第三話 失われる選択肢
目を開けると見知らぬ天井……いや、天井ですらなかった。
白く光る石壁と、鼻をつく異臭──ここはトイレだ。
パニックにも似た感情で飛び起きる。
背中を探る……あの刺された感覚を追って。
だが手が触れたのは、自分のものとは思えない服と、違和感だらけの身体だった。
「そうだ…異世界に来たんだ…」
自分が刺されたことも、自身より大きな蜘蛛と戦ったことも、見たこともない食べ物を食べたことも。
そして何より“僕”のこと。
全部夢で、朝起きればいつもと変わらない家で、家族と笑い合っているのだと。
そうあってほしかった。
気分の落ち込みが身体に反映されたように重い。
だが動かなければならない。
“俺”は全身が汗でびっしょりと濡れていることに気がつき、急いでクローゼットから服を取り出して着る。
その時には、先程見た夢のことなど記憶の片隅にもなかった。
“僕”の記憶によると、いつもの集合場所は時計台の広場らしく、急いで階段を降りる。
集合場所に着くと、二人が既に待っていた。
「アルおはよう」
昨日と変わらず鎧を着て、腹まで届く長い金髪をした少女が、“俺”の姿を見るなり声をかけてくる。
「…おはよう」
当人の記憶があるとはいえ、いまだにアルという名前に慣れない。
「よ、また寝坊かよ?お前が寝るのが好きなのは十分伝わったから、そろそろちゃんと起きてくれると俺も嬉しいんだけどな?」
これが彼なりの親しみ方なのだろう。
黒いローブの下で、皮肉げにニヤリと笑った。
「ごめん、次は気をつけるよ」
謝ると、張り合いがないと言うように鼻を鳴らし、笑顔を引っ込める。
「それは前も聞いた気がするがね」
言われて“僕”の記憶を確認するが、確かに“僕”は遅刻常習犯だったらしい。
「…ホントだって」
「…それも前に聞いたよ」
昨日通った大通りを歩きながら、“俺”は塔についての状況を整理する。
記憶によると、塔は現在三層まで探索されている。
一層は“僕”が死んだ場所。
『魔獣の森』と呼ばれる場所だ。
魔獣が出る森で、蟲のような魔獣しか出ないらしいので、虫嫌いは間違いなく発狂するだろう。
二層は草原のような場所で、空を泳ぐ人食いの魚と、地面を泳ぐ鳥がいるなんともチグハグな階層らしい。
“僕”も実際には行ったことがないらしく、伝聞や本に書いてあったことしか分からない。
三層は灼熱の砂漠であり、家よりも大きい線虫のような虫がいるらしい。
ここに関しては、あまり本にも載っていなかった。
行った者が死んだとも、楽園に辿り着いて帰ってこなくなったとも、願いを叶える物があるとも、情報を独占しているとも言われている。
眉唾物の噂を挙げれば枚挙にいとまがない。
ある意味、魔力がある世界においても一種の都市伝説のようなものと言える。
塔の入り口付近なだけあって、武器を持ったいかにも戦士です、魔術師です、といった風体の人もいる。
しかし歳をとった人ほど、酷く暗い様子を滲ませている。
身体だけは魔術で治る。
しかし心までは治せないのだろう。
目の前には、塔へ登るための横幅が何十メートルもある青銅色の階段。
雲の上まで伸びていそうなほど高い石造りの塔は、下から見上げると冷えた雰囲気を纏いながら、壁のように聳え立っている。
「やっぱり大きいな」
街で迷えば塔を目印にしろ、と言われるほど巨大な塔は、街の人々を誘蛾灯のように惹きつけている。
青銅色の階段を三人でゆっくりと歩き、段を進むにつれて少し緊張が強まる。
二人は特に気にするでもなく、いつも通りというように自然体だ。
階段をある程度進むと、一緒に入った人達以外は毎回ランダムな地点に飛ばされる。
そのため前回までの地図を無意味に近いものにし、攻略を遅らせている。
登る階段は一つだが、降りる時は他の階段からでも降りられるというのは変な話だ。
“俺”達が瞬間移動でもしたのか、数百段を超えた辺りで突然景色がすり替わるように変わった。
唐突な状況の変化に、内心で驚く。
“僕”の記憶にもあったことだが、“俺”にとっては嬉しいかどうかはともかく、新鮮な出来事だ。
景色がすり替わった後には、視界を埋め尽くすほどの木々。
樹齢何千年もありそうな大木から比較的細い木までが乱立し、薄い霧が木々の隙間を支配して、視認性を著しく損ねている。
「すごいな…」
昨日も見たはずの景色だが、改まって見ると感動的な光景だ。
この森で死んだ人々の数が、何桁になるのか数えられないほどであろうと。
今にもその原因となる魔獣が現れるかもしれないとしても、それでも少し綺麗だと思った。
魔獣とのエンカウントはすぐだった。
階段を登ってすぐの場所。
ランダム地点とはいえ先人達は多いようで、地面は登塔家達が幾度となく歩き、踏み鳴らされている。
その平らになった開けた場所に、3mほどの赤褐色の巨大カブトムシがいる。
周囲を警戒するように触角を揺らしながら、こちらに昆虫特有の無機質な複眼を向けていた。
他の登塔家と戦って負傷しているのか、真ん中の脚…中脚が根元から欠けている。
だが少しずつ、脚らしき部分が再生している。
「狙うなら今だな」
モーブが負傷の様子を見てか、既に捕捉されていることを考慮してか、あるいはその両方か、即座に決める。
こちらには気がついているようだが、脚の再生を待つ気なのか、ジッとこちらに角を向けたまま動かない。
「アルと私で脚を削ぐから、モーブがトドメ」
アイリーンが素早く方針を固める。
というより、うちのパーティーはその動き以外あまりしないのだが。
昆虫系の魔獣は外骨格が硬く、剣では魔石まで届かないことがある。
それ故に、魔術で潰すか焼くかが一般的であった。
アイリーンが隣にいたと思うと、颯爽とカブトムシの近くまで走り去る。
左前脚の関節部分に向かって剣を振るうと、なんの抵抗もなく脚が切り落とされた。
“俺”も“僕”の記憶と感覚の通りに身体に魔力を通して身体強化し、剣を抜いてカブトムシの方へ向かう。
魔力などという意味不明な存在を通した身体が軽い。
重い金属の剣を持ちながら、軽く地面を蹴り上げて走る。
森の少しぬかるんだ地面と、所々飛び出た木の根。
一歩踏み出すたびに伝わる風の感覚。
手に持った剣のグリップの感触。
“僕”を殺した“俺”が言うことは許されないと思うけれど、少し楽しいと思ってしまった。
カブトムシまで辿り着くと、思考が冴えていく。
狙うのは右前脚の関節部分。
剣を構えた瞬間、カブトムシがツノをこちらに向けて振り回してくる。
…が、カブトムシの角は相手を持ち上げたりするための物だと聞いたことがある。
同サイズなら兎も角、人間サイズには上手く当てられないようだ。
少し内心恐怖しながらも、どうにか避ける。
そして空振りした隙に剣を振るい、関節部分に剣を食い込ませる。
思い切り力を込めると、右前脚を関節部分から折るように斬り飛ばせた。
カブトムシは前脚と中脚を失い、立つことができずに前へ倒れ込む。
「モーブ今だ!」
「分かってるよ!」
左から掛け声と共に氷塊が飛んでくる。
カブトムシの身体にぶつかるかと思ったが、カブトムシが勢いよく横を向き、ツノで飛んできた氷塊を砕いた。
「まじか!」
モーブが驚くのも無理はない。
前脚は切り落としたため、横を向くような挙動はできないはずだ。
しかしカブトムシの足元を見ると、身体を持ち上げるように土の台のような物が作られている。
「魔術かよ」
そう口から勝手に零れる。
魔獣も生き残るために頭を使い、魔術を使い、必死になっている。
そりゃそうだ、と自身を納得させ、剣を鞘に戻す。
“俺”はさっきまでは無属性魔術で身体を強化するしかなかった。
だが、“僕”の記憶によれば…他の属性も扱えたはずだ。
この世界の魔術には、火、水、風、土の四属性と、属性を持たない無属性がある。
無属性は身体強化など、誰でも扱える基本的な魔術。
そして“僕”が扱える属性は水だった。
“僕”の記憶を頼りに、再び身体に魔力を通す。
しかし今度は射出する。
イメージするのは放水のホース。
身体から力強さの元がごっそり抜けたような感覚。
その代わりに、手先へ力が籠っていく感覚に意識を集中させる。
カブトムシは中脚が再生しきり、しっかりと身体を脚で支える。
翅を硬い甲殻の外に出し、凶悪なツノをこちらに向け、かなりの速度で飛んでくる。
“俺”はそれに合わせて広く横薙ぎに水を繰り出す。
だがカブトムシの勢いは衰えることなく、こちらへ向かってくる。
…が、それが目的ではない。
“俺”が翅に向かって飛ばした水をモーブが凍らせ、一瞬カブトムシの動きが止まる。
その僅かな隙に、今まで息を潜めていたアイリーンが頑丈な甲殻から出た翅の付け根へ滑り込む。
剣を刺し通し、魔石を砕いた。
するとカブトムシは力なく再び地面に倒れ、魔石だけを残して塵になって消えていく。
「咄嗟だったけど、上手く行ったね」
“俺”は本心から言う。
“僕”ならどうしたのか考えるが、答えなど出ない。
「まぁな。お前らとはそれなりに長い付き合いだからな」
少し自慢げにモーブが言う。
嫌悪感が蘇ったが、すぐに取り繕う。
「今のは良い連携だった」
アイリーンも嬉しそうだ。
“俺”は安堵の溜息を吐き、二人の笑顔に心を痛めながらも、カブトムシの魔石を拾ってポーチに入れる。
「アル避けて!」
先程とは打って変わった、アイリーンの焦ったような鋭い声が聞こえる。
咄嗟に後ろへ飛び退くと、アイリーンが“俺”の目の前の虚空に突然剣を振るった。
危うく縦に両断されるところだったため、バレたかと警戒する。
だが足元を見て考えを改めた。
30cmほどの黒い蝿のような生き物が、“俺”が危うくなりかけたと思った両断死体になっている。
それを見て、つい疑問が漏れ出る。
「なんだこれ…」
“俺”のはともかく、“僕”の記憶にもない魔獣に困惑する。
「一層の魔獣は大体判明してるはずだけど…」
「おいアル。こいつはどういう種類だ?見たことないんだが」
モーブも見たことがないのだろう。
疑惑と警戒の視線を、この蝿に向けている。
「…分からない。少なくとも本で見たこともない」
『魔獣大全』などにも、まだ載っていない魔獣なのだろうか。
そもそも本なども大概曖昧なのだが、正確さで有名なものだったはずだ。
アイリーンの方をチラリと見るが、彼女も首を振って知らないと示す。
「透明になって近づいてこようとしてた。
だから多分、近付かせなければ大丈夫だと思う」
アイリーンが、楽観できるほどの情報ではないと言いたげに所感を述べる。
“俺”は内心で、普通透明な生き物には気がつかないだろ、とは思うが今は放っておく。
虫特有の羽音も聞こえなかった。
羽音もなく、姿も見えない。
近付かれれば何が起きていたのかと考えて戦慄する。
「透明な蝿か…最悪だな」
近づいて何をするのか分からないが、ロクなことじゃないのだけは確かだ。
「どうする?今日は帰る?」
“俺”は正直もう帰りたい。
二重の意味で家に。
命は大事に、だろう。
行くか退くかの選択を間違えれば死ぬ職業なのだ。
そして少なくとも宝箱のような物はない。
何かを先に取られるということもない。
こういうのは退き得だろう。
「…ヤバそうだが進むか?」
モーブが進むべきだと声を上げる。
なんでだ、と視線を向けてしまうが、モーブは肩をすくめて応えただけだった。
「ん…私も進んだ方が良いと思う」
アイリーンも迷いなく頷いてしまう。
意味が分からない。
警戒しすぎと言われればそれまでだが、しかし細かい判断は“僕”の記憶があろうが再現不可能な部分と言っていい。
「森に何かあったかも…他の登塔家達も心配…でしょ?」
何かを確認するように、アイリーンの赤い目が怪しく覗き込んでくる。
これは下手を打ったか。
もしかしたら“僕”なら迷わず進んだ…のかもしれない。
少なくとも、彼らの中ではそうなのではないかと考える。
「…進もうか」
その考えに至ると、“俺”に選択肢はなかった。




