どうせ死んだし、いっちょ花咲かせましょう 第9話 若旦那、賭場で降り時を知る
雨の翌日、青柳屋の帳場には、まだ少し湿った空気が残っていた。
昨日の雨で、揺れない籠はひとつ学んだ。
揺らさないだけでは足りない。
濡らさないことも、商いのうちである。
そのために、油紙。
覆い。
追加の手間賃。
つまり、出費である。
前世の私なら、スマホの家計簿アプリを開いて、そっと目を閉じていた。
現実は数字になると急に強い。
情緒で勝てる相手ではない。
そんなことを思いながら帳面を見ていると、辰五郎が店に顔を出した。
「若旦那、すみません」
いつもの調子ではなかった。
陽に焼けた顔に、気まずさが浮かんでいる。
「どうしました」
「銀次を見ませんでしたか」
「銀次さんを?」
「へえ。朝から姿が見えねえんです。昨日の帰りから、ちょいと様子がおかしくて」
銀次。
辰五郎の相方で、昨日初めて揺れない籠を担いだ男だ。
細身で、目がよく動き、最初は「本当にゆっくりでいいんですかい」と不思議そうにしていた。
けれど、雨の中で赤子と晴れ着を濡らさず運び終えた時、その顔つきは少し変わっていた。
仕事に、自分の足を入れはじめた顔だった。
「様子がおかしいとは」
「雨の日用の覆いを作るには金が要るだろうって、妙に気にしてまして」
「それは青柳屋で手配します」
「そう言ったんですがね。あいつ、俺たちの仕事のために青柳屋にばかり出させるわけにはいかねえって」
嫌な予感がした。
こういう時、人はだいたい余計なことをする。
しかも、善意で。
善意の余計なことは厄介だ。
責めにくい。
止めにくい。
あとで泣きやすい。
「辰五郎さん」
「へえ」
「銀次さんが行きそうな場所に心当たりはありますか」
辰五郎は口を閉じた。
そして、少しだけ視線をそらした。
ある顔だった。
「……賭場です」
藤兵衛の眉が、ぴくりと動いた。
「若旦那」
「はい」
「あまり近づかれぬ方がよろしいかと」
正しい。
とても正しい。
青柳屋の若旦那が賭場に出入りしているなどと噂になれば、商いに良いことはひとつもない。
だが、銀次を放っておくわけにもいかない。
昨日まで、町の大事な日を肩で守った男である。
その肩が、今日、妙な方向へ傾いているなら、見に行くくらいはしたい。
「少し、様子を見てきます」
「若旦那」
「賭けません」
藤兵衛が私を見た。
その目は、私の内側の元喪女まで見抜いているようだった。
「本当に?」
「本当に」
いや、信用が薄い。
でも仕方ない。
私の中には、麻雀も競馬もパチンコも、勝負ごとの記憶がそれなりにある。
前世の私は、勝負師ではなかった。
けれど、負けている人間の顔は知っている。
「ここで戻せば勝ち」
「あと一回だけ」
「流れが来る」
「今日の負けは今日中に取り返す」
人間、負けが込むと急に予言者になる。
根拠のない未来だけ、やたら見えるようになる。
私は羽織を整え、辰五郎とともに店を出た。
小春はちょうど仕立ての包みを持って青柳屋へ来るところだった。
「若旦那、どちらへ」
「少し、町の裏側へ」
「また変なことを言っていますね」
「今日は本当に変なところです」
小春は眉を寄せた。
「危ないところですか」
「たぶん、少し」
「では、なぜ行くんです」
「昨日、揺れない籠を担いだ人の足元が、少し揺れているようなので」
小春は黙った。
そして、包みを抱え直した。
「お気をつけて」
「はい」
「あと、賭けないでください」
「小春さんまで」
「若旦那、顔が少し楽しそうです」
ばれている。
いや、楽しいわけではない。
賭場に興味があるわけでもない。
ただ、前世の脳内引き出しが、勝負ごとの匂いに反応しているだけである。
心の中の謎の常連客が、もう暖簾をくぐっている。
大将、今日は丁半ですか。
いや、座るな。
お冷だけで帰れ。
賭場は、表通りから二本裏へ入った先にあった。
古い酒屋の裏手。
昼間なのに薄暗く、声が低くこもっている。
辰五郎が小さく言った。
「昔からある場所でさ。町の連中も、たまに息抜きで寄る。だが、深くなるとよくねえ」
「息抜きと沼は、入口が似ていますからね」
「若旦那、妙にわかってますね」
「前世で少し」
「ぜんせ?」
「いえ、以前です」
危ない。
最近、前世が口から出そうになる。
気をつけないといけない。
中へ入ると、むっとした熱気があった。
畳の上に人が集まり、中央に盆が置かれている。
丁か、半か。
小さな札が置かれ、息を呑む音がする。
勝った者は笑い、負けた者は唇を噛む。
だが、私が見たのは札ではなかった。
顔だ。
まだ帰れる顔。
もう帰れない顔。
笑っているのに、目だけが追い詰められている顔。
賭場には、勝ち負けよりも先に、顔の色が出る。
銀次は、奥の方にいた。
膝を立て、前のめりになっている。
手元の札は少ない。
顔色は悪い。
これは、よくない。
とてもよくない。
「銀次」
辰五郎が声をかける。
銀次は振り向いた。
「辰兄……若旦那まで」
「迎えに来ました」
「いや、もう少しで戻せるんです」
出た。
もう少しで戻せる。
この言葉が出た時点で、だいたい戻らない。
前世の私の脳内に、パチンコ屋の眩しい光が一瞬よみがえった。
最初の千円は冷静。
最後の千円は宗教。
「そろそろ来る」
「ここまで回したら引けない」
「次で流れが変わる」
人間は負けると、急に陰陽師になる。
台の気配を読み、風を読み、見えない流れと対話しはじめる。
いや、対話するな。
財布の中身と対話しろ。
「銀次さん」
私は静かに言った。
「今日は、いくら持って来ましたか」
銀次は答えない。
「覆いを作るためのお金ですか」
銀次の肩が揺れた。
「……へえ」
「それは、賭けていいお金ではありません」
「でも、増やせば」
「増えなかったら?」
銀次は唇を噛んだ。
「昨日、辰兄と担いで思ったんです。あの仕事は、ちゃんとした仕事だって。でも、道具が足りねえ。青柳屋にばかり出してもらうのも情けねえ。だから少しでも」
「その気持ちは、ありがたいです」
私は銀次の前に膝をついた。
「でも、仕事の道具代を賭場で増やそうとしてはいけません」
「若旦那」
「勝てばいい話に見えます。けれど、負けた時に消えるのはお金だけではありません」
銀次は顔を上げた。
「信用です」
賭場のざわめきが、少しだけ遠くなった気がした。
「辰五郎さんの信用。銀次さん自身の信用。青柳屋が揺れない籠に預けようとした信用。昨日、赤子を濡らさずに運んだ、その仕事の信用」
「……」
「明日の米代と、人の信用は、賭けてはいけません」
銀次は何も言わなかった。
その手が、膝の上でぎゅっと握られる。
周りの男たちが、ちらちらとこちらを見ていた。
居心地は悪い。
とても悪い。
青柳屋の若旦那が賭場の真ん中で説教。
字面がよくない。
暖簾に小さな火種が飛んでいる気がする。
すると、場の奥に座っていた男が笑った。
胴元らしき男だった。
「若旦那さんよ。ここは説教場じゃねえぜ」
「承知しています」
「賭けもしねえで、ずいぶん偉そうじゃねえか」
「偉そうに聞こえたなら、すみません」
「だったら座っていきな。丁か半か、一つくらい見せてくれよ」
辰五郎が一歩前に出ようとした。
私はそれを手で止めた。
こういう時、正義で前に出ると、場が荒れる。
相手の顔も立てなければならない。
賭場には賭場の理屈がある。
そこへ外から来た若旦那が、全部間違っていると叩けば、余計に話がこじれる。
「私は、賭けません」
「怖いのかい」
「はい」
場が少し静かになった。
私は続けた。
「私は怖いです。今日勝ったとしても、明日また来たくなる自分が怖い。負けたら取り返したくなる自分も怖い。だから、賭けません」
これは、本音だった。
勝負ごとは、人を映す。
強さだけではない。
弱さも、欲も、寂しさも、全部出る。
私は自分が聖人でないことを知っている。
前世の私は、仕事帰りのコンビニで、いらない甘いものを何度も買った。
「今日くらい」と言いながら、何度も自分を慰めた。
賭場に座れば、たぶん同じことをする。
今日くらい。
あと一回。
ここまで来たら。
その言葉の沼を、私は知っている。
「勝負は、できる人がすればいい」
私は言った。
「ただ、降りられない時は、もう勝負ではありません」
胴元の男は黙った。
怒るかと思った。
けれど、男は鼻で笑っただけだった。
「若旦那さん、変わってるな」
「よく言われます」
「そこの銀次は、今日の分はもう負けてる。だが、借りまでは作ってねえ」
私は銀次を見た。
「本当ですか」
銀次は小さく頷いた。
「へえ。まだ、借りてはいません」
「では帰りましょう」
「でも」
「負けたまま帰るのは、恥ではありません」
私は銀次の手元を見た。
「借りる前に帰れるなら、それは勝ちに近い負けです」
銀次の顔が歪んだ。
悔しいのだろう。
わかる。
負けたまま立つのは難しい。
自分が弱かったと認めるようで、腹が立つ。
でも、そこで立てる人だけが、明日も仕事に行ける。
辰五郎が銀次の肩をつかんだ。
「帰るぞ」
「辰兄」
「俺も昔、似たようなことやった。だからわかる。ここで帰れ」
銀次は、しばらく動かなかった。
やがて、小さく札を盆から離した。
「……へい」
その瞬間、私は心の中で大きく息を吐いた。
よかった。
間に合った。
脳内の沢田研二が、帽子を投げる準備をしていた。
いや、勝手にしやがれじゃない。
ここで勝手にされたら、明日の米代が飛ぶ。
帽子は投げなくていい。
財布をしまえ。
帰ろう。
賭場を出ると、外の空気がやけに明るく感じた。
辰五郎は銀次の背中を軽く叩いた。
「馬鹿野郎」
「すんません」
「俺に謝る前に、若旦那に謝れ」
銀次は私に深く頭を下げた。
「すみませんでした」
「私に謝るより、明日、籠を担いでください」
「へ」
「雨の日用の覆いは、青柳屋も出します。辰五郎さんと銀次さんも、少しずつ返してください。賭場ではなく、仕事で」
銀次は目を見開いた。
「仕事で、返す」
「はい。揺らさず、濡らさず、逃げずに」
銀次はしばらく黙っていた。
そして、低い声で言った。
「へい」
その返事は、賭場の中で聞いたどの声よりも、ずっと強かった。
青柳屋へ戻ると、小春が店先にいた。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
「賭けませんでしたか」
「賭けませんでした」
「本当に?」
「本当に」
小春は私の顔をじっと見た。
「少しだけ、賭けたそうな顔をしています」
「顔に出ていましたか」
「はい」
「困りましたね」
「でも、帰ってこられたならよかったです」
その言葉に、少し胸が緩んだ。
帰ってこられたならよかった。
賭場の中では、勝つか負けるかばかりが見える。
けれど外に出ると、帰る場所があるかどうかの方が大事に思える。
前世の私は、負けた日ほど帰り道が長かった。
誰に負けたわけでもない。
ただ、自分で自分を安くした日。
自分の時間を、機嫌を、尊厳を、少しずつ賭けてしまった日。
そういう日は、家の明かりを見るのがつらかった。
「若旦那」
小春が言った。
「勝負って、怖いですね」
「怖いです」
「でも、少し楽しそうでもあります」
「それが一番怖いところです」
小春は不思議そうな顔をした。
「楽しいのに、怖いんですか」
「はい。楽しいものほど、帰り道を決めておかないといけません」
言ってから、自分にも刺さった。
商いも同じだ。
売れるからといって、どこまでも安くする。
頼まれるからといって、どこまでも引き受ける。
褒められるからといって、どこまでも無理をする。
それは一見、勝っているように見える。
でも帰り道をなくした勝負は、いつか明日の米代まで食い始める。
藤兵衛が帳場から声をかけた。
「若旦那、銀次殿の件は」
「明日から仕事で返してもらいます」
「貸しにするのでございますか」
「いいえ」
私は首を振った。
「戻る道を用意するだけです」
藤兵衛は少しだけ目を細めた。
「甘いですな」
「そうですね」
「ですが、悪くはございません」
「藤兵衛さんがそう言う時は、だいたい帳面が怖い時です」
「よくおわかりで」
やはりそうだった。
私は帳面を見る前から、内心で正座した。
雨の日用の覆い。
油紙。
籠屋への手間賃。
そして今度は、銀次の分割返済。
青柳屋の帳面が、少しずつ複雑になっていく。
前世の私なら、ここでスプレッドシートを開いて、セルの色分けを始めるところだ。
いや、やめよう。
異世界まで来て条件付き書式に追われたくない。
その夜、私は一人で帳場に残った。
今日の出来事を書きつける。
銀次、賭場へ。
覆い代を増やそうとして失敗。
借りを作る前に戻る。
今後、仕事で返す。
書きながら、私は筆を止めた。
失敗。
それだけで終わらせると、少し違う気がした。
銀次は間違えた。
でも、借りを作る前に帰った。
それは、大事なことだ。
私は「失敗」の横に、小さく書き足した。
降り時を覚える。
勝つことだけが、勝負ではない。
降りること。
帰ること。
明日も働けるだけを残すこと。
それもまた、勝負の一部なのだと思う。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、勝ち負けだけで自分を測りたくない。
飛ばずに帰る日があるから、次の朝に暖簾を上げられる。
その時、店の外で夜風が鳴った。
私は帳面を閉じた。
逃げたのではない。
今日は、ちゃんと降りたのである。




