タイトル未定2026/06/21 13:47
どうせ死んだし、いっちょ花咲かせましょう
第10話 若旦那、祭りの灯りに帰り道をつける
賭場へ行った翌朝、銀次は青柳屋の前で、やけに背筋を伸ばして立っていた。
顔色は悪い。
目の下も、少し黒い。
昨日、賭場から帰ってきた人間の顔としては、かなり正しい。
正しすぎて、こちらまで胃が重くなる。
「若旦那」
銀次は深く頭を下げた。
「昨日は、申し訳ありませんでした」
「謝罪は、昨日いただきました」
「でも」
「今日は、仕事の話をしましょう」
銀次が顔を上げた。
隣では辰五郎が腕を組んでいる。
藤兵衛は帳場の奥で、すでに筆を構えていた。
あの人は、こういう時の筆が早い。
何を記録するつもりなのか。
青柳屋、善意で若旦那の胃を痛める。
いや、やめてほしい。
「雨の日用の覆いですが」
私は言った。
「青柳屋で材料を用意します。辰五郎さんと銀次さんには、仕事の中で少しずつ返していただきます」
「へい」
銀次は、すぐに頷いた。
声が少し固い。
罰を待っている人の声だった。
私は少しだけ息を吐いた。
「銀次さん。これは罰ではありません」
「え」
「仕事です」
銀次は黙った。
「罰で働くと、人は自分を安くします。安くした仕事は、またどこかで揺れます」
昨日、賭場で見た銀次の顔を思い出す。
負けを取り返そうとする顔。
情けなさを、いっぺんに帳消しにしようとする顔。
そういう顔は、危ない。
前世の私にも覚えがある。
失敗したあと、無理に頑張って帳尻を合わせようとする。
残業する。
笑う。
大丈夫ですと言う。
そして、自分の中のどこかが静かに削れる。
やり直しは、罰ではない方がいい。
戻る道は、仕事として用意した方がいい。
「ですから、きちんと値をつけます」
藤兵衛の眉が、少しだけ動いた。
わかる。
また若旦那が帳面にややこしい欄を作ろうとしている。
でも、ここは譲れない。
「ただし、銀次さんの分の手間賃から、少しずつ覆い代へ回します。残りはちゃんと受け取ってください」
「俺が、受け取るんですか」
「はい。働いた分ですから」
銀次は、困ったように辰五郎を見た。
辰五郎は短く言った。
「受け取れ」
「辰兄」
「罰で担ぐなら、足が腐る。仕事で担ぐなら、足が育つ」
いいことを言った。
いや、辰五郎さん、急に職人ドラマの三話目くらいの名台詞を出さないでほしい。
こちらの心が追いつかない。
その時、店先に小春がやって来た。
腕には、紺色の半纏を何枚も抱えている。
「若旦那、おはようございます」
「おはようございます。ずいぶん大きな荷ですね」
「祭りの半纏です。直しを頼まれていて」
そうだった。
明日は、町の小さな祭りの日だ。
大きな神輿が出るわけではない。
子どもたちが小さな山車を引き、店ごとに提灯を出し、神社へ奉納の品を運ぶ。
派手ではないが、町が少し浮き足立つ日。
青柳屋も、毎年、神社へ奉納の布を出しているらしい。
「祭りか」
銀次が小さく言った。
その声に、ほんの少しだけ明るさが混じった。
だが、すぐに店の外から別の声がした。
「おい、青柳屋さん」
入ってきたのは、町内の世話役をしている男だった。
名は源蔵。
四角い顔で、声が大きい。
町の行事には必ずいるタイプである。
前世で言えば、自治会のテント設営に朝六時から来ている人だ。
ありがたい。
ありがたいが、圧が強い。
「若旦那、祭りの奉納布と提灯飾り、今日のうちに神社へ運びたいんだがな」
「承知しています」
「それで、例の揺れない籠を借りられるって聞いた」
「はい。手配できます」
源蔵は辰五郎を見た。
そして、銀次を見たところで、少し顔をしかめた。
「ああ、そいつか」
空気が一段、固くなった。
銀次の肩が動いた。
辰五郎の眉が寄る。
「賭場にいたって話、もう町に回ってるぞ」
源蔵は悪気なく言った。
悪気がない言葉ほど、時々よく刺さる。
銀次は何も言わなかった。
顔だけが、少し下を向く。
「祭りの荷だ。子どもの半纏もある。神社へ出すもんもある。賭場帰りの足に任せて大丈夫かね」
正論だった。
だから痛い。
信用は、一度揺れると、戻るまで時間がかかる。
昨日、私は賭場で銀次に「信用は賭けてはいけない」と言った。
その言葉が、今朝になってこうして返ってきた。
ブーメランというより、請求書である。
丁寧に封筒へ入って、朝一番に届いた感じだ。
「源蔵さん」
私は言った。
「心配はもっともです」
銀次が、さらに小さくなる。
「ですが、今日の仕事を見てから決めていただけませんか」
「仕事を?」
「はい。まず青柳屋の奉納布を、神社まで運んでもらいます。源蔵さんにも一緒に見ていただく。その上で、祭りの荷を任せるかどうか決めてください」
源蔵は腕を組んだ。
「試すってことか」
「いえ」
私は銀次を見た。
「戻る道を、町の人に見てもらうだけです」
銀次が顔を上げた。
小春も、静かにこちらを見ている。
藤兵衛は何も言わない。
ただ、筆を止めていた。
「やらせてください」
銀次が言った。
声は震えていた。
でも、逃げてはいなかった。
「昨日のことは、消えません。俺が馬鹿だったのも、消えません。でも、今日の荷は揺らしません」
源蔵はじっと銀次を見た。
しばらくして、ふん、と鼻を鳴らした。
「大きく出たな」
「へい」
「なら、見てやる」
銀次の背中が、ほんの少し伸びた。
青柳屋の奉納布は、白地に淡い青の模様が入った上等なものだった。
神社の社殿にかける布らしい。
小春が、傷や汚れがないかを確認する。
「これ、濡らしたら大変ですね」
「濡らさず、揺らさず、ですね」
「それ、最近の青柳屋の合言葉みたいです」
「増えましたね、合言葉が」
どうせ死んだし、いっちょ花咲かせましょう。
揺らさず、濡らさず。
帰り道を決める。
青柳屋、標語が多い。
前世の職場なら、壁に貼られて朝礼で唱和させられるレベルである。
やめよう。
唱和は苦手だ。
心が少しずつ体育館になる。
辰五郎と銀次は、奉納布を籠に乗せた。
上から油紙をかけ、さらに新しい覆いを試す。
昨日、黒瀬屋から借りた覆いを参考に、青柳屋で急ぎ作らせたものだ。
まだ不格好だが、役には立つ。
「行きます」
辰五郎が言った。
銀次が頷く。
二人が籠を上げた。
歩き出しは、静かだった。
銀次の足が、昨日より少し慎重になっている。
慎重すぎるくらいだ。
それでも、悪くない。
雑に急ぐより、ずっといい。
源蔵は腕を組んだまま、少し離れてついてくる。
私は小春と並んで歩いた。
「若旦那」
「はい」
「銀次さん、大丈夫でしょうか」
「わかりません」
「わからないんですか」
「はい」
小春は少し驚いた顔をした。
「私は、わからないまま見ています」
「それでいいんですか」
「たぶん」
人は、簡単には変わらない。
昨日賭場から帰ったからといって、今日から立派な人間になるわけではない。
私だってそうだ。
一度死んで転生したのに、まだ帳面から逃げたいし、甘いものには弱いし、褒められると内側が挙動不審になる。
人は、劇的に変わるより、少しずつ戻ってくる。
揺れながら。
たまに濡れながら。
それでも、戻る道があれば、歩けることがある。
「だから、今日は見届けます」
私が言うと、小春は少しだけ微笑んだ。
「若旦那は、変なところで気が長いですね」
「普段は短いです」
「帳面の前だけですか」
「よくおわかりで」
神社へ向かう途中、通りの角で男が一人、銀次に声をかけた。
昨日、賭場にいた男だった。
「おう銀次。今日は真面目に籠か」
銀次の足が、わずかに乱れた。
辰五郎がすぐに合わせる。
奉納布は揺れなかった。
「昨日は途中で帰っちまってよ。今夜、続きやるか」
男は笑っている。
軽い声だった。
だが、銀次の背中が固くなった。
私は一歩前に出ようとした。
しかし、その前に銀次が言った。
「今日は、祭りの荷がある」
「あ?」
「明日もある。しばらく、そっちは行かねえ」
男はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「なんだよ。若旦那に飼われたか」
銀次の足が止まりかけた。
私は息を呑んだ。
ここで怒れば、荷が揺れる。
言い返せば、場が荒れる。
黙って飲み込めば、銀次の中が濁る。
どうする。
銀次は、ゆっくり息を吐いた。
「飼われたんじゃねえ」
声は低かった。
「仕事を返してるんだ」
それだけ言って、銀次は歩き出した。
辰五郎も合わせる。
籠は揺れなかった。
私は、胸の奥で小さく拍手した。
脳内の私が、賭場の男へ向かって静かにガッツポーズをしている。
やめておけ。
顔には出すな。
ここで調子に乗ると、また誰かの足元が揺れる。
神社に着くと、源蔵が奉納布を確かめた。
汚れなし。
濡れなし。
揺れによる乱れもない。
「……悪くねえな」
源蔵が言った。
銀次は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まだ一回だ」
「へい」
「だが、今日の祭りの荷、頼む」
銀次の顔が、少しだけ変わった。
安堵ではない。
嬉しさでもない。
仕事を渡された人の顔だった。
自分の背中に、もう一度重さを乗せてもらえた顔。
「へい。揺らしません」
その返事は、昨日よりも強かった。
午後から、銀次と辰五郎は祭りの荷を運んだ。
子どもたちの半纏。
提灯。
太鼓の撥。
奉納の米。
神社へ届ける酒樽。
酒樽は重い。
しかも、揺れると中身の音がする。
ぽちゃん、ではない。
ごん、ごぽん、みたいな、妙に腹に響く音がする。
私はそれを見て、内心で震えた。
これを落としたら終わる。
酒樽を割る。
祭り前日。
町内会。
源蔵さんの顔。
前世の私なら、グループLINEで既読だけつけて寝たふりをしたくなる案件である。
だが、辰五郎と銀次は丁寧に運んだ。
曲がり角では声をかける。
「右、少し上げる」
「へい」
「石、あるぞ」
「見えてます」
「急ぐな」
「急ぎません」
そのやり取りは、昨日よりも揃っていた。
足の合う仕事というものが、少しずつ形になっている。
小春は、神社の隅で子どもたちの半纏の紐を直していた。
私はその横で、ほどけた提灯の紐を結び直す。
下手だった。
とても下手だった。
紐が、なぜか私にだけ反抗的である。
前世でもそうだった。
イヤホンのコード。
エプロンの紐。
紙袋の持ち手。
世の中の紐類は、たぶん私のことを少しなめている。
「若旦那、貸してください」
小春が見かねて手を伸ばした。
「すみません」
「若旦那にも苦手なことがあるんですね」
「かなりあります」
「少し安心しました」
「安心されるほど、普段できる人に見えていますか」
「はい」
その一言は、ずるい。
私は危うく、提灯の紐ではなく自分の心を結び損ねるところだった。
夕方になると、通りには提灯が灯り始めた。
赤い灯り。
白い灯り。
子どもの笑い声。
店先には団子、飴、焼き魚。
祭りの前の日は、祭りそのものより少し静かで、少しそわそわしている。
始まる前の時間。
その余白が、私は少し好きだった。
前世の私は、始まる前から疲れていることが多かった。
楽しみな予定でも、準備で気を使いすぎて、当日にはもう心が半分帰宅していた。
でも今は、提灯の灯りを見ながら、少しだけ思う。
準備にも、ちゃんと意味がある。
誰かが運び、誰かが結び、誰かが直し、誰かが灯す。
祭りは、当日だけでできているわけではない。
その前の小さな仕事が、灯りを支えている。
「若旦那」
銀次が近づいてきた。
額には汗が浮いている。
「今日の分、終わりました」
「お疲れさまでした」
「まだ、全部返せたわけじゃありません」
「はい」
「でも」
銀次は提灯の灯りを見上げた。
「仕事で返すって、こういうことなんですね」
「たぶん」
「賭場で勝ったら、一気に返せると思ってました」
「ええ」
「でも、一気に返そうとすると、また何かを賭けるんですね」
私は黙って頷いた。
その通りだった。
一気に取り返したくなる時ほど、人はまた何かを差し出してしまう。
金。
時間。
信用。
身体。
心。
「少しずつ返すのは、面倒です」
銀次が言った。
「でも、足元はこっちの方が見えます」
「いい言葉ですね」
「若旦那の真似です」
「私、そんなにいいこと言ってますか」
「時々」
「時々ですか」
「へい」
正直でよろしい。
その時、源蔵が遠くから声をかけた。
「銀次! 明日の朝も頼むぞ!」
銀次は振り返った。
一瞬、驚いた顔をして、それから大きく頭を下げた。
「へい!」
その背中を見て、辰五郎が隣で笑った。
「若旦那」
「はい」
「あいつ、まだ危なっかしいです」
「でしょうね」
「また間違えるかもしれねえ」
「人ですから」
「でも、今日の足は悪くなかった」
「はい」
辰五郎は腕を組んだ。
「俺も、少し見直しました」
「本人に言ってあげては」
「調子に乗るから嫌です」
職人の愛情は、だいたい不器用である。
だが、その不器用さも悪くない。
夜、青柳屋へ戻る頃には、祭りの灯りが町のあちこちに揺れていた。
私は店先で、しばらくそれを見ていた。
揺れている。
けれど、不安ではない。
提灯は、揺れるものだ。
人も、たぶん同じだ。
脳内のZARDが、そっと「揺れる想い」の看板を出してくる。
そうだ。
揺れること自体は、悪くない。
揺れても、落ちないこと。
揺れても、戻れること。
そのために、支える紐や、帰る道や、隣で歩く人がいる。
私は昨日、銀次に降り時を教えたつもりでいた。
でも今日、銀次は私に戻り方を見せてくれた。
勝って戻るのではない。
許されて戻るのでもない。
仕事をして、少しずつ戻る。
それは地味で、面倒で、かっこ悪い。
でも、とても人間らしい。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、誰かが戻ってくる道を、笑わずに見ていられる人でありたい。
その時、通りの向こうから祭り囃子の稽古の音が聞こえてきた。
笛と太鼓。
まだ本番ではない、少し外れた音。
その外れ方まで、町の音だった。
私は店の暖簾を見上げた。
青柳屋の灯りは、今日も消えていない。
明日も、きっと朝から慌ただしい。
提灯も、半纏も、酒樽も、子どもたちの笑い声もある。
そして帳面もある。
帳面。
私はその二文字を思い出した瞬間、静かに目をそらした。
逃げたのではない。
今日は、祭りの灯りを見るために、少しだけ後回しにしただけである。




