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第三十話 戦略的撤退

こちらに向かって飛んできた液体の腕を、空中で木の幹を蹴って間一髪で避ける。


霧に濡れた樹皮が足裏で滑りかけ、背後では液体の腕が幹を叩いて湿った木片を撒き散らした。


当たれば死ななかったとしても、戦線離脱は確定だ。


時間稼ぎが本番だが、別に倒してしまっても構わんはずだ。


「っ!」


だが、その考えもすぐに捨てる。


この状況にようやく焦りを覚えたのか、金色スライムの動きが変わった。

こちらには目もくれず、ダチョウ魔獣が突進してきていた方向へ全力で駆け出す。


一瞬思考が遅れるが、すぐに追いかける。

奴の狙いは魔石だ。


そして正直、それが一番不味い。


どれくらいの強さかは不明だが、分身が弱いなんて楽観視はできない。

最悪、本体と同じくらい強ければ、一体でギリギリな現状では詰みだ。


仮に弱いとしても、一層の魔獣程度の強さでも大勢で来られれば致命的だ。

魔力だって無限じゃない。いつかは負ける。


そもそも残り九分弱なんて耐えられない。

ダチョウ魔獣の魔石を砕きに行ったアイリーンの頑張り次第になりそうだ。


「逃がすかよ!」


モーブが氷塊で近くの木々を薙ぎ倒す。

湿った地面へ幹が重い音を立てて倒れ、それをレイが風魔術で一抱えほどの大きさに切り分け、蹴り飛ばした。


勢いで言えばそれほど速くない。

それでも、あの柔らかい身体には有効だ。


飛んだ木片は金色スライムの身体を突き抜け、そのまま地面へ落ちる。


一緒に液体の身体が大きく崩れ、金色が湿った土の上へ飛び散った。


「ロアっち!」


フィリの目配せと言葉を受けて、ロアが金色スライムへ追い縋る。


あの体躯からは想像できないほど素早い。

数メートルで追いついた、その瞬間。


ロアと金色スライムの動きが、目に見えて遅くなった。


「……!」


ロアの足元がぬかるみへ沈み、柔らかい土が靴の周囲から押し出されている。


土魔術で重力を操り、自分ごと押さえつけているのか。


「アルさん! 範囲に入らないで!」


エルの声を聞き、斬りかかろうとしていた足を止めて距離を取る。


あの範囲に入れば、問答無用で効果を受けるらしい。


だが、アレなら身体が液体でも関係ない。

形を崩そうものなら地面に散らばるだけ。

崩さなくても、行動そのものは阻害できる。


「フィリ!」


ロアが叫んだ直後、金色スライムの液体が動き出し、重力が消えたと分かった。


大魔獣に止められたらしい。


だが、その時には既にフィリが電撃を放っていた。


青白い光が霧の中を真っ直ぐ裂き、金色スライムへ迫る。


金色スライムはロアの腹へ腕を伸ばし、そのまま突き刺した。


「ぐっ……!」


重力は完全に切れたらしい。

金色の身体がぐにゃりと変形し、迫る電撃を避けようとする。


「だと思いました!」


エルが拾っていた自身の盾へ手を伸ばす。


盾に仕込まれていた細長い金属の針を抜き取り、そのまま投げた。


「避雷針!?」


その正体に“俺”が気づくより早く、針が変形した金色スライムへ突き刺さる。


瞬間。


避けたはずの電撃が僅かに軌道を曲げ、金色スライムへ直撃した。


さらについでと言わんばかりに、フィリがもう一撃。


「まだっす!」


追撃の電撃まで直撃する。


ばちばちという激しい音。

霧が白く弾け、焦げ臭い匂いが一気に周囲へ広がる。


その威力は、見なくても分かる。


即座に地面へ倒れ込んだロアへ、エルが駆け寄った。

腹から血を流すロアへ手を当て、すぐに水魔術で治療を始める。


その隙間を埋めるように、レイとフィリ、モーブが金色スライムとの間へ立った。


不自然なほど立ち込めた黒煙と土煙の向こうから、まだ奴は姿を現さない。


だが、どうせ生きている。

そんな確信だけは全員が持っていた。


「アルさん!」


エルに呼ばれ、ロアの元へ駆け寄る。


腹には大きな穴が開き、血が地面へ広がっていた。

すぐに一緒になって水魔術を使い、傷口を塞いでいく。


現代医療なら多分手遅れだ。


治癒魔術があるこの世界なら、まだ軽症……いや、これは流石に重症だ。


「顔色が悪いですね……」


「血が足りないのかな……」


傷口自体は既に塞がり始めている。

だが、ロアの顔は蒼白で、とても立ち上がれる状態には見えない。


血が足りない。

そして、時間も足りない。


水魔術で血を作ることはできるが、大量となると時間がかかる。

どれほど失血しているのか分からない以上、このまま放置するのも危険だ。


焦りながら“僕”の記憶を探る。


この世界に血液型を測る手段なんて当然ない。

そもそも“僕”は、血液型という概念自体を知らなかった。


「仕方ない」


剣で自分の手首を切る。


赤い血が流れ出した瞬間、水魔術でそれを操り、ロアの身体へ強引に押し込んでいく。


どうせ“俺”の傷はすぐ治る。

水魔術より再生の方が速い。


流し込んだ血が少しずつ身体へ入っていき、ロアの蒼白だった頬に、ほんの僅かに赤みが戻る。


危機さえ脱せればいい。


あまり大量に入れると、何か後遺症があるかもしれない。


「顔色が……ありがとうございます」


自傷した跡が水魔術で治りました、みたいな顔をしている“俺”に、エルは少し驚いた様子を見せる。


だが、すぐにロアへ意識を戻した。


「アルっち! エルっち! あれ!」


フィリの焦った声に、すぐ金色スライムの方を見る。


電撃が直撃した場所を指差している。


黒煙が霧に混じりながら薄れていく。


その先には――何もいない。


「……いや」


地面に、深く掘られた穴だけが残っていた。


穴の縁から湿った土がぱらぱらと崩れ、暗い穴の奥へ落ちていく。


「やられた……!」


地下へ逃げた。


どこへ向かったのかは分からないが、考えられるのは二つ。


一つ。

分身を作るため、アイリーンの方――魔石が大量にある場所へ向かった。


二つ。

単純に逃げた。


どちらにしろ、不味い。


最悪、“俺”達が大量の金色スライムの分身に囲まれる未来は簡単に想像できる。


逃げただけだったとしても、あいつ自体が十分強い。

それに魔獣まで操れる。


増えようと思えば、どこまででも増えられるはずだ。


「だったら、二手に分かれよっか」


「二手?」


力を溜めると言っていたマシロが、唐突に会話へ入ってくる。


「アイリーン君の方へ行く人と、仮拠点に助けを求めに行く方に、だよ」


…………普通に言われるまで失念していた。


仮拠点には、魔力が枯渇気味とはいえ大量の人がいる。


“俺”達だけで無闇矢鱈に動き回るより、ライザさん達に助けを求めた方が良いに決まっている。


「そこで提案だけど、ヴィル、私、アル君でアイリーン君の方へ行くのはどうかな。これからは敵の数が増えるかもしれないからね。他の登塔家達へ援護を求めてきてほしいんだ」


「おい待てよ。俺もそっちに加えろ。危険だろ」


モーブが即座に口を挟む。


だが、マシロは笑った。


「怪我したロア君を誰が運ぶんだい? レイ君がいるとはいえ護衛も必要。運ぶなら、体格が近い君が一番適任だよ」


モーブはフィリとエルの方を見て、溜め息を吐く。


二人の華奢な身体では、どう見ても図体の大きなロアを運ぶのは難しそうだ。


レイなら運べるかもしれない。

だが、そうなると前線を張れる人間がいなくなる。


転生者組で固めるための意図的な人選だろうが、良くもまぁそれっぽい理由を思いつくものだ。


「……仕方ない、分かった。おいアル、気をつけろよ」


「勿論。そっちも気をつけて」


“僕”の真似をするのにも、相当慣れてきた。


一瞬、自己嫌悪が胸を掠める。


だが、今はそんな場合ではない。

頭の隅へ押し込む。


「神の御加護がありますように」


「気をつけるっすよ!」


時間は残されていない。


モーブがロアに肩を貸して仮拠点の方へ歩き出し、エルとフィリもそう言い残して後を追う。

レイも周囲を警戒しながら続いていった。


霧の向こうへその姿が少しずつ薄れていく。


「この人選ってことは、アレは捕捉できてるんだな?」


ヴィルがマシロへ問いただす。


「勿論。次からは能力ありになるね」


つまり、転生者の性能を存分に活かした戦い方ができるということだ。


“俺”は回復力が上がるだけで、あんまり恩恵はない。

だがヴィルの『転移』が使えるのは相当でかい。


「けど、捕捉ってどうやって……」


マシロに聞いた、その瞬間。


霧に霞んだ木陰から、人影が一つ姿を現した。


黄班の女だ。


ヴィルが面白くなさそうに彼女を見る。


「土魔術を使えるからね。地面に潜った相手の索敵なら得意だよ」


黄班の女の声なのに、喋り方は完全にマシロだ。


頭が痛くなってくる。


『共有』のせいなのだろうが、どうにも不気味だ。


「こっちだよ」


今度は本物のマシロの声。


彼女が木々の隙間、その奥に沈む霧の中を指差して歩き出す。


数歩先の輪郭すら曖昧な森。

その地面の下を、あの金色スライムが動いている。


そう考えると、湿った土を踏む音すら妙に気味が悪い。


木のように人格が枝分かれしている。


「頼むから、話すならどっちかにしてくれ……」


『共有』。


相当に恐ろしい能力のようだ。

まるで自分が分裂するような恐怖がある。


“俺”の能力は、まだ分からない。


だが、もし自分にも同じような種別の能力が備わっていたら。


そう考えただけで、背筋が寒くなった。

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