第3話 鉄血の許嫁
翌朝の空気は、昨日の血の匂いを洗い流したかのように、澄みきっていた。
夜露を宿した石畳と屋根の苔が、昇りはじめた陽を受けて宝石のようにきらめく。
家々の煙突からは朝餉の煙が立ちのぼり、赤子をあやす女たちの声と、井戸端で水を汲む老人たちの声が混じって流れてくる。
勝利の翌朝はいつもこうだ。誰もが軽やかな声で話し、少しだけ浮かれている。
ナジフも今朝はいくぶん顔色がよかった。
薬湯をすすり、アルトゥナイの挨拶を喜び、なんでもないことに「そうか、そうか」と言って笑った。
その笑顔がかえって重く感じられた。手のひらに残る父の体温をまだ振り払えずにいる。
木の扉を押し開けると、大柄な青年が立っていた。
館の石柱に背をもたせ、腕を組んでいる。アルトゥナイが出てくるのを待っていたらしい。
広く厚い肩に、陽に灼けた精悍な顔。頬には、昨日の戦で負った傷に布が巻かれている。
深い鳶色の髪は無造作に束ねられ、切れ長の目は獲物を見定める猛禽のように鋭い。
肩にはデデが止まっている。ほかの鷲と区別するためか、首に青の小さな襟巻を巻いていた。鷲なのに妙に愛らしい姿になっている。
ベルクトだった。彼は長年敵対してきたドルガン・ボラト部の長の四男にして、アルトゥナイの許嫁である。
通りすがりの町の者たちが、彼に感謝とも警戒ともつかぬ視線を投げては足早に過ぎていく。
(またか)
アルトゥナイは表情を消し、無言のまま歩き出そうとした。
「おい」
低い声が行く手を遮った。
「……なに?」
「長の具合は」
「今朝は悪くない」
「そうか」
それきりベルクトは黙りこんだ。
彼はいつもそうだ。不愛想で言葉が少ない。必要なことを必要なときだけ、石を投げるように放る。気の利いた言い回しも、女を喜ばせる甘い囁きも持ち合わせていない。
だが、デデが羽毛を揺らすと彼はぽつりと言った。
「昨日の矢は見事だった」
アルトゥナイは内心驚いた。彼が他人を褒めるのを初めて聞いた気がした。
「……あなたの剣もね」
「当然だ」
素っ気ない返答の裏にかすかな熱があった。
ベルクトは、アルトゥナイより二つ年上の二十歳。八つの歳に、サラクス・イルガに連れてこられた。
ドルガン部は、炉の火を絶やさぬ鉄の民だ。
彼らの鍛えた剣や鏃は、草原のどの部族にも行き渡り、高値で取引されている。
十二年前にドルガン部と和睦したとき、アルトゥナイとの婚儀の盟約が成った。当時すでにナジフの実子はみな世を去り、残っていたのは幼いアルトゥナイだけだった。
ドルガンの長の息子が婿としてやってくることになった。要するに人質である。
ナジフは年長の三人の息子のうちの誰かを寄こすよう求めたが、長は大事な戦力である息子たちを手放したがらず「歳が近い方がいいだろう」と言って四男のベルクトを送ってきた。
ドルガン部は末子が跡を継ぐ習わしで、六男と七男のどちらかが後継と目され大事にされていた。五男は幼く、部内の力関係もあって外へは出されなかった。兄たちと弟たちに挟まれたベルクトだけが、放り出される形になった。
サラクス・イルガの長老たちが欲したのは、ドルガン部の製鉄の技術だった。娘婿としてやってくる少年と、彼に従う一派は労働力となり、鉄の技も伝えてくれると期待したのである。
だが、ドルガン部の者たちはベルクトを送り届けると、用は済んだとばかりに一人残らず帰ってしまった。身の回りの世話をする下男すら残らなかった。護衛さえつけず、彼を切り捨てたも同然だった。
見知らぬ土地の見知らぬ家。言葉こそ方言程度の違いしかないとはいえ、誰も知る者のない集落に少年は置き去りにされた。
以来十二年、彼はこのサラクス・イルガで暮らしてきたが、「この部族の者」と呼ばれることはなかった。
(……私と同じだ)
彼に抱く共感を、アルトゥナイは急いで押し殺す。
サラクス・イルガでは、通い婚が一般的である。
男が女のもとへ通い、女が戸を開いて迎え入れ、一夜を共にすればそれで夫婦と認められる。
冬の町なら家の戸口、夏の草原なら天幕の垂れ幕。扉を開くかどうかは女の意志で決まる。大抵は子供ができてから披露目があり、正式に祝言を挙げる。
ここ数年、ベルクトは幾度となくアルトゥナイの戸口を訪れた。そのたびに、アルトゥナイは戸を閉ざし、彼を受け入れようとはしなかった。
「今夜、行く」
彼は岩のような声で言った。
「無駄よ」
アルトゥナイは冷たく返した。
「なぜだ」
「開けないから」
「俺はお前の許嫁だ」
「知っている」
「ならば、なぜ」
ベルクトの眉間に深い皺が刻まれた。
怒りというよりは、どうすればいいか見当もつかず途方に暮れた者の顔だった。
「俺はお前の夫になるためにここへ来た」
「そうだけど……」
「俺がドルガン部の出自だからか。俺の父や兄が、お前の兄や姉を傷つけたからか。それを言うなら、お前たちだって――」
「違う」
アルトゥナイは乱暴に遮った。
ベルクトが言いたいことはわかる。今更、血を血で洗った過去を蒸し返す気はない。
「許嫁だからって夫ヅラしないで」
ベルクトが息を呑む。動揺が伝わったのか、デデが襟巻の端を震わせて身じろぎした。
少しして、彼は困惑気味に言った。
「何を言っているのかわからん」
アルトゥナイは、頬が熱くなるのを感じた。確かに意味の通らないことを言ってしまった。
ベルクトは許嫁であり、夫になる男だ。内心の好悪はどうであれ、父もみなも許嫁としての彼は認めている。ベルクト以外の男が、アルトゥナイの戸口を訪うことは許されない。
アルトゥナイ自身も、なぜこれほど腹が立つのかわからなかった。とにかく許嫁と呼ばれるたびに、言い知れない悪寒のようなものを覚えてしまうのだ。
誰かのものと呼ばれること。腕当ての下に隠している謎の刺青。誰かに「所有された印」かもしれないものが、重たい影となって圧し掛かってくる。
「……お前は何が不満なんだ」
ベルクトの声が大きくなった。
「俺は入り婿で、お前はサラクスの姫だ。決められた相手同士、うまくやるのが筋だろう。俺はお前を粗略に扱うつもりはないし、今後もサラクス・イルガのために戦う。それでは足りんのか」
ベルクトの言葉はまっすぐで嘘がなかった。だからこそ、アルトゥナイは苦しくなった。
実家に見捨てられた男が、この地に根を張るために居場所を築こうとしている。そのためには、アルトゥナイの「扉」を開いて、正式に夫婦にならねばならない。子をもうけて部族に溶け込むほかない。
ベルクトはドルガン部には戻れないのだ。それは痛いほどにわかる。わかっていて、なお割り切れない……。
「筋で扉を開く気はない」
「では、何で開く」
アルトゥナイは答えられなかった。
自分でも言葉にできない何かが、喉の奥につかえている。
腹立ちの正体はわからない。ただ、これだけは確信している。
――自分の心は、別のところにある。
彼女は唇を引き結び、背を向けた。
「待て」
「話は終わりよ」
短く言い捨てると足早に歩きだした。
*
ベルクトは去ってゆく女を見つめながら、その場に立ち尽くした。
遠ざかる細い背中。きりりと縛られて揺れる黒髪。誰にも屈さないまっすぐな背筋。
昨日、あの背中に命を預けてもいいと思ったのだ。
一弦二矢を放つ彼女の凛々しい姿が、陽に透ける翼のように目に焼きついて離れない。
それなのに、そばに寄ろうとすれば激しい拒絶に遭う。
あまりにも理不尽な仕打ちであり、彼女の頑なさが理解できなかった。
どうすれば、彼女の扉は開くのか。
すぐそばで金鷲が鳴いた。ベルクトは、指先でそっと頭を撫でた。
「……お前にもわからんか」
答える者は誰もいない。




