表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/18

第6話 若旦那、湯屋で目のやり場を失う

 その日の夕方、藤兵衛が言った。


「若旦那。今日は湯屋へ行かれてはいかがですか」


「湯屋、ですか」


「はい。近ごろ、お疲れのように見えますので」


 疲れ。


 それはそうだ。


 転生してからというもの、老舗呉服商の跡取りとして目覚め、半値交渉を受け、仕立て屋に頭を下げ、朝市で黒瀬屋と出会い、染め場で正論の漬物石を二個ほど担がされた。


 前世の私なら、ここで一回、有給を取って布団と同化している。


 だが、今の私は若旦那である。


 外側は涼しい顔をしている。


「そうですね。町の様子を見るにも、良いかもしれません」


 などと言っている。


 内側の私は、すでに畳の上で膝を抱えていた。


 待って。

 湯屋。

 つまり銭湯。

 この身体で男湯。


 難易度が急に上がった。


 商い、帳面、職人、ライバル商人。


 そこまでは何とか、羽織と若旦那顔で乗り切ってきた。


 しかし、湯屋は別である。


 のれんをくぐった瞬間、逃げ場がない。


 服という文明の防具を脱ぐことになる。


 前世三十六年、女として生きてきた私に、男湯ミッションを課すな。

 これはもう、チュートリアルではない。

 いきなり裏ダンジョンである。


 とはいえ、行かない理由もない。


 青柳屋の若旦那が、湯屋を怖がっているとは言えない。


 私は手ぬぐいを持ち、店を出た。


 夕暮れの城下町は、昼とはまた違う顔をしていた。


 軒先に灯りが入り、焼き魚の匂いがどこかの家から流れてくる。

 籠屋が客を降ろし、子どもたちが路地を走り、店じまいの声が通りを渡る。


 湯屋は、青柳屋から少し歩いたところにあった。


 大きな暖簾。

 湯気。

 下駄箱。

 番台。


 入り口の前では、仕事帰りの職人たちが肩を回しながら笑っていた。


「お、青柳屋の若旦那」


「こりゃ珍しい」


「今日は帳場から逃げてきたかい」


「ええ。帳面に負けまして」


 外側の私は、軽く笑って返した。


 内側の私は、すでに番台の前で帰りたい。


 帰りたい。

 でも帰れない。


 ここで引き返したら、町中に「青柳屋の若旦那、湯屋の暖簾前で謎の敗走」と噂が立つ。


 それはそれで、暖簾に傷がつく。


 私は覚悟を決めた。


 湯屋の中は、想像以上ににぎやかだった。


 桶の音。

 湯をかける音。

 笑い声。

 誰かが鼻歌を歌っている。


 肩書きも、店も、家も、いったん脱いでしまう場所。


 ここでは大工も魚屋も籠屋も、ただの湯に浸かる人になる。


 その光景は、少し面白かった。


 少し、怖くもあった。


 私はなるべく一点を見つめ、淡々と身体を流した。


 目のやり場が難しい。


 野球で言えば、外野フライを追いながら太陽が目に入る感じである。

 見なければ落とす。

 見すぎても危ない。


 センター、深追いするな。

 声を出せ。

 任せろとは言うな。まだ任せられるほど守備位置が定まっていない。


「若旦那、こっち空いてるぞ」


 声をかけてくれたのは、籠屋の男だった。


 いつも朝市のあたりで見かける顔だ。


「ありがとうございます」


 私は湯船の端に身を沈めた。


 熱い。


 だが、気持ちいい。


 肩まで湯に浸かった瞬間、身体の奥で固まっていたものが、ふっとほどけた。


 ああ。


 これは、いい。


 前世でも銭湯は嫌いではなかった。


 広い湯船に入ると、自分の輪郭が少し薄くなる。


 疲れも、見栄も、言い訳も、湯に混ざっていくような気がする。


 今の私は男で、若旦那で、老舗の跡取りで、元喪女で。


 情報量は相変わらず多い。


 でも湯の中では、少しだけそれらが静かになる。


「若旦那、最近、黒瀬屋とやり合ってるんだってな」


 籠屋が言った。


「やり合っているほどではありません」


「町じゃそう言ってるぜ。青柳屋の若旦那、黒瀬屋の若いのと渡り合ったって」


 やめてほしい。


 私は渡り合った覚えはない。


 どちらかといえば、流されないように川岸の草を必死につかんでいた側である。


「黒瀬屋さんは、強い商いをされますから」


「安いもんなあ。客としては助かる時もある」


「ええ」


「でもな」


 籠屋は湯をすくって顔にかけた。


「安いばっかりだと、町がせわしなくなる」


「せわしなく」


「ああ。早くしろ、安くしろ、もっと回せってな。籠も同じよ。急げ急げって言われるが、足は二本しかねえ」


 その言葉に、私は少し黙った。


 染め場の赤い手を思い出した。


 小春の針仕事を思い出した。


 清六の言葉も。


 安さ。

 速さ。

 便利さ。


 それらは確かに人を助ける。


 けれど、誰かの足や手や目を削って成り立つなら、いつか町全体が息切れする。


「籠屋さん」


「なんだい」


「急がない籠というのは、商いになりますか」


 籠屋は目を丸くしたあと、笑った。


「変なこと聞く若旦那だな」


「よく言われます」


「なるんじゃねえか。急ぐ客もいりゃ、揺れないで運んでほしい客もいる。年寄りや、腹の大きい女なんかは、ゆっくりの方がいいだろ」


「なるほど」


「ただ、ゆっくり走って高く取るなら、ちゃんと理由を言わねえとな。客はただのサボりだと思う」


 私は湯の中で、小さく頷いた。


 ここにも同じ話がある。


 速い籠。

 安い籠。

 揺れない籠。


 どれが正しいかではなく、何に使うか。


 町は、同じ問いをいろいろな形で持っている。


 湯屋というのは、案外、帳場より商いが見える場所なのかもしれない。


「それにしても若旦那、湯に入ってまで難しい顔してるな」


「すみません。つい」


「もっと肩抜けよ。湯屋じゃ若旦那も籠屋もねえ。ただの裸の人間だ」


 裸の人間。


 その言葉に、内心の私がまた盛大に転んだ。


 いや、そこを強調しないでほしい。

 ただの裸の人間。

 概念としては深い。

 現場としてはまだ慣れない。


 それでも、湯に肩まで浸かっていると、不思議と笑えてきた。


 商いも、人付き合いも、着物を着すぎると重くなる。


 看板。

 肩書き。

 損得。

 見栄。


 それらを一度脱いだ時に、何が残るのか。


 たぶん、そこにその人の商いの芯がある。


 湯屋を出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。


 外の風が、火照った頬に気持ちいい。


 私は手ぬぐいで髪を拭きながら、湯屋の前に立った。


 すると、道端で団子を売っている屋台が目に入った。


 湯上がり。

 団子。

 夕暮れ。


 これはいけない。


 前世の私なら、ここで「今日は頑張ったから」と自分に言い訳をしながら甘いものを買っていた。


 そして今も、たぶん買う。


「団子を二本ください」


「あいよ、若旦那」


 一本を食べようとした時、後ろから声がした。


「若旦那?」


 小春だった。


 布包みを抱えている。

 仕事帰りだろう。


「小春さん」


「湯屋帰りですか」


「はい。町の勉強に」


「湯屋も勉強になるんですか」


「かなり」


 小春はくすりと笑った。


 その笑い方は、夕暮れにずるい。


 湯上がりで防御力が下がっているところに、その顔はやめてほしい。


 こちらはまっすぐ帰るつもりだったのに、恋のツケマイに外から巻き込まれた気分である。


 内側の私は、完全に一マークで態勢を崩していた。


 待って。

 この感情、どこを走ればいい。

 内なのか。外なのか。

 そもそも私は、まだ恋愛の展示航走すら終えていない。


「一本、いかがですか」


 私は団子を差し出した。


「いいんですか」


「二本買ってしまいましたので」


「では、いただきます」


 小春は布包みを持ち替えて、団子を受け取った。


 二人で湯屋の前に立ったまま、しばらく黙って団子を食べた。


 甘い。


 湯上がりの身体に、たれの甘さがしみる。


「若旦那」


「はい」


「最近、少し楽しそうですね」


「私が、ですか」


「はい。大変そうだけど、前より楽しそうです」


 私は少し考えた。


 楽しい。


 そう言われると、少し違う気もする。


 毎日、怖い。

 帳面は難しい。

 黒瀬伊織は厄介。

 職人の手を見るたび、自分の甘さを思い知らされる。


 でも。


「前より、ちゃんと生きている気はします」


 言ってから、自分で驚いた。


 小春は黙って私を見ている。


「前は、どうだったんですか」


 そう聞かれて、私は少しだけ言葉に詰まった。


 前世の話はできない。


 けれど、嘘ばかりも言いたくない。


「前は、何かを選ぶ前から、諦めることが多かったのです」


「若旦那が?」


「ええ」


「意外です」


「私も、今の自分が意外です」


 小春は団子を少しかじって、空を見上げた。


「じゃあ、今は?」


「今は」


 私は湯屋の暖簾を見た。


 湯気がまだ、夜の空に細く上がっている。


「少しずつ、選び直しているところです」


 小春は、何も言わなかった。


 ただ、静かに頷いた。


 その沈黙がありがたかった。


 何でも聞かない人の優しさというものがある。


 全部を言わせないで、隣に立ってくれる人の温度がある。


 前世の私は、そういう場所をあまり持てなかった。


 だから今、湯屋の前で団子を食べながら、少しだけ胸が熱くなった。


 今日の歌ネタ、どうしよう。


 湯上がりに名曲を召喚すると、情緒がのぼせる。


 ここはむしろ、脳内のドリフが湯気の向こうから生活指導を始める場面である。


 風呂には入った。

 あとは歯を磨いて、ちゃんと寝る。


 異世界に来ても、湯上がりの正しさだけは、昭和の茶の間から変わらない。


 私は団子を食べきり、紙を畳んだ。


「小春さん」


「はい」


「明日、青柳屋に来られますか」


「仕立てのことで?」


「それもありますが、籠屋さんの話を聞いて、少し考えたことがありまして」


「籠屋さん?」


「揺れない籠と、急ぐ籠の話です」


 小春は首を傾げた。


「若旦那の話、時々どこへ行くのかわかりません」


「私もです」


 二人で少し笑った。


 その時、道の向こうを一人の老人が歩いていった。


 白い髭。

 杖。

 やけに楽しそうな足取り。


 湯屋の前で団子を買い、こちらをちらりと見て、にこりと笑う。


 どこかで見たような、見ていないような。


「小春さん、あの方は?」


「さあ。旅のご隠居さんでしょうか」


 老人は団子を手に、夜の通りへ消えていった。


 私はなぜか、その背中が少し気になった。


 でも今は、追わなかった。


 湯上がりの身体に、夜風が心地よい。


 明日もまた、帳面はある。


 黒瀬屋もある。


 青柳屋の暖簾もある。


 けれど今夜は、少しだけ肩の力が抜けている。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は、湯に浸かる時間くらい、自分に許してやろう。


 そう思いながら、私は青柳屋へ戻った。


 なお、帰り道で思い出した。


 湯屋代と団子代。


 経費になるのか。


 ならないのか。


 脳内の小さな税務署が、静かに判子を構えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ