第三話:偽
一度狂ってしまったタガは、二度と元には戻らなかった。
裕太は一度削除したはずの梨沙の連絡先を再び復活させると、溺れるように連絡を取り合い、真由美の目を盗んではこっそりと密会を重ねた。
それからしばらくした、ある金曜日の午後。
妻に内緒で有給を取得した裕太は、梨沙のマンションを訪れていた。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋で、昼間からお互いの身体を求め合う。
裕太にとってそれは、あの夏の終わりに突然失われた「自分たちの時間」を、必死に取り戻すかのような行為だった。
「梨沙……」
「うん……」
抱きしめ合う暗がりのなか、気がつけば梨沙の目から涙が溢れていた。
――ドンドン!
突如として、静寂を破るような激しい音が鳴り響いた。
玄関のドアを狂ったように叩く音。それに被さるように、乱雑に連打されるインターホン。
心臓が跳ね上がるのを感じながら、慌てて服をかき集めて身にまとった裕太は、恐る恐るモニターを覗き込んだ。
そして、そこに映し出された姿に息を呑んだ。
液晶画面の向こうに立っていたのは、妻の真由美。
そして、その隣に見知らぬスーツ姿の男性が一人。
顔面蒼白で取り乱す裕太を余所に、梨沙はどこか落ち着き払った様子で、静かに玄関の鍵を開けた。
「真由美。久しぶり」
しかしドアが開いた瞬間、真由美の怒号が狭いアパートの廊下に響き渡る。
「アンタねぇ……! 裕太には二度と近づくなって、あの時あれほど忠告したはずだけど!」
鬼のような形相で掴みかからんとする真由美。だが、梨沙はその凄まじい剣幕を前にしても、口元に薄ら笑いを浮かべたまま動じない。
「……私は弁護士の高田と申します」
凍りつく空気の中、スーツ姿の男が丁重な手つきで名刺を差し出してきた。
真由美の方も、単身乗り込んできたわけではなかった。
「真由美……なんで、ここが……」
裕太はガタガタと震える声で、ようやくそれだけを絞り出した。
真由美の鋭い眼光が、裕太を真っ向から射抜く。
「アンタのスマホに位置共有アプリを入れといたのよ。絶対気づかないと思ったわ」
「真由美様はお二方への慰謝料の請求を断固として考えておられます。そして加藤様には、金輪際、裕太様とお近づきにならないようにと……」
高田弁護士の事務的で冷徹な言葉が、不倫の事実を現実のものとして突きつけてくる。
しかし、それでもなお、梨沙の余裕の表情は崩れなかった。
「よく言うわ、真由美。……私からゆうくんを奪ったくせに」
二人は、小学生時代からの幼馴染だった。
高校を卒業後、すぐに就職して社会に出た真由美。一方で、大学に進学し、そこで裕太という運命の相手と巡り会った梨沙。
「奪った? 酷い言い方するじゃん」
真由美は鼻で笑い、冷たく言い放った。
「小学生の頃からアンタには注意してきたはずだけど? アンタは昔からノロマで鈍臭いから、気をつけないといつか大事なものを失うよって。まさに自業自得じゃない?」
「自業自得? ……ふーん」
梨沙の鋭い視線が、真由美を見据える。
「私とゆうくんが些細なことで喧嘩して、少しすれ違っている間に近づいて酒に酔わせたのは誰? 『子供ができたから別れろ』って、凄んできた真由美に、そんなセリフ言われる筋合いはないけど」
「アンタッ……!」
逆上した真由美が、獣のような声を上げて梨沙に飛びかかり、その髪を乱暴に掴んだ。
「やめろ、真由美!」
我に返った裕太が、慌てて二人の間に割って入る。
――パーン!!
乾いた音が室内に響いた。
真由美の強烈な平手打ちが、裕太の頬を容赦なく捉えていた。
「アンタが……! アンタが一番許せないのよ……!」
「奥様、おやめください! 暴力はいけません!」
高田弁護士の鋭い制止に、真由美は肩を荒く上下させながら、辛うじて手を止めた。
不気味な静寂がアパートの一室を包み込む。
その静寂を切り裂いたのは、梨沙の低く冷ややかな声だった。
「真由美。あなた、あの時『妊娠した』って嘘をついたんだよね」
真由美の身体が一瞬、凍りついたように硬直した。
裕太の目が、見開かれる。
しかし真由美はすぐに、何食わぬ顔で開き直った表情を作ってみせた。
「は? 意味わかんない。ちゃんとみくが生まれたじゃない」
「違う」
梨沙は一歩も引かない。
「真由美は、ゆうくんを縛り付けるために、まず『妊娠した』って嘘をついたの。その後に帳尻を合わせるように、本当の子を妊娠したんだわ」
「それがどうしたのよ! だったら何? そんな大昔の妄想、証拠がどこにあるって言うのよ!」
ヒステリックに叫ぶ真由美の声が、裕太の耳の奥で反響する。
裕太はまるで金縛りにでもあったかのように、重たい口をゆっくりと開いた。
「嘘だろ……真由美……。俺は、何のために……何のために……」
裕太は真由美の肩を、壊れんばかりの力で強く掴んだ。
「うるさい! そんな過去のこと、今さらどうだっていいでしょ!? 現に今は私と結婚して、二人の子供も生まれたんだから……!」
掴まれた手を振り払おうとする真由美。だが、その横で高田弁護士の表情が、明らかに変わっていた。
「……いえ、奥様。もしそれが事実であれば、事情が大きく変わってしまいます。偽装妊娠による『結婚の強要』、およびそれに伴う『脅迫』が成立する可能性があり、婚姻自体が詐欺的な行為とみなされかねません」
「そんな……。ううん、大丈夫よ、証拠なんてあるわけないわ!」
真由美は狂ったように弁護士の言葉を否定し、すがるような視線を向ける。
その時、梨沙が不敵に笑った。
「ふふ。……証拠なら、あるよ」
突きつけられた決定的な一言に、まるでそこだけ世界の時間が止まったかのような静寂に包まれた。




