第5話 若旦那、安さの裏にいる手を見る
黒瀬伊織という男は、やはり厄介だった。
悪人ではない。
少なくとも、今のところ「完全なる敵です」と札を貼れるほど単純ではない。
だが、正論が硬い。
硬すぎる。
あれはもう、正論というより、店先に置かれた漬物石である。
動かそうとすると腰をやる。
翌朝、私は帳場で反物の値札を見比べていた。
青柳屋の反物。
黒瀬屋の反物。
同じような色。
同じような柄。
けれど値は違う。
黒瀬屋の方が、ずっと安い。
「若旦那」
藤兵衛が、帳場の向こうから声をかけてきた。
「昨日の奥方の反物、小春殿の仕立て屋へ届けました」
「ありがとうございます」
「ただ……」
出た。
この「ただ」は、もはや青柳屋名物である。
旅館の朝食に付いてくる小鉢くらい自然に出てくる。
「小春殿から、気になる話を聞きました」
「気になる話?」
「黒瀬屋の反物を染めている染め場で、最近、仕事が荒れているそうです」
私は値札から顔を上げた。
「荒れている、とは」
「納期が短く、量が多い。色を落ち着かせる暇がないまま、次の染めに入っているとか」
なるほど。
安さの裏には、やはり誰かの手がある。
前世でもそうだった。
安い服。
安い弁当。
安い配達。
安いサービス。
安さに助けられたことは何度もある。
でもその安さの奥で、誰かの時間や体力が薄く削られていたことも、きっとあった。
私は羽織を取った。
「見に行きましょう」
「黒瀬屋の染め場へ、でございますか」
「はい」
「若旦那」
藤兵衛が少しだけ眉を寄せた。
「向こうの商いに口を出すことになります」
「口は出しません。目だけ出します」
「目だけ、でございますか」
「はい。見ないことには、何も言えませんから」
外側の私は、ずいぶん落ち着いた声でそう言った。
だが内側の私は、すでに町内会の会議室で挙手したことを後悔している人みたいになっていた。
行くって言った。
言っちゃった。
前世では、知らない店に一人で入るだけでも入口前を二往復していた女が、今はライバル商人の取引先を見に行こうとしている。
人生、急に営業力を求めてくるな。
青柳屋から二町ほど離れた川沿いに、その染め場はあった。
細い水路。
板塀。
干された布。
藍や茜の匂いが、湿った風に混じっている。
染め場の前では、若い男が桶を運んでいた。
顔色が悪い。
腕は細いが、手だけが赤く荒れている。
「ごめんください」
声をかけると、男は驚いたようにこちらを見た。
「青柳屋の若旦那さん?」
「はい。少し、お話を伺っても」
「うちは黒瀬屋さんの仕事を受けてるんで」
「承知しています。今日は、商談ではありません」
男は困った顔をした。
その時、奥から低い声がした。
「帰ってくれ」
出てきたのは、四十代半ばほどの男だった。
肩幅があり、袖をまくった腕は染料でまだらに染まっている。
染め職人というのは、布だけでなく自分の腕まで仕事の証になるらしい。
「青柳屋さんに話すことはない」
「お邪魔でしたら、すぐ帰ります」
「だったら帰ってくれ。黒瀬屋とうちは契約している。あんたら老舗のきれいごとに付き合う暇はない」
きれいごと。
この言葉、最近よく刺さる。
まるで台所の隅に落ちている小さな骨みたいに、踏むと地味に痛い。
「わかりました」
私は頭を下げた。
「では、ひとつだけ教えてください」
「なんだ」
「今、染め場は回っていますか」
男は黙った。
その沈黙で、少しだけ答えが見えた。
若い男が、桶を持ったまま目を伏せる。
私は続けた。
「黒瀬屋の安さを悪いとは思っていません。助かるお客もいます。ただ、その安さで染め場が潰れるなら、いずれ黒瀬屋も困るのではないかと」
「そんなことは、こっちもわかってる」
男の声が荒くなった。
「だが、仕事がなきゃ食えねえ。青柳屋みたいな上物ばかり扱う店にはわからんだろうがな、安い仕事でも数があれば釜は焚ける。釜を焚かなきゃ、職人は散る」
正論だった。
また出た。
正論の漬物石、二個目。
腰が終わる。
しかも今回は、逃げ馬の単勝を握りしめている気分だった。
直線まではよかった。
四角先頭。
手応えあり。
これは残る。たぶん残る。いや、残ってくれ。
そう祈った瞬間、外から一頭、ぐいっと並んでくる。
頼む。
残って。
お願い、あと首だけ。
いや鼻でもいい。写真判定でもいい。
けれどゴール板の前で、二頭の馬体がぴたりと重なって、そのまま流れていく。
勝ったのか。
差されたのか。
心臓だけが、まだ直線を走っている。
商いの判断も、あの感じに似ている。
行けると思った瞬間ほど、最後にもう一頭、別の事情が並んでくる。
「でも父さん、このままじゃ兄さんの手が」
若い男が小さく言った。
「黙ってろ」
父さん、と呼ばれた染め職人は振り向きもしなかった。
若い男の手は、赤くただれていた。
水仕事。
染料。
急ぎ。
量。
きっと、夜も遅いのだろう。
私はその手を見て、胸の奥が少し重くなった。
安さは救いだ。
だが、誰かの手を壊してまで続けるなら、救いの形をした別の何かになる。
「若旦那」
背後から声がした。
振り返ると、黒瀬伊織が立っていた。
黒い羽織。
涼しい目。
相変わらず、朝から会議室の空気を連れて歩いている。
「うちの染め場に、何のご用です」
「見に来ました」
「見物なら、お帰りを」
「見物ではありません」
「では、偵察ですか」
「それに近いかもしれません」
伊織の眉が、わずかに動いた。
藤兵衛がいたら、たぶん今ごろ胃を押さえている。
だが、嘘をついても仕方ない。
「黒瀬屋の安さが、どこから来ているのか知りたかった」
「知ってどうします」
「まだ、そこまでは」
「ずいぶん無責任ですね」
「ええ。だから、まず見に来ました」
伊織はしばらく私を見ていた。
染め場の空気が、ぴんと張る。
川の音だけが聞こえる。
「安く売るには、数が必要です」
伊織が言った。
「数を売るには、納期が必要です。納期を詰めれば、職人に負荷がかかる。それは承知しています」
「承知の上で?」
「ええ。そうしなければ、うちは伸びません」
まっすぐだった。
嫌な男だと思う。
でも、逃げない男でもある。
「伊織さん」
「何です」
「伸びた先で、染め場が倒れたらどうします」
伊織は答えなかった。
「代わりの染め場を探す、ですか」
「それも手です」
「強いですね」
「商いですから」
「けれど」
私は、若い染め職人の手を見た。
「人の手は、消耗品ではありません」
その場が静かになった。
言ってから、内心で頭を抱えた。
また言った。
若旦那っぽいことを言った。
前世では、会社の備品扱いされても笑って流していた女が、今は川沿いの染め場で人の手を守る発言をしている。
人生の脚本、だいぶクドカンが入ってきた。
笑いながら泣かせようとしてくる。
伊織は、低い声で言った。
「では、青柳屋ならどうします」
私は少し考えた。
「黒瀬屋の安い品を、全部やめる必要はありません」
「ほう」
「ただ、染め場の仕事を二つに分けます」
「二つ?」
「日々の布と、晴れの日の布です」
私は干された反物を見上げた。
「普段使いの安い布は、数を作る。ただし、色むらや耐久については売る時に説明する。長く着たい人、祝い事に使いたい人には、別の布を勧める」
「それでは高い方が売れない」
「説明次第です。安い布を否定せず、役目を分けるんです」
私は染め職人の方を見た。
「染め場も、急ぎの釜と、時間をかける釜を分ける。急ぎは急ぎの値。時間をかけるものは、そのぶんの値をつける」
染め職人が鼻で笑った。
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
「客は安い方に流れる」
「流れます」
「だったら同じだ」
「いえ」
私は首を横に振った。
「安い方に流れる人は、それでいいんです。必要だから安い方を選ぶ。ただ、知らずに安い方を選んで後で泣く人を減らしたい」
伊織が黙っている。
「そして、ちゃんとした布が必要な人には、その理由を伝える。高いから良い、安いから悪いではなく、何に使うかで選べるようにする」
前世の私は、よくわからないまま選んでいた。
安いから。
みんなが選ぶから。
自分にはこの程度でいいと思ったから。
でも本当は、選ぶ前に知りたかった。
何が違うのか。
なぜ値が違うのか。
自分に必要なのはどれなのか。
「伊織さん」
「はい」
「黒瀬屋の強さは、安さと速さです。でもそこに説明が加われば、もっと強くなるのでは」
伊織の目が、少しだけ変わった。
「青柳屋が、それを教えると?」
「いいえ」
私は笑った。
「黒瀬屋さんに、青柳屋の真似をしてほしいわけではありません。むしろ、黒瀬屋さんがやった方が早い」
「ずいぶん敵に塩を送りますね」
「塩が足りない商いは、味がぼやけますから」
言った瞬間、内心の私が額を押さえた。
何その返し。
急に小料理屋の女将みたいなことを言うな。
まだなぎささんも出てきていないのに、脳内で先行登場している。
伊織は一瞬だけ、笑った。
本当に一瞬だった。
「青柳屋の若旦那は、面白い」
「よく変だと言われます」
「似たようなものです」
伊織は染め職人に向き直った。
「次の納期を一日延ばします」
染め職人が目を見開いた。
「いいんですか」
「ただし、急ぎで出す布と、少し上の布を分ける。札も変える。客に用途を聞く」
「そんなこと、店先でできますか」
「やります」
伊織はそう言った。
強い声だった。
「黒瀬屋は安売りだけの店ではない。そう見せる機会にもなる」
染め職人は、ゆっくり頭を下げた。
若い男は、自分の赤い手を見て、少しだけ息を吐いた。
その息の軽さに、私は胸の奥がほどけるのを感じた。
勝ったわけではない。
青柳屋の売上が増えたわけでもない。
むしろ、黒瀬屋が強くなる手伝いをした気すらする。
でも。
誰かの手が、少し壊れにくくなるなら。
それは、たぶん悪い商いではない。
帰り道、伊織が隣に並んだ。
「若旦那」
「はい」
「あなたは甘い」
「自覚はあります」
「けれど、ただの甘さではない」
「それは褒め言葉ですか」
「保留です」
保留。
前世の私なら、この言葉だけで三日は気にしていた。
けれど今は、不思議と少し笑えた。
「では、保留のままお預かりします」
「商人ですね」
「一応、若旦那ですので」
伊織は黒瀬屋の方へ歩いていった。
その背中は、やはり涼しい。
でも昨日より、少しだけ人の温度が見えた気がした。
青柳屋に戻ると、お鈴が駆け寄ってきた。
「若旦那、どうでした?」
「染め場を見てきました」
「怖くなかったですか」
「怖かったですよ」
「え、若旦那でも怖いんですか」
「もちろんです」
私は笑った。
「怖くないふりが、少し上手くなっただけです」
お鈴は目を丸くしたあと、なぜか嬉しそうに笑った。
帳場に座ると、藤兵衛が茶を出してくれた。
「収穫はございましたか」
「はい」
「どのような」
「安さにも、いろいろあるようです」
私は湯呑みを両手で包んだ。
「人を助ける安さと、人を削る安さ。その違いを、ちゃんと見ていきたいと思います」
藤兵衛は静かに頷いた。
私は帳面を開く。
数字は、やはり簡単ではない。
でも、少しだけ怖さが変わった。
数字の奥に、人の手がある。
それなら、数字を見ることは、人を見ることでもあるのかもしれない。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、安さに飛びつくだけでもなく、値の高さに怯えるだけでもなく、その奥にある手を見て生きてみよう。
そう思ったところで、帳面の未払い欄が目に入った。
私待つわ。
お支払い待つわ。
脳内のあみんが、静かにハモりはじめる。
仕入れ先の怨念めいた圧の怖さを。
帳面の向こうから、
「で、お支払いはいつ頃で」
という声なき声が聞こえる。
異世界に来ても、支払いサイトは情緒を許してくれない。
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