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第7話 若旦那、急がない籠に値をつける

 翌朝、私は帳場の前で、籠屋の話を思い出していた。


 急ぐ籠。

 安い籠。

 揺れない籠。


 湯屋の湯気の中で聞いた、何気ない一言だった。


 だが、一晩寝ても頭から離れない。


 仕事というものは、速さだけで値が決まるわけではない。


 いや、前世でもわかっていたはずだ。


 早い配達。

 安い服。

 すぐ出る食事。

 即日対応。


 それらに何度も助けられた。


 けれど、その反対側にあるものにも、ちゃんと値があってよかったのだ。


 ゆっくり運ぶ。

 丁寧に包む。

 揺らさず届ける。

 急がず聞く。


 前世の私は、そういう時間をずいぶん安く見積もっていた気がする。


「若旦那、今朝は難しい顔でございますね」


 藤兵衛が帳場の向こうから声をかけてきた。


「湯屋で考えごとを拾いまして」


「湯屋で、でございますか」


「はい。湯は、なかなか侮れません」


 藤兵衛は一瞬だけ、何を言っているのかわからないという顔をした。


 わかる。


 私も自分で何を言っているのか、時々わからない。


 そこへ、小春がやって来た。


 腕には、昨日仕上げたばかりの包みを抱えている。


「若旦那、頼まれていた直し物です」


「ありがとうございます」


 小春は包みを丁寧に広げた。


 先日、黒瀬屋で買われた桃色の反物。


 色むらのあった部分は、仕立ての合わせ方でうまく隠されていた。

 完全になかったことにはできない。

 けれど、着る人が恥をかかないように、きちんと考えられている。


「見事ですね」


「父と相談しました。ここを内側に入れて、袖の落ち方を少し変えています」


 小春の指が、布の上をすっと走る。


 その手は細いが、迷いがない。


 前世の私は、誰かが作った服をただ着ていた。

 その裏に、こんな判断や工夫があるなんて、考えたこともなかった。


「小春さんの手は、やはりいい仕事をしますね」


 言った瞬間、小春が少しだけ固まった。


 私も固まった。


 待って。


 自然に褒めた。


 自然に褒めてしまった。


 前世の私なら、気の利いた褒め言葉を言おうとして、結局「すごいですね」しか出てこなかった女である。


 いまの台詞、どこから出た。


 脳内の私が、ヒーローインタビューを受ける控えめな三番打者みたいに、帽子を取っている。


 打ったのは自分でも、まだ実感がありません。

 次もチームに貢献できるよう頑張ります。


 いや、何の試合だ。


「若旦那は、時々さらっと変なことを言います」


 小春はそう言って、ほんの少し頬を赤くした。


「褒めたつもりでした」


「だから困るんです」


 困る。


 その言葉の意味を考える前に、店先から声がした。


「青柳屋さん、いるかい」


 昨日、湯屋で話した籠屋だった。


 年の頃は四十前後。

 日に焼けた顔で、肩に手ぬぐいをかけている。


 名前は辰五郎というらしい。


「辰五郎さん。どうされました」


「いやな、昨日の話を思い出してよ。急がない籠ってやつ」


「はい」


「あれ、ほんとに商いになると思うかい」


 私は小春と藤兵衛を見た。


 二人とも、私の返事を待っている。


「なると思います」


 辰五郎は目を丸くした。


「本気かい」


「はい。ただし、急がないだけでは難しいです」


「だろうな。ただののんびり屋なら、客に怒られる」


「そうです。だから、名前を変えましょう」


「名前?」


「揺れない籠、です」


 辰五郎は腕を組んだ。


「揺れない籠」


「急ぎではなく、丁寧に運ぶ。年配の方、身重の方、大事な荷を持つ方、晴れ着で移動する方。そういう人向けです」


 小春が、はっと顔を上げた。


「晴れ着」


「はい」


 私は小春の仕立てた包みを見た。


「たとえば、祝言や初節句のために仕立てた着物を、着る前から雑に運ぶわけにはいきません。人も、布も、揺らさず運ぶ籠があっていい」


 藤兵衛が静かに頷いた。


「青柳屋で仕立てを頼んだお客様に、その籠を紹介するということでございますか」


「はい。青柳屋が籠屋さんと組みます」


「組む?」


 辰五郎が、自分を指差した。


「うちと青柳屋が?」


「ええ」


「若旦那、うちはただの籠屋だぜ」


「ただの籠屋ではありません。町の人を運ぶ仕事です」


 辰五郎は黙った。


 その顔に、少し照れたようなものが浮かぶ。


 職人や働く人は、自分の仕事を軽く言うことがある。


 ただの針仕事。

 ただの籠屋。

 ただの飯炊き。

 ただの使い走り。


 でも本当は、ただの仕事などない。


 誰かの一日を、少し楽にしたり、少し守ったりしている。


「ただし、値は少し高くなります」


 私が言うと、辰五郎は苦い顔をした。


「そこだよな。高けりゃ客が逃げる」


「逃げる人もいるでしょう」


「若旦那、最近それよく言うな」


「便利な言葉なので」


 小春が小さく笑った。


「でも、高い理由を説明します。早く着きたい人には普通の籠。揺れずに行きたい人には揺れない籠。選べるようにすればいい」


「選べるように、か」


 辰五郎は考え込んだ。


「だが、俺一人じゃ難しい。ゆっくり丁寧に運ぶには、足の合う相方もいる。籠は二人で担ぐからな」


「では、青柳屋からも紹介料を出します」


 藤兵衛の眉が動いた。


 わかる。


 また若旦那が帳面に優しくないことを言い出した顔だ。


 私も怖い。


 内側では、心の会計係がそろばんを抱えて悲鳴を上げている。


 やめて。

 また出費。

 青柳屋の財布、もう十分に薄い。

 これ以上やると、財布が反物より先に透ける。


 だが、ここは必要な出費だと思った。


「紹介料というより、信用料です」


「信用料?」


「青柳屋が、この籠屋なら安心だとお客様に伝える。その分、辰五郎さんには青柳屋の名前に恥じない運びをしてもらう」


 辰五郎の顔が、少し引き締まった。


「そりゃ、責任が重いな」


「はい」


「でも、悪くねえ」


 辰五郎は手ぬぐいで首を拭いた。


「急げ急げって言われるばかりで、正直、膝がきつかったんだ。速い籠もやる。だが、揺らさない籠に値がつくなら、足の使い方も変えられる」


「では、試してみましょう」


「誰を乗せる」


 私は小春の包みを見た。


 そこへ、ちょうど店先に、あの初節句の奥方がやって来た。


 赤子を抱いて、少し不安そうに立っている。


「若旦那さん。仕立ては……」


「できております」


 小春が包みを持って前へ出た。


 奥方は、広げられた小さな着物を見て、息を呑んだ。


「まあ」


 その声だけで、仕立てが成功したのだとわかった。


 赤子は何も知らずに、母の腕の中で小さな手を動かしている。


「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」


「小春さんと清六さんの仕事です」


 私はそう言ってから、辰五郎を見た。


「奥さま。このお着物を持って、お宮へ行かれますか」


「はい。明後日、家族で」


「でしたら、籠を手配しませんか」


「籠ですか」


「急ぐ籠ではありません。揺れない籠です。少し値は張りますが、赤子と晴れ着を丁寧に運びます」


 奥方は少し迷った。


 その迷いは当然だ。


 値の張るものを勧められた時、人は身構える。


 前世の私もそうだった。


 これは本当に必要なのか。

 自分には贅沢ではないか。

 安い方で済ませるべきではないか。


 そうやって、何度も自分の大事な日まで安く見積もった。


「もちろん、普通の籠でも構いません」


 私は続けた。


「ただ、赤子を抱いて、着物を持って、人の多い道を歩くのは大変です。明後日は市も出ます。揺れない籠なら、少し安心かと」


 奥方は赤子を見た。


 それから、仕立て上がった着物を見た。


「……お願いします」


 辰五郎の背中が、ぴんと伸びた。


「任せてください。揺らしません」


 その一言は、思ったより頼もしかった。


 派手な言葉ではない。


 けれど、仕事の芯があった。


 小春が、小さく笑った。


「いいですね。揺れない籠」


「そう思いますか」


「はい。着物も、人も、ちゃんと大事にされている感じがします」


 その言葉に、私は少しだけほっとした。


 商いは、うまくいくかまだわからない。


 値をつけたからといって、すぐに客が増えるわけではない。


 けれど、町の中にひとつ、新しい選び方ができた。


 速さだけではない。

 安さだけではない。

 丁寧さにも、値をつける。


 それはたぶん、青柳屋らしい一歩だった。


 その日の夕方、黒瀬伊織がふらりと店に現れた。


「揺れない籠を始めたそうですね」


「耳が早いですね」


「町は狭いので」


 伊織は店先に置いた小さな札を見た。


 そこには、お鈴の字でこう書かれている。


 揺れない籠、手配いたします。

 晴れ着、赤子、年寄り、大事な荷に。


「面白い」


「そうですか」


「高く売るための理由づけですか」


「そう見えますか」


「見えます」


 伊織は涼しい顔で言った。


 相変わらず遠慮がない。


 この人の言葉は、たまに素足で踏む小石みたいに痛い。


「ですが、悪くない」


 私は少し驚いた。


「褒めていますか」


「保留です」


「またですか」


「私は簡単に褒めません」


「でしょうね」


 伊織は札を見たまま言った。


「黒瀬屋でも、急ぎ便と丁寧便を分けられるかもしれません」


「籠ですか」


「いえ、反物の受け渡しです。急ぎの客と、晴れの日の客を同じ列に並べるから、無理が出る」


 なるほど。


 彼も見ている。


 こちらのやり方を、そのまま真似するのではなく、自分の店に置き換えている。


「伊織さん」


「何です」


「やはり、黒瀬屋は強いですね」


「当然です」


 その返しは昨日も聞いた。


 だが今日は、少しだけ笑っているように見えた。


 伊織が帰ったあと、藤兵衛が言った。


「若旦那」


「はい」


「少しずつ、町が変わっておりますな」


「大げさです」


「いえ」


 藤兵衛は帳場の上の札を見た。


「値を下げず、値の意味を変える。これは、簡単なことではございません」


 私は黙った。


 値の意味を変える。


 その言葉は、胸の中に静かに落ちた。


 前世の私は、ずっと自分に安い値札をつけていた気がする。


 頼まれたら断れない。

 我慢する。

 笑って流す。

 大したことないふりをする。


 そうやって、自分の時間も、自分の痛みも、値引きしていた。


 でも、この世界で若旦那として立っていると、少しずつ思う。


 安くしなくていいものがある。


 急がなくていい時間がある。


 揺らさず運んだ方がいい心もある。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は、自分にも「揺れない籠」を用意してやりたい。


 そう思ったところで、帳面の端に、辰五郎への紹介料が書き込まれているのを見た。


 経費。


 ケイヒ。


 こんばんは、ケーシー高峰です。


 ……いや、待って。


 Z世代、ついてきてるか?


 脳内の昭和寄席が、急に開演してしまった。


 これは必要経費です。

 たぶん。

 おそらく。

 できれば。


 私は静かに帳面を閉じた。


 逃げたのではない。


 今日は、揺れないために、いったん閉じただけである。

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