第3話 若旦那、朝粥の湯気に救われる
青柳屋の朝は、思っていたより早い。
まだ空が薄青い頃から、裏口では水を汲む音がしていた。
台所では釜が鳴り、奉公人たちが小声で動き、表の暖簾はまだ下りているのに、店の中だけはもう一日が始まっている。
前世の私は、朝が苦手だった。
目覚ましを三つかけても起きられず、布団の中で「あと五分」を三回唱え、結果として十五分を失う女だった。
なお、その十五分はなぜか毎朝、人生全体の敗北感を連れてくる。
それが今は若旦那である。
寝癖もなく、着物もきちんと着せられ、朝から帳場に座らされている。
人生の出世魚にもほどがある。
昨日までイワシだったのに、急に「今日から鯛です」と言われても、こっちはまだ群れで泳ぎたい。
「若旦那、朝餉でございます」
女中のお鈴が、膳を運んできた。
年は十六、七くらいだろうか。よく動く娘で、こちらが何か言う前に湯呑みの位置まで直してくれる。
膳には、朝粥。
焼いた干物。
香の物。
湯気の立つ味噌汁。
地味だった。
でも、ものすごくちゃんとしていた。
「いただきます」
そう言って箸を取った瞬間、私は少しだけ固まった。
朝粥が、うまい。
米の甘みが、ゆっくり舌に乗る。
味噌汁の湯気が鼻に届く。
干物の塩気が、寝ぼけた身体をそっと起こす。
前世でよく食べていたコンビニのおにぎりも好きだった。
あれはあれで、忙しい人間の味方だった。
けれどこの朝粥には、誰かが火を見て、米を見て、こちらの起きる時間を見てくれていた気配がある。
言葉にならない。
脳内の小田和正が、そっとピアノに手を置いた。
「若旦那?」
お鈴が不思議そうに首を傾げた。
「いえ。うまいなと思いまして」
そう言うと、お鈴はぱっと笑った。
「台所のお滝さんが聞いたら喜びます」
「お滝さん?」
「飯炊きのお滝さんです。若旦那が倒れてから、ずっと粥の炊き方を変えてたんですよ。お腹に重くないようにって」
知らなかった。
私が目を覚ました時、すでに誰かの気遣いは始まっていたのだ。
店とは、帳面と暖簾だけでできているわけではない。
米を研ぐ手。
火を見張る目。
廊下を拭く膝。
客の履物をそろえる指。
そういうものが、朝の青柳屋を支えている。
私は粥をもう一口食べた。
うまい。
そして、少しだけ怖い。
これだけの人の朝を背負っているのかと思うと、胃のあたりが静かに正座する。
「若旦那、今日は表の市を見に行かれては」
いつの間にか、番頭の藤兵衛が帳場に立っていた。
「市ですか」
「はい。月に三度の朝市でございます。町の流れを見るには、店の中にいるより早うございます」
なるほど。
若旦那研修、急に実地である。
前世の会社でも、新人研修はあった。
ただし資料を読んでハンコを押すやつだった。
こちらの研修は、城下町を歩かされる。
歩数計アプリがあれば褒めてくれただろう。ないけど。
私は羽織を整えて、藤兵衛と表へ出た。
朝の城下町は、昼間とまるで違った。
通りには、桶を担ぐ水売りがいる。
豆腐を売る男が声を張っている。
籠屋が眠そうな顔の客を乗せて走り、魚屋の小僧が桶の水を跳ねさせている。
道の端では、茶屋が湯を沸かしていた。
湯気の向こうで、団子が並ぶ。
朝とは、静かなものだと思っていた。
違う。
朝は、働く人たちの準備運動だった。
町全体が、まだ眠そうな顔をしながら、少しずつ商いの形になっていく。
「若旦那、おはようございます」
声をかけてきたのは、小春だった。
腕には布包み。
昨日の仕立ての準備だろう。
「小春さん。早いですね」
「針仕事の家は、朝の光が大事なんです。夜の灯りでは、色も針目も少し違って見えますから」
「なるほど」
勉強になる。
私は、布の世界のことをまだ何も知らない。
前世の私は、服といえばだいたい「洗濯機に耐えるか」「アイロンが必要か」「試着室の鏡が信用できるか」で判断していた。
しかしここでは、光が仕事を変える。
朝日で見る布。
昼に映える柄。
夜に沈む色。
同じ一反でも、時間によって顔が違う。
「若旦那、昨日の件、父が少し機嫌よく針を研いでました」
「それはよかった」
「でも、口では『若旦那はまだ甘い』って言ってました」
「そこは否定できません」
小春は笑った。
その笑顔が、朝の光に混じる。
やめてほしい。
朝からその破壊力は強い。
こちらはまだ粥一杯分の防御力しかない。
恋愛方面のレベル上げは、前世でほぼ未着手なのだ。
すると、通りの向こうから大きな声がした。
「安いよ安いよ! 反物なら黒瀬屋! 早い、安い、数がある!」
人だかりができていた。
黒い暖簾。
大きな札。
積み上げられた反物。
青柳屋のものより、ずっと安い。
若い客が何人か、そちらへ吸い寄せられていく。
藤兵衛の顔が、少しだけ硬くなった。
「あれが、黒瀬屋です」
「新興商人の」
「はい」
なるほど。
安い。
早い。
わかりやすい。
これは強い。
前世で言えば、駅前に突然できた大型チェーン店である。
個人商店の心臓に、ポイント五倍デーを叩きつけてくるやつだ。
小春が、小さく言った。
「安いのは、助かる人もいます」
「そうですね」
私は頷いた。
安いこと自体は悪ではない。
懐が苦しい人にとって、安さは救いだ。
けれど、誰かの手を削ってできた安さなら、いずれ町のどこかに皺が寄る。
昨日の清六の言葉が、まだ耳に残っている。
安く早くと言われるたび、娘が夜なべする。
黒瀬屋の反物の裏にも、誰かの手があるはずだ。
その手が笑っているのか、泣いているのか。
今はまだ、わからない。
「若旦那?」
小春が私を見上げた。
「いえ。朝市は、勉強になりますね」
「若旦那、すごく若旦那っぽいこと言ってます」
「中身はまだ、粥に感動しているだけです」
「ふふ。じゃあ、また青柳屋に寄ります」
「お待ちしています」
小春は布包みを抱え直し、仕立て屋の方へ歩いていった。
その背中を見送っていると、藤兵衛がぽつりと言った。
「若旦那」
「はい」
「黒瀬屋を、どう見ますか」
私は少し考えた。
「強い店です」
「敵ではなく?」
「敵にするかどうかは、こちらの勝手です。ただ、向こうが強いのは確かです」
安さ。
速さ。
量。
それはそれで、商いの力だ。
人情だけでは帳面は埋まらない。
それはわかる。
けれど。
「うちは、うちの朝を守りましょう」
「朝、でございますか」
「はい」
私は青柳屋の方を見た。
お滝さんの粥。
お鈴の膳。
藤兵衛の帳場。
職人の針。
客の顔。
そういうものが、毎朝ちゃんと起きられる店でいたい。
「安さで負ける日もあるでしょう。でも、うちで買った一枚を、明日の朝も大事に思ってもらえるようにする。それが青柳屋の商いなのではないかと」
藤兵衛は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を細めた。
店に戻る頃には、通りに日が差していた。
青柳屋の暖簾が上がる。
お鈴が店先を掃き、お滝さんが台所で釜を洗い、藤兵衛が帳場へ座る。
私はもう一度、朝粥の湯気を思い出した。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、ちゃんと朝を味わって生きてみよう。
そう思って帳面を開いた。
なお、数字は相変わらず私にだけ冷たかった。
違う違う、そうじゃない。
脳内の鈴木雅之が、サングラス越しに首を振っている。
私は人生をやり直したかったのであって、帳簿と差し向かいで見つめ合いたかったわけではない。




