第四話 蠅魔獣
噎せ返る、暴力的なまでに濃い血の匂い。
森を進むにつれ、まず感じられたのはそれだった。
木々が騒めき、どことなく空気が冷たい。
じんわりと危機感と恐怖、死の気配が肌に纏わりついて離れない。
青々とした木々が奏でる葉擦れの音の向こうから、何かが蠢いていた。
「行く」
駆け出したアイリーンの後についていく。
少し遅れて、後ろからモーブもついてくる。
木々の間を抜け、30mほど進んだ辺り。
一体何人死んでいるのかも分からないほど、真っ赤な液体がペンキのように木々へ塗りたくられている。
アレが人の中身なのだろう。
周囲の木々は真っ赤に染まり、ピンク色の臓物が赤色だけの視界を二色で彩っている。
その血溜まりの中で、人の身体の一部を貪る醜悪な魔獣が居る。
全長7メートル近く。
全身を黒毛で覆い、頭にはねじれた双角。
人間のような腕が異様に太く、蠅に似ているくせに二対の翅を持つ巨大な黒蝿……だが、その口先は蠅の口吻ではなかった。
口が太く長く伸びているのは一緒だが、その先が違う。
肉を裂くための人間の歯らしき物が蠢き、血に塗れた腕で人の肉を毟り取って貪る。
体躯からは考えられないほど細い6本の蝿の脚を、血を気にすることなく地面につけている。
見た目は人間の腕で器用に死体を掴んで齧ると、一層血の匂いが濃くなり、生肉を喰らう湿っぽい音が森に響く。
“俺”が今まで見たどの生き物よりも醜く、醜悪な姿。
長く見続けていると、正気の方が危ない。
自身の食事場に入った侵入者に気がついたのか、蝿魔獣の巨躯がぐるりとこちらに向く。
その赤い複眼が“俺”達の姿を捉えた。
そう理解した瞬間、嫌悪にも似た怖気が走り、恐怖で呼吸が浅くなっていくのを感じる。
「落ち着いて」
アイリーンが、自身も落ち着けるように出した声で“俺”も我に返る。
“俺”も眩暈がするほどの血の匂いに耐えながら、口で浅く息を吸い、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「…落ち着いたところで、どうするか決めないとな」
モーブはそう言うが、蝿魔獣はこちらを見つけているはずなのに、何かを待つようにジッと見つめてくるだけで動かない。
“俺”達は目の前の魔獣の一挙一動を見逃さないように、誰に言われるまでもなくジリジリと階段の方へ下がっていく。
その間もジッと見つめてくるが、本体は動かない。
ふと、視界の隅に違和感を感じて剣を振るう。
何故振るったのか、と言われると難しいが勘だ。
さっき透明な蝿を斬ったアイリーンの行動を見て、不安になったせいかもしれない。
すると剣が何かを斬った感触を伝えてくる。
何もない空中から体液を撒き散らしながら、先ほど見た30cmほどの蝿が姿を現した。
「気をつけ…」
そこまで言うと、金属音と湿っぽい音が混ざったような不愉快な声を蝿魔獣があげる。
同時に不愉快な羽音を響かせながら、こちらに飛んできた。
目線を向けたまま動かなかったのは、このための時間稼ぎだったのか。
そう考える暇もなく、生理的嫌悪感と生存本能に引っ張られるように後方へ駆ける。
「逃げるぞ!」
逃げる。
その場で間違いなく、三人の共通認識だった。
身体に魔力を通して全力で元来た道へ踵を返す。
幸いなことに蝿魔獣は巨体故か木々に邪魔され、移動速度がそこまで速いわけではないらしい。
“俺”は先導しながら必死に剣を振り、小さめの木や枝を切り倒す。
真っ二つにはできないが、倒れる方向さえ作れば自重で倒れていく。
幹が1mほどの木が音を立てて折れ、倒れていくのを感じて一瞬振り返る。
当てることはできないと思うが、障害物程度にはなるはずだ。
しかし想定が甘かった。
蝿魔獣に当たる直前、虚空で何かが爆発し、木が粉々に砕け散る。
黒い外殻に当たる小さな木片を全く気にする様子もなく、一直線にこちらへ向かってくる。
「どうする!?このままじゃ追い付かれる!」
距離が近づいてきている。
移動速度が“俺”達より遅いとはいえ、こちらは先程の爆発する何かも警戒しなければならない。
どういう魔獣か分からない以上、他に飛び道具がないとも限らない。
「どうするって、逃げ切れないならどっかで倒すしかないだろ!」
モーブがキレるが、このまま逃げ続けるという選択肢はない。
何故ならここは塔の一層。
下は内街である。
上流階級の方々が住む場所、だ。
“俺”達が下に降りた場合、もしかしたら蝿魔獣までついてくる。
魔獣が階段を越えない保証はない。
最善の場合なら、階段付近にいた登塔家達と一緒に蝿魔獣を討伐して勝ち。
しかし最悪の場合、テロリストとして内街の都市防衛隊に蝿魔獣ごと粉砕される。
内街に魔獣を引き込んだと判断されれば、事情を聞かれる前に攻撃されてもおかしくない。
“俺”の場合、転生者としての自覚もある。
ダメだ。
殺される要素が多すぎる。
だが同時に、これはチャンスか、とも思いつく。
「モーブ!アイリーン!ここは“僕”に任せて先に行け!」
“俺”は立ち止まり、剣を構えて蝿魔獣を迎える。
脳裏に浮かんだ考え。
生きて帰れる保証もない。
ならばここで死んだことにして、全部終わらせるのも悪くない。
普通の行方不明では探されるかもしれない。
しかし蝿魔獣と戦って死んだことにすればどうだろうか。
死んだ人間のことを探しはしないはずだ。
もちろん、本当に死ぬつもりはない。
できる限り逃げる……つもりだ。
でも囮として死んだとしても、まだ“俺”は納得できる。
絶対に死にたくはないが。
“俺”も“僕”の真似をしなくて良くなるし、ついでに彼らも“僕”の死を乗り越えて先に進める。
“俺”が蝿魔獣から逃げ切る算段がないことを除けば、だが。
本によれば、魔石を砕かれない限り死なないはずだ。
それならどうにかできる……かもしれないし、無理かもしれない。
怖い。
傷は治る確証がある。
だがどこまで制限があるのか、本当に死なないのかなんて“俺”には分からない。
「絶対にダメ」
「無しだな」
震えている“俺”を見て、二人はそう言うと身体を翻し、“俺”の隣へ戻ってくる。
“僕”は良い仲間を持ったようだ。
……本当にそういうのやめてほしい。
仲間を見捨てる奴なら、“俺”もきっぱり忘れて逃げられたのに。
置いて行ってくれたら気が楽になったのに。
「ごめん」
先程までの考えを一旦隅に追いやる。
彼らが逃げない以上、三人で生き残りたい。
「でも…どうするの?」
肝心なところで他人任せ。
そこは“僕”も“俺”も一緒だった。
「水を試してみるか」
カブトムシの時みたいに、水を凍らせるやつだろう。
昆虫類は急激な気温の変化に弱いと聞く。
現代の常識がそのまま当てはまるかは知らないが、試してみる価値は大いにある。
「アイリーンは隠れてて!」
「了解」
短く答えると、鎧の音を立てながら木々の中へ消えていく。
蝿魔獣との距離は5mほど。
“俺”は消防士のホースをイメージして、手に魔力を集める。
「行けっ!」
“俺”のイメージ通り、手から発射された水は飛沫を上げながら、蝿魔獣の巨躯へ向かって真っ直ぐ飛んでいく。
蝿魔獣が静止したかと思うと、周囲の枝を翅で切り裂きながら上昇し、あっさり避けられる。
「嘘だろ!?」
ここは木々が生い茂る場所で、7mの巨体を高速で動かせるようなフィールドではない。
上に飛ぼうとすれば木の枝に当たるから無理だろう、という単純な想定だった。
いまだに“俺”の世界の常識が抜けていないようだ。
相手はモンスター。
文字通りの怪物である。
「ファンタジーすぎだろ…」
「ぼさっとすんな!」
叱咤されて再び意識を切り替える。
ただ撃つだけでは避けられる。
ならば。
「当てるには一工夫必要か」
“俺”の世界の物理の常識は、この際一旦置いておこう。
だが似た構造な以上、蝿に通じるものは効くかもしれない。
単純に速度を上げる方向性の水鉄砲は、複眼の動体視力もあって無理だろう。
そもそも蝿の構造上、死角というのがほとんどない。
「複眼だとゆっくりの動きが見えないんだっけか」
確かトンボなどは、そうやって捕まえることができたはずだ。
しかしゆっくり動く隙を蝿魔獣は与えてくれないし、カタチが似ているだけで蝿とは限らない。
少なくとも、その判断に命までは賭けられない。
枝を切り裂きながら10mほど上空まで飛んだ蝿魔獣は、腹の辺りを少し動かしながら、空中でナニカを腹からひり出した。
いや、産んだ。
それが空中から“俺”達に向かって落ちてくる。
硬い地面にぶつかったかと思うと、ピクピクと動きながら起き上がる。
例えるなら蛆。
1mほどある芋虫のような形。
ピンク色の身体はビクビクと鼓動のように脈打っており、口らしき部分からは白く短い歯のような物を覗かせている。
「気持ち悪いな…」
先程から生理的嫌悪感が押し寄せてくる。
虫はそこまで苦手ではない“俺”も、嫌いになりそうだ。
殺虫剤があれば是非、言い値で買いたい。
「アル!水をかけろ!」
呼吸を合わせたように、“俺”の身体が魔力を水に変え、指先から吐き出す。
先程とは違い広範囲に。
水流というより霧のようにばら撒く。
その水が蝿魔獣の手足を濡らした瞬間、それに合わせたモーブの魔術で周囲の空気の温度が下がり、蝿魔獣の身体が表面から少しずつ凍りついていく。
「なんとかなったか!?」
蝿魔獣の方をチラリと見る。
手足が少し凍った程度のはずだが、空中で翅を動かしてホバリングしたまま動こうとしない。
落ちた場所からほとんど動かなかった蛆も、動きを止めた。
疑問に感じる時間もなく、空気の悲鳴が聞こえた。
ほとんどラグもなく、衝撃が背を貫く。
次の瞬間には“俺”の身体は木の葉のように宙を舞っている。
それを風の感覚で理解する。
最後に木へ叩きつけられ、肺の空気を全て吐き出し――
視界が真っ暗になった。




