第二話:香
梨沙の後ろ姿を見つめながら、裕太は探るように後をついていく。
「なぁ、これどこに向かってんの?」
梨沙が振り返り、「私んち」と少し真剣な眼差しを向けてきた。
「あのさ……俺、結婚してるし子供だって――」
「……何回も言わなくても、分かってるよ」
慌てる裕太の口元に、梨沙がすっと人差し指を当てる。
『分かってる』の意味が、裕太には理解できなかった。ただ、さっき梨沙が見せた瞳と、頭をよぎる昔の思い出のせいで、突き放して放っておくこともできなかった。
しばらく歩くと、街の喧騒から少し離れた場所に梨沙のマンションがあった。
「家、変わったんだな。って、まあ当たり前か」
「うん。もう社会人だからね」
玄関をくぐった瞬間、ほのかに甘い石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。大学時代、梨沙がずっと好きだった匂いだ。一瞬で当時の二人の記憶がフラッシュバックする。
「どこでも座って」
梨沙に促され、裕太はリビングのテーブル席に腰を下ろした。テレビがよく見える位置だ。
「お酒、ビールでいい?」
「うん」
梨沙の部屋は白を基調とした家具や小物でまとめられた、いかにも女の子らしい空間だった。
おもちゃや子供服で溢れかえっている自分の家と、どうしても比べてしまう。裕太の胸の奥が、嫌な音を立ててざわつき始めていた。
「ゆうくん、本当に昔と変わらないね」
ビールを差し出しながら、梨沙が裕太の顔を覗き込む。優しく、どこか遠い目をした微笑み。
「……いや、テニス辞めちゃったから、マジで太ったんだけど」
梨沙の艶やかな口元に思わずドキッとして、裕太は逃げるように視線を逸らした。
「ううん、全然変わんない」
不意に、梨沙の細い手が裕太の太ももに置かれる。
「ちょっと……それはまずいだろ」
裕太は焦って、優しく梨沙の手を払いのけた。
「……ふふ」
梨沙が小さく笑う。
「洸平たちは元気にしてるのか?」
「知らない」
「え?」
「同窓会なんてないよ」
「じゃあ、なんで――」
問い詰める隙すら与えず、梨沙が奪うように裕太と唇を重ねてきた。
「……っ、どうしたんだよ」
「昔を思い出さない?」
場所は違っていても、あの頃と同じ匂い、同じ空気感。大学時代にふたりで過ごした時間が、脳内を駆け巡る。何度も、何度も肌を重ねたあの頃が。
「でも、ほら……俺たち……」
「……ウザい。今はこっちに集中して」
逃げようとする裕太を逃さないように、梨沙は首筋に腕を回した。
近すぎる距離。梨沙の熱い吐息が裕太の肌を包む。
「誰にも言わない。……絶対にバレないよ。ねぇ、今日、大丈夫な日だから……」
梨沙が裕太の手を掴み、自分の胸へと強く引き寄せた。
裕太に残されていたわずかな理性も吹き飛び、どちらからともなく服を脱ぎ捨て、ベッドに倒れ込む。
ふたりは何度も口づけを交わし、狂ったようにお互いを求め合った。
裕太は梨沙の唇からそっと顔を離すと、首筋、胸、そして滑らかな腹部へと徐々に顔を下げていく。
そして――。
「……んっ」
梨沙の反応は、あの頃のままだ。
溢れ出す梨沙の甘い匂いと、部屋を満たす石鹸の香りが、裕太を現実から完全に引き離していく。
「ゆうくん……もぅ……おねがい……」
耳元で響く艶っぽい甘い声と、肌と肌が重なり合うたびに生じる皮膚の熱、そして湿った滑らかな感触。
裕太は熱くなった身体を、梨沙の中にゆっくりと沈めていった。
もう止まらない。
止まれるはずがなかった。
妻や子供のことなど頭から吹き飛び、裕太はただ目の前の快楽に身を任せて、何度も、何度も情熱を打ちつけ続けた。
「……やっぱりゆうくんのことが、好き」
快楽の余韻と気だるさが裕太を覆う中、梨沙のその言葉が裕太を急激に現実へと戻していくのであった。
――
「ごめん、ちょっと遅くなった……。走ったから汗かいちゃって……」
自宅のドアを開け、裕太は誰かに言い訳をするように独り言を呟いた。
「みくもりょうちゃんも寝てるから、静かにして」
風呂上がりの姿で、真由美が出迎える。
「あぁ、ごめん。これ、お土産。コンビニのだけど」
裕太が差し出したスイーツの袋を受け取ろうとして、真由美の動きがピタリと止まった。
「……どうした?」
「……香水」
その一言に、裕太はハッと我に返り、頭の中で必死に言い訳を探した。
「あ、あのさ! 途中で同級生の女の子も来たりして……それ以上でもそれ以下でもないから! ほんとだよ!」
「先にお風呂入って。そんな女臭い身体で寝室に入ってほしくない」
「……うん、分かった」
風呂から上がり、寝室で二人きりになる。
真由美の表情は、どこまでも暗く冷ややかだった。
「スマホ見せて」
「……うん」
梨沙と別れた直後、帰り道で裕太は「権兵衛」のアカウントをすでにブロックし、削除していた。
「な、何もないだろ?」
少し強気に出てみせる裕太。だが、同窓会のやり取りをしていたはずのメッセージ履歴ごと丸々消えていることに真由美が気づいているとは、裕太は全く思いもしなかった。




