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水中花の涙 ―31―


銀糸のような細い月が、闇色の海の上に浮かぶ。

さざなみが、寄せては引き、また、寄せては引く。

開け放たれた窓から、微かな塩の香りと、海の音。



――さざなみは大地の子守唄だね。



窓からかすかな月の光が差し込んで、服を脱いだアンの見事な身体を艶かしく浮き上がらせる。

アンはラズに覆いかぶさりながら、鼻の先に優しくキスを落とし、嫣然と微笑む。

そばかすひとつひとつにキスを落としていく。

そして、耳たぶをからかうように噛み、もてあそぶ。


「んっ!」


くすぐったい。

ラズの心臓が踊り狂う。



――貝殻を耳に当てると、海の音がするよ。



大きな手が、服の間から入ってきて、お腹を愛撫しながらゆっくり胸へと進む。



――眠る時は、この貝殻を耳に当てて眠るんだ。



アンの長く器用な手が、ラズの小さな胸をすっぽり包んだ。

もれそうになった悲鳴を、ラズは唇を噛んで必死に堪える。

しかし、アンはそれを許さない。

アンの唇がラズの唇を奪う。

ラズの声は、アンの口の中に吸い込まれていった。



――眠ったら、僕の夢を見て。



アンの金色の瞳が、暗闇の中に煌く。

猛禽類のような瞳。



――忘れないで。僕のこと。



おぼろげな記憶の中の小さな子供。

あの子の瞳も、金色だったような。

ふいに甦った記憶。

なぜ、今、こんな事を思い出すのだろう?


「……ラズ」


アンの顔が下がり、首筋、鎖骨、そしてさらに下へと唇が這っていく。


「え!? ちょ、ちょ、待って」


「待てない」


「――ん!」


ラズはアンの愛撫に翻弄されていく。

顔が上気して、目頭に涙が溜まる。

身体が熱い。

でも、今、聞かなくてはならない気がする。

あの子は貴方なの?

私とアンさんは昔、会ったことがあるの?


「待って、お願い、待って」


ラズは、アンの頭を掴むと、強引に目を合わせた。


「ラズ?」


「聞きたい事があるの」


「聞きたい事?」


「私とアンさんって昔に――」


「あの~」


その時、ラズの声を第三者が遮った。

……第三者?


ラズはベッドの端にゆっくり視線を送る。


「夜分に失礼します~」


ラズは目を見開いた。

どうして、なぜ、彼がこんな所に!?


そこに居たのは、小さな名もなき村の教師、ナアダだった。

頭頂部の薄いしょぼくれたナアダが、ベッドの端に座っていた。


「お忙しいところ~、申し訳ないのですが」


お忙しいところ?

ラズはアンに組み敷かれている状態。

そう、ラズとアンはまさに今――!

ラズの顔が、身体が、恥辱で一瞬にして真っ赤に染まる。


1拍。


けたたましい悲鳴が、夜の城に響き渡った。



* * *



「本当に、すみません~」


ナアダが頭に大きなたんこぶを作って、ラズに謝る。

たんこぶはもちろんアンに殴られたのだ。

現在もアンに睨まれて、脂汗をしきりにかいている。

おそらく一生恨まれるだろう。


「娘の事が心配で、心配で、居ても待っても居られなくなったのです~」


ナアダは、ラズたちが村を旅立った後も、上の空で教鞭にも身が入らなかった。

げっそりとやつれていくナアダを見て、心配した村人たちが、娘に会いに行くように勧めてくれたのだ。


「本当、ごめんなさいね。朝まで待てばいいものを、この人ったらコソ泥みたいなまねをして」


と、相変わらず美しいナアダの奥さんが、呆れたように笑った。

子爵邸の外は警備兵に囲まれていたはずだが、娘命のナアダは楽々と窓から侵入して、ラズたちの部屋に忍び込んだのだ。

小さな町の教師がとる行動じゃない。


「娘に会えますか?」


「……今は、眠っていると思いますよ」


「側に居たいんです」


ナアダは悲しそうに笑った。

もしかして、ナアダは娘の身に起こった事をすべて知っているのではないだろうか。とラズは顔をあげて、ナアダの奥さんに視線を移した。

奥さんは、ラズとしっかり目を合わせ、ゆっくり頷いた。

ああ、やっぱり。

何となくだけと、わかった気がする。

魔法の指輪の契約者たちは、遠く離れていても、どこかで繋がっているのだろう。


ラズは、わかりました、と頷くと、ナアダ夫妻をロサの眠る部屋まで案内した。



* * *



「奥さんは入られないのですか?」


ロサの部屋に入ったのはナアダひとり。

奥さんは入室を拒否した。


「ええ、あの人をあの子と二人っきりにしてあげたいの」


ラズは、ドアの外から、ナアダがロサの側に座ったのを確認すると、静かにドアを閉めた。

ドアを閉めても、ナアダの寂しそうな背中が、目の前にちらつく。


「……私、あの子と血の繋がりがないの」


静かな廊下に、奥さんの声が溶け込む。


「え?」


「私ね、あの子が羨ましかった」


ナアダの奥さんは寂しそうに笑う、まるで泣いているみたいに。


「あの人に、無条件で愛されるあの子が、羨ましかった。あの人は決して私を1番に見てはくれない」


ロサは、母のような美人に成りたかったと……。

その母は、ロサが羨ましいと……。


お互いにお互いを羨ましがる。


なんだか切ない。


ラズは老婆の事を思った。

老婆は、恋に悲しむロサを見て、幸せになって欲しくて美しくした。

そして、悲しむ女性たちに惚れ薬を渡した。

結果は、散々足るもの。

家族を助けたい一身で、罪のない子供を人身御供にしてしまった人々。

誰かが誰かを想って罪を犯す。

罪を犯した者も、守られた者も、両方に悲しい結果が待っている。


世の中、どうして上手くいかないのだろう。


「でもね……」


ラズのわびしい思考を、奥さんの明るい声が遮った。


「でもね、私はあの子を大切に想っているあの人に惚れたんだから、仕方ないわね。あの子が嫁ぐ日に、号泣するあの人を見て爆笑するのが私の夢なの」


奥さんは艶やかに笑った。



* * *



「父さん?」


明け方、懐かしい子守唄に揺り起こされたロサは、そこに居る人物を見て夢の続きを見ているのかと思った。


「ん?」


ナアダは、小さく微笑む。

懐かしい笑顔、懐かしい声。

ロサの胸がいっぱいになり、喉が詰まる。

小さな子供のように泣きじゃくった。


「……と、とうさん」


「うん?」


「ごめん、なさい」


ロサの目から次々と涙が零れ落ち、こめかみを濡らす。


「とうさん、ごめ、な、さい」


喉が痛い、胸が痛い。

父の寂しそうな笑顔がなにより痛い。

私は罪を犯した。

母のように美しくなりたかった。

父はただ寂しそうに笑う、あの時の様に。


「ごめん、なさい。わたし……とうさん、が、誇れるような、娘で、いたかった、のに、……ごめんなさい」


「……ロサ」


「うそをついて、人をだまして……」


ロサの目から涙が止まらない。


「とうさんを悲しませて、ごめんなさい」


「うん」


ナアダは、ロサの火傷を負っていない腕を撫でた。

ロサの懺悔に、何度も何度も頷きながら。



* * *



爽やかな朝とは言いがたい、なにやら不穏な空気。


「ねえ、クリシナ様どうしたの?」


昨夜、後処理に追われ城にいなかったオルマ子爵が、ラズに小声で囁いてみた。

なにやら大声で話すのも(はばか)れる、そんなささくれた雰囲気がアンを包んでいる。


「……えーと」


寸前でお預けを食らった、などと答えられない。

不貞腐れたアン。なんて大人気ないのだろう。


「まあ、なんとなく想像は付くわ」


「……そうですか」


「それにしても、困ったわね」


ハア、とため息をつくオルマ子爵。


「どうされたんですか?」


「町の人々が、この城に押し寄せてきているのよ」


ラズは眉間にしわを寄せた。

まさか、また『花珠様』を出せと言い出すのだろうか。

ロサは安静第一の状態だ。

不安が込み上げる。


「今度は、英雄クリシナ様を出せ、ですって」


「アンさんを?」


「どこからか漏れたのよ、この城にクリシナ様が居られるって。そしたらこの(たび)の奇跡はクリシナ様がもたらされた物だ、と歓喜しているのよ」


「なるほど」


「クリシナ様がバルコニーで爽やかに手を振ってくださる。それだけでいいの」


オルマ子爵とラズは、むっつり不貞腐れているアンに視線を向けた。

爽やかに? 

むしろ、やさぐれている。


「……無理よね」

「……無理ですね」


「ねえ、ラズちゃん。ここはキスのひとつでもしてかまして、ご機嫌をとってあげなさいよ」


「朝ですよ」


「だから?」


「だからって……」


今のアンは、キスひとつで終わらない。

きっと最後まで要求してくる。

朝から、それだけは勘弁して欲しい。


「根性なし」


「何とでもおっしゃって下さい」


「キイイ、これだから女は! 一度腹をくくってしまうとふてぶてしくなるのよ」


「女は三界に家なし、というでしょ。ふてぶてしくならないと生きていけませんよ」


「男はつらいよ!」


「オカマでしょ」


「上げ足を取らないで」


「……オルマ。ラズと仲がいいな」


ラズとオルマ子爵の漫才に、邪悪な声が降りて来た。

2人が見上げると不機嫌を通り越し、殺気だったアンが立っていた。


「あらヤだ」


かわいそうなオルマ子爵。

だらだらと脂汗を掻いている。


「オルマ、馬車を用意しろ」


「はっ」


「王都へ向かう」



* * *



ラズたち一行は、あっという間に旅立ちの時を迎えた。

町の人々が気づかないように、ひっそりとした旅立ちだ。

こんなにも迅速に旅立ちの準備が出来たのは、何もかにも、嫉妬に狂ったアンの仕業なのだが。

オルマ子爵がげっそりとやせ衰えているのは気のせいだろうか?


「せっかく会えたのに~残念ですね~」


ナアダ夫妻も、見送りに来てくれた。


「これ、娘からです~」


そっと手渡されたのは、貝殻に入った軟膏だった。

仄かに香る薔薇の匂いが、今回の事件の名残を思わせた。


「どんな傷でもたちどころ治してくれる不思議な軟膏だそうですよ」


「だったら、ロサが使うべきです」


ロサの火傷は一生跡に残る。


「娘は、決して使いませんよ~。身体の傷は、あの子の心を強くしてくれます。それに……」


ナアダが珍しく言いよどんだ。


「何なんですか~、あの男! 会ってそうそう、『お義父さん』って! 娘さんをお嫁に下さいって! 冗談じゃないですよ! 百歩譲っても、あなたがお婿さんにいらしゃ~い」


あの男。サディの事だ。

こんなに憤慨するナアダは始めて見る。

笑っちゃいけないのに、笑いが込み上げてくる。

美貌の奥さんは、ナアダを見つめ恍惚と微笑んでいらっしゃる。


サディは、前オルマ子爵の一粒種。

発覚したのは、ごく最近のこと。

これからどうなっていくかは、まだ分からない。

血を尊ぶ世襲制度が至当な貴族社会。

たとえ、本人が権利を放棄しても、周りがほうって置かないだろう。

しかし、サディとロサには幸せになって欲しいと願わずにいられなかった。


ちなみにサディの母親であるあの老婆は、煙のように姿を消したという。

あの老婆は、蜃気楼の幻だったのだろうか。


「それでは、そろそろ行こうか」


御車台に座ったアンの一言で、ラズはミチュを抱えて、馬車に乗り込む。

その後をユンユが続こうとした。

これでやっと女装から解放されるユンユは上機嫌だ。

ルンルン気分で馬車に足をかけた。


「ユンユちゃん、待って!!」


上機嫌のユンユに水をさしたのはオルマ子爵。

ユンユは、めんどくさそうに振り返った。


「……何でしょう、オルマ子爵」


もじもじするオルマ子爵に、ユンユは冷たい視線を投げた。

真っ赤な顔をしたオルマ子爵は、覚悟を決めると、ユンユを見つめた。


「ユンユちゃん!!」


「なんでしょう?」


「私のお嫁さんになってください」


「無理」


即答。


「ユ、ユンユちゃん!? ちょっとは考えてよ。貴女は私が始めて好きになった女性なのよ、いわば初恋。あなた意外に私のお嫁さんは考えられないは」


お嫁さん。その単語に寒気を覚えたユンユは、乱暴に鬘を取って、オルマ子爵に投げつけた。


「僕は男だ!」


「え?」


そして、ユンユは上着を脱ぎ捨て、上半身をオルマ子爵の前にさらした。

つるつるぺったんこ。

割れた腹筋、うっすらと筋肉が乗った身体は、紛れもなく、男。


「それじゃ、ごきげんよう。オルマ子爵」


そう言うと、颯爽と馬車に乗り込む。

アンが綱を引くと、馬車はぱっからぱっから走り出す。


呆気にとられたオルマ子爵が、覚醒する頃には、馬車は遥か遠く。


「何かしら、この言い知れない喪失感、そりゃ私は男が好きよ。でも? なんだか? 騙されたア?」


オルマ子爵はよよよよっと崩れ落ちた。

残された、金色の鬘。

まるで空蝉(うつせみ)のようだ。

オルマ子爵の初恋の人は、現身(うつせみ)の人ではなかった。

まさに幻。

はかなく散った初恋。


「私の甘酸っぱい初恋返してええええ!!」


一足早く、オルマ子爵の心に、もの侘しい秋風が吹き抜けていった。



* * *



所変わって、小さな名もなき村。



郷愁(きょうしゅう)をくすぐる稲の刈る匂い。

農作業を励む村人たちの掛け声。

子供たちの笑い声。


ユーアはゆっくりと目を覚ました。


「おや、目が覚めたようじゃな」


痩躯の老人が二カッと笑う。


「粥じゃ、食うか?」


ユーアがためらっていると、老人はかっかっかと笑った。


「毒など入っとりゃせんわい」


ユーアは疑わしそうに老人をねめつけた。


「そういう顔をしなさんな。3婆姉妹とて悪気があったわけではない」


と、いうのも、ユーアは小さな名もなき村に目的の人物がおらず、心労がたたってか、持病の胃痛がひどくなったのだ。

3婆姉妹は、ラズの助手をしていたこともあって、急いで薬棚から胃薬をユーア渡した。

しかし、3婆姉妹は間違えて、腹下しを渡してしまったのだ。

結果、知将と称えられるユーアは、しばらく寝込むことになってしまったのだった。


「3婆姉妹も、すまなかったと謝っておった。まあ、あの3婆姉妹に勝てる者はおらん」


似たような経験を持つ飄々とした老人も、どこか遠い目で笑った。

元気な3婆姉妹は、決して悪気はないのだが、人を翻弄してしまう癖があるようだ。


「……老婦人方に悪気がなかったのは分かっていますよ」


ユーアは人の悪意には敏感だ。

悪意があればすぐに感づいたはず。


「では、なぜそんなにワシを睨む」


「思い出したんですよ、貴方のことを」


「ほう、お若いのにワシのことをご存知か」


老人は関心じゃの~、笑った。


「書物の記録でだけ、知っているのです。なぜ貴方のような方がこのような鄙びた所に?」


老人は何も答えず飄々と笑った。



「お答え下さい。――大神官トメス様」




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