのか。
風がまた吹いた。どこか遠くで、誰かが歌っているような音だった。
それは、町はずれの天幕であの人が口ずさむ歌に似ていた。




