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第4話 若旦那、安売りの向こう側を見る


 黒瀬屋の安売りは、想像以上に効いていた。


 朝市で見かけた黒い暖簾


 大きな札。

 積み上げられた反物。

 威勢のいい売り声。


 その翌日から、青柳屋の客足は目に見えて鈍った。


 帳場に座る藤兵衛の背中が、いつもより少し硬い。


 奉公人のお鈴も、店先を掃きながら何度も通りの向こうを見ている。


 私は帳面を開いた。


 数字が並んでいる。


 売上。

 仕入れ。

 支払い。

 そして、昨日より少しだけ寂しくなった売上欄。


「……うわ」


 思わず湯呑みに手が当たり、茶が少しこぼれた。


 お鈴が慌てて布巾を持ってくる。


「若旦那、大丈夫ですか」


「ええ。少し、数字に足を取られました」


 外側の私は、若旦那らしく静かに湯呑みを戻した。


 だが内側の私は、畳の上で盛大に転んでいた。


 バカにしないでよ。

 五分前の私、プレイバック。


 朝粥の湯気に救われたとか言っていた私を、いますぐ帳場まで連れてきて正座させたい。


 人生をやり直したかったのであって、売上欄の薄さと見つめ合いたかったわけではない。


「若旦那」


 藤兵衛が静かに言った。


「今日も黒瀬屋に客が流れております」


「でしょうね」


「こちらも、多少値を下げますか」


 私は帳面から顔を上げた。


 藤兵衛の声は落ち着いていた。


 だが、これは重い問いだ。


 値を下げる。


 簡単に聞こえる。


 前世でも、セールという言葉には何度も助けられた。

 半額シールの貼られた惣菜には、何度も心の中で手を合わせた。


 安さは悪ではない。


 むしろ、苦しい人の味方である。


 けれど、青柳屋が今それをする意味は、よく考えなければならない。


「藤兵衛さん」


「はい」


「黒瀬屋の反物は、そんなに悪い品ですか」


「悪いとまでは申しません。ただ、青柳屋の品とは違います」


「違う、ですか」


「はい。薄いものが多うございます。染めも早い。値段に合わせた品です」


 なるほど。


 安いなりの理由がある。


 それは別に、悪いことではない。


 千円のものには千円の役目がある。

 一万円のものには一万円の役目がある。


 問題は、それをごまかしているかどうかだ。


 その時、店先に一人の女が入ってきた。


 年の頃は二十代半ば。

 腕に赤子を抱いている。

 着物はよく洗われているが、袖口は少し擦り切れていた。


「若旦那さん」


「いらっしゃいませ」


 私は立ち上がった。


 女は少し言いにくそうに、包みを差し出した。


「これ、昨日、黒瀬屋さんで買ったんです」


 包みの中から出てきたのは、淡い桃色の反物だった。


 一見、きれいだった。


 だが、近づいて見ると、染めに少しムラがある。

 端の処理も、やや粗い。


「お子さんのものですか」


「はい。初節句にと思って。でも、家に帰って広げたら、ここの色が少し違っていて」


 女は反物の端を指で示した。


「黒瀬屋さんに持っていったんですけど、安い品だから仕方ないって言われて」


 お鈴が眉を寄せた。


 藤兵衛は何も言わずに反物を見ている。


 私は反物に手を添えた。


 安い品だから仕方ない。


 この言葉は、危ない。


 安いから粗くていい。

 安いから文句を言うな。

 安いから泣き寝入りしろ。


 そこまで行くと、それはもう商いではなくなる。


 ただ、ここで黒瀬屋を悪者にするのも違う。


 女は黒瀬屋で買った。

 青柳屋の客ではない。


 ここで無料で直せば、青柳屋はいい顔をしたことになる。

 だが、それでは黒瀬屋の尻拭いを青柳屋がすることになる。


 しかも、それを続ければ、青柳屋が先に沈む。


 初手から難しい。


 白と發を鳴かれたあと、なぜか手元に中が来た気分である。


 いや、来るな。

 今じゃない。

 ピンポン、次降ります。


 切れば振り込む気がする。

 抱えれば手が重い。


 商いも麻雀も、危ない牌ほど妙に手に吸いついてくる。


「奥さま」


「はい」


「これは、黒瀬屋さんで買われた品です。ですから本来は、黒瀬屋さんが説明すべきものです」


 女の顔が少し曇った。


「やっぱり、そうですよね」


「ただし、直し方を見ることはできます」


「え」


「この部分だけなら、仕立て方で少し目立たなくできるかもしれません。ですが、青柳屋がただで直すことはできません」


 女は赤子を抱き直した。


「いくらくらい、かかりますか」


「小春さんの仕立て屋に見せましょう。見積もりを出してもらいます。その上で、無理がないか一緒に考えます」


 お鈴がほっとしたように息を吐いた。


 その時だった。


「ずいぶん、まどろっこしい商いをされますね」


 店の入り口に、男が立っていた。


 年は私と同じくらいだろうか。


 黒い羽織。

 涼しい目。

 きっちり結われた髪。


 顔は整っている。


 だが、笑っていない。


 この人、絶対に仕事ができる。

 そして、会議で感情論を一刀両断してくるタイプである。

 前世の私なら、同じ部署にいたら目を合わせないようにしていた。


 藤兵衛が低く言った。


「黒瀬屋の若旦那、黒瀬伊織殿です」


 出た。


 ライバル商人。


 効果音が聞こえる。

 脳内で謎の風が吹いている。

 少年漫画なら、ここで背景に集中線が入る。


「青柳屋の若旦那ですね」


「青柳千景です」


「黒瀬伊織です」


 伊織は軽く頭を下げ、それから女の反物を見た。


「それは、うちの品ですね」


 女がびくりと肩を揺らした。


「す、すみません」


「謝ることではありません」


 伊織はそう言った。


 けれど声は冷たい。


「その反物は、値段を抑えた品です。高級な仕立てを前提にはしておりません。初節句に使うには十分でしょう」


「でも、色が」


「その分、安い」


 伊織は私を見た。


「青柳屋さんなら、同じ値で同じ量を出せますか」


「出せません」


 私は正直に答えた。


 伊織の目が少しだけ動いた。


「では、うちの商いにも意味があります。安い品を求める客は多い。皆が皆、青柳屋の反物を買えるわけではない」


「その通りです」


 これは認めなければならない。


 安さは救いだ。


 黒瀬屋の品で助かっている人も、きっといる。


 ただし。


「ですが、伊織さん」


「はい」


「安い理由を、買う方が納得していないなら、それは説明が足りないのでは」


 店の空気が静かになった。


 伊織の目が、初めて少し鋭くなった。


「安い品に、どこまで説明を求めるのです」


「少なくとも、後で泣き寝入りしない程度には」


「泣き寝入りですか」


「ええ」


 私は反物を撫でた。


「この品が悪いとは言いません。値に合わせた役目があるのでしょう。ですが、初節句のために買う人に、色むらが出ることもあると伝えた上で売るのと、ただ安いとだけ言って売るのとでは、同じ安売りでも違います」


 伊織は黙った。


「青柳屋は、黒瀬屋さんと同じ値では売れません。ですが、品の役目は説明します。長く着るものか、一度の晴れの日か、普段使いか。買う人が納得して選べるようにしたい」


「それでは手間がかかる」


「かかります」


「回転が落ちる」


「落ちます」


「儲けが薄い」


「薄くなるでしょう」


 伊織は少し笑った。


 冷たい笑いではなかった。


 むしろ、呆れている。


「人情で帳簿は埋まりませんよ、若旦那」


 来た。


 これは強い。


 真正面からの正論である。


 私は心の中で、そっと白旗を三センチほど上げかけた。


 だが、下ろした。


「ええ。人情だけでは埋まりません」


 私は言った。


「だから、算盤を置くのです」


 伊織の眉がわずかに動いた。


「人情で店を潰す気はありません。ただ、帳簿だけ見て人の顔を見なくなれば、暖簾は残っても店ではなくなります」


 藤兵衛が静かにこちらを見ている。


 お鈴は完全に息を止めている。


 女は赤子を抱きながら、私と伊織を交互に見ていた。


「この反物は、小春さんの仕立て屋に見せます。直し代は、この方に払っていただきます。ただし、青柳屋からも少し仕事を回します。仕立て屋に損はさせません」


「また三方ですか」


「はい」


「面倒な商いですね」


「私もそう思います」


 言ってから、少し笑ってしまった。


 伊織も、一瞬だけ意外そうな顔をした。


「ただ、面倒だから見えるものもあります」


 伊織は何も答えなかった。


 やがて、女に向き直った。


「その反物」


「はい」


「次からは、用途を先に言ってください。初節句用なら、別の品を勧めます」


 女は目を丸くした。


「はい」


「今回は、黒瀬屋からも少し仕立て代を出しましょう」


「え」


 私も驚いた。


 伊織は私を見ずに言った。


「青柳屋にだけ、いい顔をさせるわけにはいきませんので」


 なるほど。


 負けず嫌いだ。


 でも、悪い人ではない。


 いや、悪い人ではないという判断は早いか。

 こういうタイプは、二話後くらいにとんでもない正論でこちらの心臓を刺してくる。


 私は静かに頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼を言われる筋ではありません。うちの客の話です」


 伊織はそう言って、店を出ていこうとした。


 その背中に、私は声をかけた。


「伊織さん」


「何です」


「黒瀬屋の商いは、強いですね」


 伊織は少し振り返った。


「当然です」


「だから、学ばせていただきます」


 その言葉に、伊織はわずかに目を細めた。


「青柳屋の若旦那は、変わっていると聞きましたが」


「よく言われます」


「では、また」


 黒い羽織が、通りへ消えていく。


 店の中に、ようやく息が戻った。


 お鈴が小さく言った。


「若旦那、すごかったです」


「そうですか」


「はい。なんか、商人同士の勝負って感じでした」


 勝負。


 そう見えたなら、少し困る。


 私としては、試合開始のホイッスルが鳴った瞬間にボールの位置を見失っていたくらいの感覚だった。


 けれど、飛んではいない。


 またそれか、と脳内の自分が言う。


 でも大事なのだ。


 人生も商いも、まず飛ばないことが大事。


 藤兵衛が、低い声で言った。


「若旦那」


「はい」


「黒瀬屋を敵に回されますか」


「いえ」


 私は帳場に戻りながら答えた。


「敵にするには、少し惜しい相手です」


「では、味方に?」


「それもまだ早いですね」


 私は黒瀬屋の暖簾が見える方へ目を向けた。


「まずは、向こうの商いをよく見ます。強い相手からは、学べることも多い」


 前世の私は、人と比べてばかりいた。


 誰かができることを見るたび、自分ができない証拠のように受け取っていた。


 でも、今は少し違う。


 相手が強いなら、怖がるだけではなく、見る。


 何が強いのか。

 どこが危ういのか。

 こちらは何を守るのか。


 そうやって、一つずつ考える。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は、比べて沈むのではなく、比べて学んでみよう。


 そう思って帳面を開いた。


 なお、売上欄は今日も薄い。


 会いたくて震える。


 いや違う。


 売上が薄くて震えている。


 脳内の西野カナに、たぶん別件ですと頭を下げた。


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