第2話 若旦那、針仕事の値を下げない
翌朝、私は帳場の前で固まっていた。
目の前には、帳面がある。
数字が並んでいる。
売上。仕入れ。未払い。貸し。借り。
前世で家計簿アプリを三日で放り投げた女に、老舗呉服商の帳面を読ませるな。
しかも墨で書いてある。
修正ボタンがない。
戻るボタンもない。
人生のUIが厳しすぎる。
「若旦那」
横に控えた番頭の藤兵衛が、静かに声をかけてきた。
「昨日の親方の反物、仕立て屋へ使いを出しました」
「ありがとうございます」
「ただ……」
藤兵衛が、わずかに言いよどんだ。
この「ただ」はだいたい良くない。
プロ野球で言えば、九回表に守護神が出てきたのに、先頭打者へ四球を出した時の空気である。
「仕立て屋の清六が、急ぎの仕事は受けられぬと」
「清六さん?」
「小春殿の父親です。腕は確かですが、頑固でして」
ああ。
出た。職人の頑固。
嫌いではない。むしろ好きだ。
けれど今は困る。
昨日、親方にあれだけ若旦那顔で約束してしまったのだ。
外側では涼しい顔をしているが、内側ではすでに土下座の準備運動を始めている。
「私が行きます」
「若旦那自らでございますか」
「約束したのは私ですから」
言ってしまった。
前世の私なら、こういう時はメール文面を三十分悩んで、結局「お世話になっております」を三回消していた。
それが今は職人の家へ直談判である。
転生、スパルタがすぎる。
仕立て屋は、青柳屋から二筋離れた路地にあった。
表には小さな看板。
軒先には、洗い張りされた布が風に揺れている。
針仕事の家というのは、不思議と空気まで細い。静かなのに、手だけがずっと動いている気配がする。
「ごめんください」
声をかけると、中から小春が顔を出した。
「あ、若旦那」
昨日と同じ娘だった。
目元がはっきりしていて、笑うと少しだけ幼く見える。
やめてほしい。
その顔は前世の私の恋愛経験値では受け止めきれない。
初期装備の木の盾でドラゴンの火球を受けるようなものだ。
「父にお話ですか」
「ええ。昨日の仕立てのことで」
小春の表情が、少し曇った。
「父は奥です。でも、たぶん、簡単には首を縦に振りません」
「でしょうね」
「わかるんですか?」
「職人さんの『できない』には、だいたい理由がありますから」
奥の仕事場に通されると、白髪まじりの男が針を持ったまま座っていた。
小春の父、清六。
背は高くない。
声も大きくない。
けれど、こちらを見上げた目が鋭い。
「若旦那。昨日の話は聞きました」
「急なお願いで申し訳ありません」
「うちは、安請け合いはしません」
清六は針を布に通しながら言った。
「祝言の着物は、一度きりのものです。急げば粗が出る。粗が出れば、娘さんが恥をかく。青柳屋の顔も、うちの名も落ちる」
正論だった。
ぐうの音も出ない。
正論というのは、たまに刃物より痛い。切れ味のいい出刃包丁みたいに、こちらの甘さをすぱっとおろしてくる。
「それに」
清六は、ちらりと小春を見た。
「最近は、安い仕立てを求める客が増えました。半値だ急ぎだと言われるたび、娘が夜なべする。若旦那の人情で、うちの娘が泣くのはごめんです」
小春が、ぎゅっと唇を結んだ。
その瞬間、胸の奥が少し熱くなった。
これは、私が見落としていた痛みだった。
親方の顔。
青柳屋の値。
仕立て屋への仕事。
三方を見たつもりでいた。
でも、その仕事を実際に縫う手の疲れまでは、まだ見えていなかった。
危ない。
これは危険牌だった。
国士無双どころか、親の倍満に向かって字牌を切りかけていた。
振り込む前に止めてもらえて、本当によかった。
私は畳に手をつき、頭を下げた。
「申し訳ありません。そこまで見えておりませんでした」
清六の針が止まった。
「若旦那が頭を下げることでは」
「いえ。約束をしたのは私です。人情のつもりで、誰かの手に無理を乗せるところでした」
小春が、少し驚いた顔で私を見ている。
外側の若旦那は落ち着いている。
内側の私は正座で汗だくだ。
心の中では、解説席の元プロ野球選手が「今の判断、危なかったですね」と真顔で言っている。
「清六さん」
「はい」
「急ぎ賃は、きちんと払います」
藤兵衛がいたら、たぶん眉を動かしていただろう。
「その上で、青柳屋から人を一人出します。針は持たせません。使い走り、火の番、布の運び、食事の用意。小春さんと清六さんが、針仕事だけに集中できるようにします」
清六は黙って聞いていた。
「それから、今後、急ぎ仕事を頼む時の決まりを作りましょう。急ぎには急ぎの値をつける。夜なべが必要なら、その分を払う。客にも、青柳屋から説明します」
「客が逃げますぞ」
「逃げる客もいるでしょう」
私は少しだけ笑った。
「ですが、安くて早いだけの仕立てなら、うちでなくてもできます。青柳屋は、娘さんが胸を張って着られる一枚を売りたい」
清六の目が、わずかに細くなった。
「若旦那」
「はい」
「それは、きれいごとです」
「ええ」
私はうなずいた。
「だから、算盤を添えます」
店が潰れるほどの人情はしない。
職人が泣くほどの安売りもしない。
客が置いていかれるほど高くもしない。
きれいごとを、どうにか商いの形にする。
たぶん、それが若旦那の仕事なのだ。
清六はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「三日ください」
「ありがとうございます」
「ただし、娘は夜なべさせません」
「もちろんです」
「若旦那のところから出す人は、使い物にならなければ叩き返します」
「それも、もちろんです」
小春が、こらえきれないように笑った。
「父さん、受けるんじゃない」
「うるさい。条件が合っただけだ」
清六はそっぽを向いた。
頑固職人というのは、素直に頷くと死ぬ呪いでもかかっているのだろうか。
でも、嫌いではない。
むしろ、こういう人がいる町は、まだ大丈夫だと思える。
帰り際、小春が表まで送ってくれた。
「若旦那」
「はい」
「昨日、父が少し怒ってたんです。若旦那は、人がいいだけなんじゃないかって」
「耳が痛いですね」
「でも、今の話を聞いたら、たぶん少し安心したと思います」
「そうだといいのですが」
小春は、軒先の布を見上げた。
「私、針仕事は好きです。でも、安く早くって言われると、だんだん自分の手まで安くなる気がして」
その言葉は、前世の私に少し刺さった。
便利な人。
断らない人。
頼めばやってくれる人。
そう呼ばれるうちに、自分の時間も、自分の手も、少しずつ安く見積もっていた。
私は静かに言った。
「小春さんの手は、安くありません」
小春がこちらを見た。
「だから、安く扱われないように、うちも気をつけます」
言ってから、内心で頭を抱えた。
何それ。
何その台詞。
前世の私なら、そんな言葉を言われた日には、三日は布団の中で反芻するやつである。
しかも言ったのが私。
ジャンルが急に少女漫画へ寄ってきた。
編集会議、誰か止めて。
けれど小春は、少しだけ頬を赤くして、笑った。
「変な若旦那」
「よく言われます」
「まだ一回しか言ってません」
「では、これから増えるかもしれませんね」
小春は声を出して笑った。
その笑い声を背中に受けながら、私は青柳屋へ戻った。
店に戻ると、藤兵衛が帳場から顔を上げた。
「いかがでしたか」
「受けていただけました」
「それは何より」
「ただし、急ぎ賃はきちんと払います。あと、うちから人を一人出します。針仕事以外の手伝いに」
藤兵衛の眉が、今度こそ動いた。
「若旦那」
「はい」
「よろしいのですか。こちらの取り分は薄くなります」
「薄くなっても、破れてはいません」
私は帳場の上の反物を見た。
「人の手を安く踏んで残る利益なら、いずれ暖簾の方が擦り切れます」
藤兵衛はしばらく私を見ていた。
それから、ゆっくり頭を下げた。
「承知いたしました」
その声に、少しだけ柔らかさが混じっていた。
私は帳面の前に座る。
数字は相変わらず難しい。
でも、少しだけ意味が見えた気がした。
売上は大事。
利益も大事。
でも、その奥には必ず誰かの手がある。
織る手。
染める手。
縫う手。
渡す手。
受け取る手。
商いは、その手を安くするためにあるんじゃない。
ちゃんと明日も動けるように、手と手の間に値をつけるものなのだ。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、自分の手も、誰かの手も、安く見積もらないで生きてみよう。
そんなことを思いながら、私は帳面を開いた。
なお、数字はやっぱり読みにくかった。
人生、そう簡単には黒字にならない。




