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第8話 若旦那、揺れない籠で雨に降られる

 初節句の日は、朝からよく晴れていた。


 いや、晴れているように見えた。


 空は青い。

 雲も薄い。

 通りには市が立ち、魚屋の声が響き、豆腐屋の桶が揺れている。


 つまり、だいたい油断する天気である。


 前世の私は、こういう日に限って折りたたみ傘を持たなかった。


 そして帰り道で降られた。


 天気予報の降水確率二十パーセントを、私は人生で何度も引いている。


 二十パーセント。


 ガチャなら引けないくせに、雨だけは妙に当たる。


 異世界でもその体質が残っていたら、なかなか業が深い。


「若旦那、今日は例の籠でございますな」


 藤兵衛が帳場から言った。


「はい。最初の仕事です」


 揺れない籠。


 昨日、青柳屋で手配することにした、新しい籠の形だ。


 急がない。

 揺らさない。

 赤子や年寄り、晴れ着や大事な荷を丁寧に運ぶ。


 言葉にすると簡単だ。


 だが、それに値をつけるとなると、途端に商いになる。


 辰五郎は朝から店の前に来ていた。


 相方の銀次という男も一緒である。


 辰五郎が陽に焼けた頼れる兄貴分なら、銀次は少し細く、目がよく動く男だった。


「本当に、ゆっくりでいいんですかい」


 銀次が言った。


「はい。今日は速さより、揺らさないことを優先してください」


「へえ。変な仕事だ」


「よく言われます」


「若旦那、それも最近よく言われてませんか」


 小春が横から言った。


「便利な返事なので」


 小春は、初節句の着物をもう一度丁寧に確かめていた。


 桃色の小さな着物。


 黒瀬屋で買われた反物の色むらは、仕立ての工夫でほとんど目立たなくなっている。


 もちろん、完全に消えたわけではない。


 けれど、その布はもう、失敗した買い物ではなかった。


 赤子の祝いの日に着せられる、ちゃんとした一着になっていた。


「きれいですね」


 私が言うと、小春は少しだけ目を伏せた。


「布が頑張りました」


「小春さんの手もです」


「また、そういうことを」


「褒めたつもりでした」


「だから困るんです」


 この会話、昨日もした気がする。


 同じやり取りをしているのに、少しずつ温度が変わっている。


 鍋で言えば、弱火でじわじわ来ている。


 待って。

 これは何鍋。

 恋愛鍋か。

 火加減がわからない。

 吹きこぼれたら誰が拭く。


 内側の私が、台所でおたまを持ってうろたえていると、店先に奥方がやって来た。


 赤子を抱いている。


 後ろには、少し緊張した顔の夫らしき男もいた。


「若旦那さん。本日はよろしくお願いいたします」


「こちらこそ。おめでとうございます」


 私は頭を下げた。


 外側だけは、ちゃんと若旦那である。


 内側は、初めてのサービス運用に震える中小企業の担当者だった。


 導入初日。

 現場立ち会い。

 トラブルだけはやめて。

 お願い。

 神様、今日だけはサーバー落とさないで。


 辰五郎と銀次が籠を整えた。


 いつもの籠より、少し座布団を厚くしてある。

 荷を置く場所には布を敷き、着物の包みが直接揺れないようにした。


 辰五郎が言った。


「奥さん、急ぎません。ゆっくり行きます。もし具合が悪くなったら、すぐ言ってください」


「はい」


 奥方は赤子を抱いて、そっと籠に乗った。


 小春が着物の包みを預ける。


 私は思わず息を止めた。


 辰五郎と銀次が籠を上げる。


 ゆっくり。


 確かに、ゆっくり。


 でも、不思議と間延びして見えない。


 歩幅が揃っている。


 肩の高さが揃っている。


 曲がる時も、急に振らない。


 籠というのは、ただ担いでいるだけではなかったのだ。


 あれは、二人で町の道を読む仕事だ。


 石の出っ張り。

 ぬかるみ。

 人の流れ。

 犬。

 子ども。

 急に飛び出す魚屋の声。


 それらを見ながら、赤子の眠りと着物の包みを守る。


 辰五郎は、ただの籠屋ではなかった。


 町の揺れを、肩で受ける仕事だった。


「いいですね」


 小春が小さく言った。


「はい」


 私も頷いた。


 ここまでは、よかった。


 ここまでは。


 神社へ続く通りに差しかかった時、空の端が少し暗くなった。


 風が変わる。


 市場の布が、ひらりと揺れた。


 私は空を見上げた。


 あ。


 これは。


 前世で何度も見たやつだ。


 折りたたみ傘を家に置いてきた日に限って現れる、あの灰色である。


「若旦那?」


 小春も空を見た。


 ぽつり。


 頬に、冷たいものが当たった。


 ぽつり、ぽつり。


 そして次の瞬間、雨が来た。


 急な雨だった。


 通りの人々が、あわてて軒下へ走る。


 店先の反物が引っ込められ、魚屋が桶に布をかけ、子どもが笑いながら逃げていく。


 だが、こちらには笑っている余裕がない。


 籠の中には赤子。

 そして晴れ着。


 揺れない籠は、揺らさないことを考えていた。


 しかし、濡らさないことまでは、まだ足りていなかった。


 まずい。


 これはまずい。


 初回運用でいきなり雨。


 前世なら、社内チャットが「各位、至急ご確認ください」で埋まる展開である。


「辰五郎さん!」


 私が声を上げるより早く、辰五郎は近くの軒下へ籠を寄せていた。


 銀次も足を止める。


 揺れは少ない。


 さすがだ。


 けれど、軒は狭い。


 雨は斜めから吹き込み、着物の包みにかかりそうになる。


 小春が自分の袖で包みをかばおうとした。


「小春さん、袖が濡れます」


「でも」


 その時だった。


「こちらへ」


 聞き覚えのある声がした。


 黒瀬伊織だった。


 通りの向こう、黒瀬屋の仮店らしき軒先からこちらを見ている。


「裏に荷を入れる場所があります。雨が弱まるまで、そこを使ってください」


 私は一瞬、返事に詰まった。


 黒瀬屋。


 競争相手。


 安売りの大店。


 やり合っていると町で噂されている相手。


 その伊織が、今、場所を貸すと言っている。


「よろしいのですか」


「赤子と晴れ着を濡らすよりは、よほどよろしいかと」


 言い方。


 相変わらず少し刺さる。


 けれど、正しい。


「ありがとうございます」


 私は頭を下げた。


 辰五郎と銀次は、伊織の指示で黒瀬屋の軒下へ籠を運んだ。


 裏の荷置き場は広く、濡れた足でも入れるように板が渡してある。


 黒瀬屋の奉公人が、油紙を持ってきた。


「反物用の油紙です。しばらくこれを」


 伊織が言った。


「助かります」


 小春が着物の包みを油紙で覆う。


 奥方は赤子を抱きしめ、何度も頭を下げていた。


「すみません、こんなことに」


「謝ることではありません」


 私は言った。


「雨は、誰のせいでもありませんから」


 言いながら、自分の中で何かが引っかかった。


 雨は誰のせいでもない。


 そういうものに、人はよく困らされる。


 急な雨。

 病。

 家の事情。

 子どもの熱。

 親の介護。

 心の限界。


 誰かが悪いわけではない。


 でも、確かに困る。


 そういう時に、商いはどう立つのか。


 安くするだけでもない。

 速くするだけでもない。

 正論を言うだけでもない。


 濡れない場所を、ひとつ用意する。


 たぶん、それも商いの役目なのだ。


「揺れないだけでは足りませんでした」


 私が言うと、伊織がこちらを見た。


「初回から気づけてよかったのでは」


「黒瀬屋さんに助けられました」


「事実ですね」


「そこは少し謙遜してもよい場面です」


「苦手なので」


 小春が横で少し笑った。


 伊織は表情を変えないまま、油紙を一枚追加で差し出した。


「雨の日用の包みを、青柳屋で用意すべきです」


「ええ」


「それと、籠の上にかける覆いも。黒瀬屋の反物配送では使っています」


「教えてくださるのですか」


「見ればわかることです」


 そう言いながら、伊織は店の奥から簡単な覆いを出してきた。


 黒瀬屋の印が入っている。


 合理的で、無駄がない。


 悔しいが、よくできていた。


 脳内の私は、腕を組んだ。


 出た。

 黒瀬屋の実務力。

 性格は小石なのに、仕事はちゃんとしている。

 こういう人が職場に一人いると腹が立つ。

 そして締切前にめちゃくちゃ助かる。


「ありがとうございます」


 私が言うと、伊織は少しだけ視線をそらした。


「赤子が濡れるのは、商い以前に気分が悪いだけです」


 その言い方に、私は少し驚いた。


 伊織は、冷たい人ではない。


 ただ、優しさを商いの言葉に変換するのが苦手なのかもしれない。


 いや、苦手というより、わざと隠している。


 そういう人はいる。


 前世にもいた。


 親切なのに、親切そうに見えるのが嫌で、わざと雑に渡してくる人。


 ありがとうと言うと、「別に」と返す人。


 伊織は、その系統かもしれない。


 雨は、しばらくして弱まった。


 辰五郎と銀次は、黒瀬屋の覆いを借り、油紙で包みを守りながら、ふたたび籠を上げた。


 今度は、さっきよりさらに慎重だった。


 雨上がりの道は滑る。


 石畳は光っている。


 人も多い。


 だが、辰五郎と銀次の足は乱れなかった。


 急がない。


 揺らさない。


 濡らさない。


 さっきまで二つだった仕事の条件が、三つに増えている。


 でも、その三つを守ろうとしている姿は、不思議と力強かった。


 神社に着く頃には、空の雲が少し切れていた。


 境内の木々から、水滴が落ちる。


 赤子は眠っていた。


 奥方は、ほっとしたように笑った。


「本当に、揺れませんでした」


 辰五郎は少し照れた顔をした。


「雨には降られちまいましたが」


「でも、濡れませんでした」


 奥方は着物の包みを大事そうに抱えた。


「この子が大きくなったら、話します。初節句の日に、揺れない籠で運んでもらったって」


 辰五郎は黙った。


 銀次も、少しだけ背筋を伸ばした。


 仕事が、人の記憶に残る瞬間がある。


 大きな仕事でなくてもいい。


 町の片隅の、ひとつの籠でもいい。


 誰かの大事な日に、ちゃんと間に合った仕事は、その人の中に残る。


 小春が、小さな着物を奥方へ渡した。


「よい一日になりますように」


「ありがとうございます」


 奥方は深く頭を下げた。


 私はその光景を見ながら、胸の中で静かに息を吐いた。


 初回運用。


 雨。


 黒瀬屋の助け。


 反省点多数。


 でも、赤子は濡れなかった。


 着物も濡れなかった。


 奥方は笑っていた。


 ならば、今日は飛んでいない。


 勝ったとまでは言わない。


 けれど、町の商いとして、ちゃんと着地した。


 帰り道、辰五郎が言った。


「若旦那」


「はい」


「雨の日用の覆い、作りましょう」


「はい」


「銀次、明日から歩き方も変えるぞ。雨の石畳は、足の置き方が違う」


「へい」


 銀次は素直に頷いた。


 昨日まで「ゆっくりでいいんですかい」と言っていた男の顔ではなかった。


 新しい仕事に、自分の技を足そうとしている顔だった。


 それが少し、嬉しかった。


 青柳屋に戻ると、黒瀬伊織が先に来ていた。


「早いですね」


「近道を使いました」


「黒瀬屋さんは、道まで合理的ですね」


「無駄に遠回りする趣味はありません」


 相変わらずである。


 伊織は、店先に置かれた札を見た。


「書き直した方がいい」


「札を?」


「はい」


 伊織は筆を取り、お鈴に紙を持ってこさせた。


 そして、すらすらと書いた。


 揺れない籠、手配いたします。

 晴れ着、赤子、年寄り、大事な荷に。

 雨の日は、油紙と覆いを用意します。


「黒瀬屋さん」


「何です」


「だいぶ手伝ってくださいますね」


「不完全な商いを見ると、気分が悪いだけです」


「それは、優しさですか」


「違います」


「では、何ですか」


「改善です」


 私は笑いそうになった。


 優しさを改善と言い換える人がいるとは。


 でも、嫌いではなかった。


「では、改善に感謝します」


「どういたしまして」


 伊織は少しだけ口元を緩めた。


 ほんの少しだ。


 でも、確かに緩んだ。


 小春がその様子を見て、後ろで静かに笑っている。


 やめてほしい。


 何かを察した顔をしないでほしい。


 これは恋愛ではない。


 これは商い。


 たぶん商い。


 いや、伊織相手に恋愛はない。

 ないない。

 黒瀬伊織は競争相手。

 性格が小石。

 会話が石畳。


 でも、仕事ができる。


 それがまた、腹立たしい。


 脳内の私が、なぜか昔の刑事ドラマみたいに薄暗い取調室で言っている。


 あいつ、悪いやつじゃないんですよ。

 ただ、言い方が悪いだけで。


 いや、誰に弁護しているのか。


 その日の夕方、藤兵衛が新しい帳面を出した。


「若旦那、揺れない籠の欄を作っておきました」


「ありがとうございます」


「雨の日用の油紙、覆い、籠屋への追加手間賃。すべて記しておきます」


 私は帳面を覗いた。


 費用が増えている。


 当然だ。


 仕事を丁寧にすれば、手間が増える。


 手間が増えれば、値も変わる。


 それを誤魔化してはいけない。


 誤魔化すと、また誰かの手が安くなる。


 私は筆を取り、札の下に小さく書き足した。


 雨の日は、少し高くなります。

 その分、濡らさず運びます。


 藤兵衛がそれを見て、少し目を細めた。


「正直でございますな」


「高い理由を隠すと、後で嫌な顔になりますから」


「それは、その通りでございます」


 前世の私は、高いものを買うのが苦手だった。


 でも、理由がわかる高いものは、少し怖くなかった。


 誰かの手間。

 誰かの備え。

 誰かの経験。


 それが見えると、値段はただの数字ではなくなる。


 値段の向こうに、人の仕事が見える。


 青柳屋は、そういう店でありたい。


 私はふと、雨上がりの神社で眠っていた赤子の顔を思い出した。


 あの子は、今日のことを覚えていないだろう。


 でも母親は覚えている。


 辰五郎も、銀次も、小春も、たぶん覚えている。


 私も。


 仕事とは、誰かの記憶に少しだけ置いてもらうことなのかもしれない。


 そう思った瞬間、帳面の端に「油紙代」と書かれた文字が見えた。


 油紙代。

 雨の日用の覆い代。

 追加の手間賃。


 はじまりは、いつも雨。


 いや、困る。


 脳内の名曲が、しっとりした顔で帳場へ入ってきた。


 たしかに今日の商いは、雨から始まった。

 揺れない籠は、濡らさない籠にもなった。


 けれど、はじまるたびに雨が降られては、青柳屋の財布が先に風邪をひく。


 私はそっと帳面を閉じた。


 逃げたのではない。


 今日は、雨上がりの余韻を守るために、閉じただけである。

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