第1話 若旦那、初手から半値交渉を受ける
目を覚ましたら、知らない天井だった。
いや、天井だけならまだいい。
布団がふかふかだった。
部屋が広かった。
障子の向こうで、鳥が鳴いていた。
そして何より、枕元に座っている白髪まじりの男が、やけに深刻な顔でこちらを見ていた。
「若旦那。お加減はいかがでございますか」
若旦那。
誰が。
私は布団の中で、ゆっくり瞬きをした。
「……若旦那?」
「はい。青柳千景様」
青柳千景。
知らない名前だった。
私の名前は、佐伯千佳だったはずだ。
三十六歳。独身。彼氏なし。
職場では便利な人扱い。頼まれごとは断れず、でも大事にはされず、帰り道にコンビニのシュークリームを買って、自分にだけ小さく優しくする女だった。
最後の記憶は、雨の日の横断歩道。
トラック。
ブレーキ音。
誰かの悲鳴。
ああ。
死んだのか、私。
そこまで思い出してから、私は自分の手を見た。
白い。
指が長い。
爪がきれい。
嫌な予感がして、恐る恐る布団の中の身体を確認した。
「…………男だ」
思わず声が出た。
白髪まじりの男が、さらに深刻な顔をした。
「はい。千景様は、青柳屋の跡取りにございます」
待って待って待って。
男。若旦那。老舗。跡取り。
情報量が多い。
人生のアップデートが雑すぎる。
前世で自分の前髪すら制御できなかった女に、いきなり老舗の跡取りをやらせるな。
ゲームならチュートリアルを飛ばして、初手から城の財政再建を任されている。
しかもたぶん、セーブデータはない。
「番頭さん」
「はい」
この人は番頭さんで合っている気がした。
顔がもう、番頭さんだった。老舗の帳場に三十年は座っていそうな顔である。
「うちは、今どういう具合で?」
番頭は一瞬だけ目を見開いた。
それから、深く頭を下げた。
「正直に申し上げます。よくはございません」
ほら来た。
男。若旦那。老舗。借金。
役満じゃん。
人生の配牌、字牌まみれじゃん。
番頭――藤兵衛の話によれば、ここは小江戸めいた城下町にある老舗呉服商「青柳屋」らしい。
三代続いた店ではあるが、近ごろは安物の反物を大量に売る新興商人に客を取られ、父である先代は病に伏せ、店の者たちは不安を抱えているという。
さらに今日、店先で揉め事が起きているらしい。
「揉め事?」
「はい。常連の大工の親方が、娘御の祝言用に買った反物について、値を下げろと」
「品に不備が?」
「ございません」
「では、なぜ」
「向こうも苦しいのでしょう。近ごろ仕事が減っているとか」
なるほど。
困った人が、困った顔のまま、別の困った人を困らせに来ている。
前世にもよくあった。
余裕のない人は、優しそうな人のところへ来る。
そして優しい人は、自分が悪くないのに謝る。
私は布団から足を下ろした。
「行きましょう」
「若旦那、まだお身体が」
「寝ていても、暖簾は守れませんから」
言ってから、自分で少し驚いた。
前世の私なら、こんなことは言えなかった。
美容院の予約電話ですら、三回深呼吸してからかけていた女である。
それが今、老舗の若旦那として店先に向かっている。
どういうジャンル変更だ。
日常系だと思っていたら、突然、商人シミュレーションが始まった。
しかも難易度が「家業傾きかけ」。
店先に出ると、大柄な男が腕を組んで立っていた。
日に焼けた顔。節くれだった手。
声は大きいが、目はどこか泳いでいる。
「若旦那、悪いがな。この反物、半値にしてくれ」
「半値ですか」
「ああ。娘の祝言なんだ。だが、こっちも懐がきつい」
周りの奉公人たちが息を呑んだ。
私は反物を見た。
藍の地に、白い小花が細かく散っている。派手ではない。けれど、品がある。
きっと娘さんは、これを見た時、少し頬を赤くしたのだろう。
いい品だった。
半値にしたら、店が泣く。
いや、店どころではない。織った人、染めた人、運んだ人、畳んだ人、みんな少しずつ泣く。
でも親方の手も見た。
働いてきた手だった。
たぶんこの人も、娘に恥をかかせたくないだけだ。
ここで「かわいそうですね」と半値にすれば、親方は助かる。
でも、青柳屋は傷む。
逆に「規則です」と突っぱねれば、店の筋は通る。
でも、祝言の前に親方の顔が潰れる。
初打席で九回裏二死満塁。
なお前世の打率は、人生通算で一割八分くらいだった。
代打に出す人選を間違えている。
私は息を吸った。
「親方」
「あん?」
「半値にはできません」
親方の眉が動いた。
藤兵衛が奥で小さく息を止めたのがわかった。
「だがな、若旦那――」
「その代わり、仕立て代をこちらで半分持ちます」
親方が黙った。
「反物の値は下げません。この布には、織り手と染め手の仕事が乗っています。そこを崩すと、職人に顔向けできません」
自分の声は、不思議なくらい落ち着いていた。
外側の千景という若旦那が、ちゃんと私を立たせてくれているみたいだった。
「ただ、娘さんの祝言に、うちも知らん顔はできません。仕立て屋には私から話を通します。急ぎ賃は取らせない代わりに、今後うちから仕事を回す」
「……そりゃ、仕立て屋が損するんじゃねえか」
「損だけはさせません。仕事で返します」
私は反物に手を添えた。
「親方は、反物の値をきちんと払う。うちは、仕立てで少し損をする。仕立て屋には、これからの仕事で返す。三方、少しずつ痛い。けれど、娘さんは笑って祝言に出られる」
親方の大きな手が、ゆっくり下がった。
「……若旦那、あんた、先代に似てきたな」
似ているかどうかは知らない。
中身は元喪女である。
しかも、ぐぢぐぢ煮込みすぎて、人生の鍋底にこびりついていたタイプだ。
けれど。
親方が反物を大事そうに抱えた時、胸の奥に小さな灯りがともった。
「青柳屋さんに頼んでよかった。娘にも、そう言っとく」
「ありがとうございます」
私は静かに頭を下げた。
親方が帰ったあと、店の中に残っていた空気が、ふっとほどけた。
奉公人の一人が小さく笑い、別の者が棚の反物を直し始める。
藤兵衛が私のそばへ来て、低い声で言った。
「お見事でございました」
「いえ。まだ、なんとか一件しのいだだけです」
口ではそう言った。
でも脳内の私は、畳の上でガッツポーズをしていた。
やった。
初戦、なんとか振り込まなかった。
親方の顔も立てた。
店の値も崩さなかった。
仕立て屋にも仕事を回せる。
相手が国士無双を張っているかもしれない局面で、うっかり字牌を切らずに済んだ。
勝ってはいない。
でも飛んではいない。
大事。
人生、まず飛ばないことが大事。
その時、店の外から声がした。
「若旦那」
振り返ると、町娘が一人、店先に立っていた。
小柄で、目元のはっきりした娘だった。腕には布包みを抱えている。
仕立て屋の娘だろうか。
「今の話、本当ですか。うちに仕事を回すって」
「ええ。急なお願いになりますが」
娘はしばらく私を見た。
それから、少しだけ笑った。
「変わりましたね、若旦那」
その言葉に、心臓が変な跳ね方をした。
やめて。
その角度の笑顔はやめて。
前世で恋愛偏差値がずっと補習だった女には刺激が強い。
けれど外側の私は、若旦那らしく微笑んだ。
「そう見えるなら、ありがたいことです」
娘はくすりと笑って、布包みを抱え直した。
「仕立て屋の小春です。父には、私から話しておきます」
「助かります、小春さん」
名前を呼ぶと、小春は少しだけ目を丸くした。
そのあと、なぜか嬉しそうに頭を下げた。
彼女が去っていく背中を見送りながら、私は袖の中でそっと拳を握った。
前世の私は、誰かに合わせてばかりいた。
断れず、言えず、飲み込み、あとから一人でぐぢぐぢした。
でも今は違う。
誰かのために折れるんじゃない。
誰か一人を泣かせて終わらせるんでもない。
みんなが、明日も顔を合わせられる場所を探す。
それなら、私にもできるかもしれない。
どうせ一度死んだ身だ。
ぐぢぐぢして終わった前世の分まで、今度は少し、花を咲かせてみようじゃないか。
お読みいただきありがとうございます。
1話完結の異世界人情商い帖として、少しずつ続けていきます。
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