第6話 若旦那、湯屋で目のやり場を失う
その日の夕方、藤兵衛が言った。
「若旦那。今日は湯屋へ行かれてはいかがですか」
「湯屋、ですか」
「はい。近ごろ、お疲れのように見えますので」
疲れ。
それはそうだ。
転生してからというもの、老舗呉服商の跡取りとして目覚め、半値交渉を受け、仕立て屋に頭を下げ、朝市で黒瀬屋と出会い、染め場で正論の漬物石を二個ほど担がされた。
前世の私なら、ここで一回、有給を取って布団と同化している。
だが、今の私は若旦那である。
外側は涼しい顔をしている。
「そうですね。町の様子を見るにも、良いかもしれません」
などと言っている。
内側の私は、すでに畳の上で膝を抱えていた。
待って。
湯屋。
つまり銭湯。
この身体で男湯。
難易度が急に上がった。
商い、帳面、職人、ライバル商人。
そこまでは何とか、羽織と若旦那顔で乗り切ってきた。
しかし、湯屋は別である。
のれんをくぐった瞬間、逃げ場がない。
服という文明の防具を脱ぐことになる。
前世三十六年、女として生きてきた私に、男湯ミッションを課すな。
これはもう、チュートリアルではない。
いきなり裏ダンジョンである。
とはいえ、行かない理由もない。
青柳屋の若旦那が、湯屋を怖がっているとは言えない。
私は手ぬぐいを持ち、店を出た。
夕暮れの城下町は、昼とはまた違う顔をしていた。
軒先に灯りが入り、焼き魚の匂いがどこかの家から流れてくる。
籠屋が客を降ろし、子どもたちが路地を走り、店じまいの声が通りを渡る。
湯屋は、青柳屋から少し歩いたところにあった。
大きな暖簾。
湯気。
下駄箱。
番台。
入り口の前では、仕事帰りの職人たちが肩を回しながら笑っていた。
「お、青柳屋の若旦那」
「こりゃ珍しい」
「今日は帳場から逃げてきたかい」
「ええ。帳面に負けまして」
外側の私は、軽く笑って返した。
内側の私は、すでに番台の前で帰りたい。
帰りたい。
でも帰れない。
ここで引き返したら、町中に「青柳屋の若旦那、湯屋の暖簾前で謎の敗走」と噂が立つ。
それはそれで、暖簾に傷がつく。
私は覚悟を決めた。
湯屋の中は、想像以上ににぎやかだった。
桶の音。
湯をかける音。
笑い声。
誰かが鼻歌を歌っている。
肩書きも、店も、家も、いったん脱いでしまう場所。
ここでは大工も魚屋も籠屋も、ただの湯に浸かる人になる。
その光景は、少し面白かった。
少し、怖くもあった。
私はなるべく一点を見つめ、淡々と身体を流した。
目のやり場が難しい。
野球で言えば、外野フライを追いながら太陽が目に入る感じである。
見なければ落とす。
見すぎても危ない。
センター、深追いするな。
声を出せ。
任せろとは言うな。まだ任せられるほど守備位置が定まっていない。
「若旦那、こっち空いてるぞ」
声をかけてくれたのは、籠屋の男だった。
いつも朝市のあたりで見かける顔だ。
「ありがとうございます」
私は湯船の端に身を沈めた。
熱い。
だが、気持ちいい。
肩まで湯に浸かった瞬間、身体の奥で固まっていたものが、ふっとほどけた。
ああ。
これは、いい。
前世でも銭湯は嫌いではなかった。
広い湯船に入ると、自分の輪郭が少し薄くなる。
疲れも、見栄も、言い訳も、湯に混ざっていくような気がする。
今の私は男で、若旦那で、老舗の跡取りで、元喪女で。
情報量は相変わらず多い。
でも湯の中では、少しだけそれらが静かになる。
「若旦那、最近、黒瀬屋とやり合ってるんだってな」
籠屋が言った。
「やり合っているほどではありません」
「町じゃそう言ってるぜ。青柳屋の若旦那、黒瀬屋の若いのと渡り合ったって」
やめてほしい。
私は渡り合った覚えはない。
どちらかといえば、流されないように川岸の草を必死につかんでいた側である。
「黒瀬屋さんは、強い商いをされますから」
「安いもんなあ。客としては助かる時もある」
「ええ」
「でもな」
籠屋は湯をすくって顔にかけた。
「安いばっかりだと、町がせわしなくなる」
「せわしなく」
「ああ。早くしろ、安くしろ、もっと回せってな。籠も同じよ。急げ急げって言われるが、足は二本しかねえ」
その言葉に、私は少し黙った。
染め場の赤い手を思い出した。
小春の針仕事を思い出した。
清六の言葉も。
安さ。
速さ。
便利さ。
それらは確かに人を助ける。
けれど、誰かの足や手や目を削って成り立つなら、いつか町全体が息切れする。
「籠屋さん」
「なんだい」
「急がない籠というのは、商いになりますか」
籠屋は目を丸くしたあと、笑った。
「変なこと聞く若旦那だな」
「よく言われます」
「なるんじゃねえか。急ぐ客もいりゃ、揺れないで運んでほしい客もいる。年寄りや、腹の大きい女なんかは、ゆっくりの方がいいだろ」
「なるほど」
「ただ、ゆっくり走って高く取るなら、ちゃんと理由を言わねえとな。客はただのサボりだと思う」
私は湯の中で、小さく頷いた。
ここにも同じ話がある。
速い籠。
安い籠。
揺れない籠。
どれが正しいかではなく、何に使うか。
町は、同じ問いをいろいろな形で持っている。
湯屋というのは、案外、帳場より商いが見える場所なのかもしれない。
「それにしても若旦那、湯に入ってまで難しい顔してるな」
「すみません。つい」
「もっと肩抜けよ。湯屋じゃ若旦那も籠屋もねえ。ただの裸の人間だ」
裸の人間。
その言葉に、内心の私がまた盛大に転んだ。
いや、そこを強調しないでほしい。
ただの裸の人間。
概念としては深い。
現場としてはまだ慣れない。
それでも、湯に肩まで浸かっていると、不思議と笑えてきた。
商いも、人付き合いも、着物を着すぎると重くなる。
看板。
肩書き。
損得。
見栄。
それらを一度脱いだ時に、何が残るのか。
たぶん、そこにその人の商いの芯がある。
湯屋を出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
外の風が、火照った頬に気持ちいい。
私は手ぬぐいで髪を拭きながら、湯屋の前に立った。
すると、道端で団子を売っている屋台が目に入った。
湯上がり。
団子。
夕暮れ。
これはいけない。
前世の私なら、ここで「今日は頑張ったから」と自分に言い訳をしながら甘いものを買っていた。
そして今も、たぶん買う。
「団子を二本ください」
「あいよ、若旦那」
一本を食べようとした時、後ろから声がした。
「若旦那?」
小春だった。
布包みを抱えている。
仕事帰りだろう。
「小春さん」
「湯屋帰りですか」
「はい。町の勉強に」
「湯屋も勉強になるんですか」
「かなり」
小春はくすりと笑った。
その笑い方は、夕暮れにずるい。
湯上がりで防御力が下がっているところに、その顔はやめてほしい。
こちらはまっすぐ帰るつもりだったのに、恋のツケマイに外から巻き込まれた気分である。
内側の私は、完全に一マークで態勢を崩していた。
待って。
この感情、どこを走ればいい。
内なのか。外なのか。
そもそも私は、まだ恋愛の展示航走すら終えていない。
「一本、いかがですか」
私は団子を差し出した。
「いいんですか」
「二本買ってしまいましたので」
「では、いただきます」
小春は布包みを持ち替えて、団子を受け取った。
二人で湯屋の前に立ったまま、しばらく黙って団子を食べた。
甘い。
湯上がりの身体に、たれの甘さがしみる。
「若旦那」
「はい」
「最近、少し楽しそうですね」
「私が、ですか」
「はい。大変そうだけど、前より楽しそうです」
私は少し考えた。
楽しい。
そう言われると、少し違う気もする。
毎日、怖い。
帳面は難しい。
黒瀬伊織は厄介。
職人の手を見るたび、自分の甘さを思い知らされる。
でも。
「前より、ちゃんと生きている気はします」
言ってから、自分で驚いた。
小春は黙って私を見ている。
「前は、どうだったんですか」
そう聞かれて、私は少しだけ言葉に詰まった。
前世の話はできない。
けれど、嘘ばかりも言いたくない。
「前は、何かを選ぶ前から、諦めることが多かったのです」
「若旦那が?」
「ええ」
「意外です」
「私も、今の自分が意外です」
小春は団子を少しかじって、空を見上げた。
「じゃあ、今は?」
「今は」
私は湯屋の暖簾を見た。
湯気がまだ、夜の空に細く上がっている。
「少しずつ、選び直しているところです」
小春は、何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
その沈黙がありがたかった。
何でも聞かない人の優しさというものがある。
全部を言わせないで、隣に立ってくれる人の温度がある。
前世の私は、そういう場所をあまり持てなかった。
だから今、湯屋の前で団子を食べながら、少しだけ胸が熱くなった。
今日の歌ネタ、どうしよう。
湯上がりに名曲を召喚すると、情緒がのぼせる。
ここはむしろ、脳内のドリフが湯気の向こうから生活指導を始める場面である。
風呂には入った。
あとは歯を磨いて、ちゃんと寝る。
異世界に来ても、湯上がりの正しさだけは、昭和の茶の間から変わらない。
私は団子を食べきり、紙を畳んだ。
「小春さん」
「はい」
「明日、青柳屋に来られますか」
「仕立てのことで?」
「それもありますが、籠屋さんの話を聞いて、少し考えたことがありまして」
「籠屋さん?」
「揺れない籠と、急ぐ籠の話です」
小春は首を傾げた。
「若旦那の話、時々どこへ行くのかわかりません」
「私もです」
二人で少し笑った。
その時、道の向こうを一人の老人が歩いていった。
白い髭。
杖。
やけに楽しそうな足取り。
湯屋の前で団子を買い、こちらをちらりと見て、にこりと笑う。
どこかで見たような、見ていないような。
「小春さん、あの方は?」
「さあ。旅のご隠居さんでしょうか」
老人は団子を手に、夜の通りへ消えていった。
私はなぜか、その背中が少し気になった。
でも今は、追わなかった。
湯上がりの身体に、夜風が心地よい。
明日もまた、帳面はある。
黒瀬屋もある。
青柳屋の暖簾もある。
けれど今夜は、少しだけ肩の力が抜けている。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、湯に浸かる時間くらい、自分に許してやろう。
そう思いながら、私は青柳屋へ戻った。
なお、帰り道で思い出した。
湯屋代と団子代。
経費になるのか。
ならないのか。
脳内の小さな税務署が、静かに判子を構えていた。




