表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
11/11

どうせ死んだし、いっちょ花咲かせましょう 第11話 若旦那、祭りのあとに暖簾を見る

 祭りの日の朝は、町全体が少し早起きだった。


 まだ日が高くなる前から、通りには人の声がしていた。


 提灯の紐を確かめる者。

 店先を掃く者。

 子どもの半纏の襟を直す母親。

 酒樽を見て、なぜか偉そうに頷いている源蔵さん。


 祭りとは、始まる前からもう祭りなのだと思う。


 前世の私は、こういう日に少しだけ苦手意識があった。


 楽しいはずなのに、人の多さで疲れる。

 屋台の匂いに浮かれる。

 でも財布の中身を見て現実に戻る。

 そして帰り道、靴ずれと眠気と謎の寂しさに包まれる。


 祭りは楽しい。


 ただし、体力と情緒の請求書があとから来る。


 今の私は、青柳屋の若旦那である。


 浮かれる側ではなく、支える側に近い。


 朝から藤兵衛に渡された帳面には、祭りの日用の出入りがびっしり書かれていた。


 奉納布。

 半纏の直し。

 揺れない籠の手配。

 雨の日用の覆い。

 提灯紐の追加。

 そして、祭り当日の小口の支払い。


 小口。


 名前はかわいい。


 しかし集まると、まったくかわいくない。


 小口支払いとは、蚊の大群みたいなものである。


 一匹一匹は大したことがない。

 だが、気づいた時には全身をかゆくしてくる。


「若旦那」


 藤兵衛が静かに言った。


「今日の帳面は、夜にまとめましょう」


「そうしましょう」


 即答した。


 逃げではない。


 祭りの日には、祭りの日の優先順位がある。


 帳面は大事だ。


 けれど、町が動いている時に数字だけ見ていると、人の顔を見失う。


 そう自分に言い聞かせた。


 いや、半分は本当で、半分は見たくないだけである。


 店先では、小春が子どもたちの半纏を確認していた。


「若旦那、この子の紐、少し長いです」


「では、直しましょう」


「若旦那が?」


「……小春さんが」


「正直でよろしいです」


 紐類は、相変わらず私にだけ反抗的だった。


 小春の手にかかると、ほどけた紐もすぐにおとなしくなる。


 人間にも、そういう手があるのかもしれない。


 言葉で叱るより、そっと結び直す方が戻れるものがある。


 そんなことを思っていると、辰五郎と銀次がやって来た。


 今日は二人とも、いつもより身なりを整えている。


 銀次の目の下の黒さも、昨日よりは薄くなっていた。


「若旦那、今日も揺らしません」


「お願いします」


 銀次は少し照れたように頭を下げた。


 昨日、祭りの荷を運びながら、銀次は町にもう一度仕事を見せた。


 賭場に行ったことは消えない。


 噂も消えない。


 でも、その上から仕事を重ねることはできる。


 人は、失敗を消すのではなく、その上に何を積むかで少しずつ戻ってくるのだと思う。


「銀次」


 源蔵さんが大きな声で呼んだ。


「子どもらの山車が出る前に、太鼓の台を神社前まで頼むぞ」


「へい!」


 銀次はすぐに駆け寄った。


 その背中は、昨日より少しだけ軽かった。


 私はそれを見て、少し安心した。


 だが、安心したところで、事件はだいたい来る。


 町角で、子どもの泣き声が上がった。


 小さな女の子が、半纏姿で立ち尽くしていた。


 手には、赤い飴。


 目には、今にもこぼれそうな涙。


 周りの大人たちは忙しそうに動いていて、誰の子かすぐにはわからない。


 祭りの人混み。


 迷子。


 これはまずい。


 前世なら、ショッピングモールの館内放送案件である。


 だが、ここに館内放送はない。


 代わりにあるのは、声の大きい源蔵さんと、町の人の顔見知りネットワークだけだ。


「どうしました」


 私は女の子の前にしゃがんだ。


「おっかあが、いない」


「名前は?」


「おみつ」


「おみつさんですね。お母さんの名前はわかりますか」


 おみつは首を横に振った。


 そうか。


 幼い子どもにとって、母親は「おっかあ」であり、個人名ではない。


 前世の私は、役場の窓口で似たような場面を何度も見てきた気がする。


 関係性で生きている人に、書類の名前を聞くのは難しい。


 人は名簿で生きているわけではない。


 でも、探すには名前がいる。


「半纏の印を見せてもらってもいいですか」


 小春が横からそっと言った。


 おみつの背中の印を見る。


 小さな染め抜き。


「これ、西町の魚屋さんの組ですね」


「わかるのですか」


「この印、去年直しました」


 小春、強い。


 町の個人情報保護台帳が、針仕事でできている。


「西町の魚屋なら、源蔵さんがわかりますね」


 私が言うと、小春は頷いた。


 しかし、おみつは私の袖をつかんだまま離さない。


 小さな手。


 不安が、そのまま指になったような力だった。


 私は少しだけ迷った。


 この子を抱き上げるべきか。


 今の私は男で、若旦那である。


 前世の感覚なら、幼い子を抱くことにそこまで抵抗はない。


 でも、この世界の距離感がわからない。


 迷った瞬間、小春が自然におみつの手を取った。


「一緒に探そうね」


 おみつは小春を見て、小さく頷いた。


 助かった。


 小春の手は、布だけでなく場も整える。


「銀次さん」


 私は声をかけた。


 太鼓台を運び終えた銀次が、こちらへ来る。


「この子を西町の魚屋のところまで。急がず、でも迷わせずに」


「へい」


「籠ではありませんが」


「揺らしません」


 銀次はそう言って、おみつの前にしゃがんだ。


「嬢ちゃん、俺の隣を歩けるか」


 おみつは涙目のまま、小春の袖をつかんでいる。


 銀次は困った顔をした。


 すると辰五郎が笑った。


「お前、顔がまだ賭場帰りなんだよ。子どもが怖がる」


「辰兄、それ今言います?」


「今だから言うんだ」


 私は思わず笑いそうになった。


 銀次は少し傷ついた顔をしたが、すぐに自分の手ぬぐいを外して、頭に巻き直した。


 少し間の抜けた結び方になった。


 おみつが、ほんの少し笑った。


「よし。笑ったな」


 銀次も笑った。


「じゃあ、行こう。ゆっくりでいい」


 小春と銀次と辰五郎が、おみつを連れて西町へ向かう。


 私は少し後ろを歩いた。


 祭りの通りは混んでいた。


 山車が進み、太鼓が鳴り、屋台の煙が漂う。


 おみつは何度も立ち止まりかけた。


 飴屋。

 金魚すくい。

 面売り。


 子どもの目には、世界の誘惑が多すぎる。


 銀次はそのたびに、少し待った。


 急かさない。


 無理に引っ張らない。


 だが、離さない。


 これは、揺れない籠の歩き方と同じだった。


 人を運ぶ仕事は、籠に乗せる時だけではない。


 不安な子どもの歩幅に合わせることも、たぶん同じ仕事なのだ。


 西町の魚屋の前へ着くと、女がこちらへ駆け寄ってきた。


「おみつ!」


 おみつは母親を見た瞬間、わっと泣き出した。


 母親が抱きしめる。


 その腕の強さに、私は少し胸が熱くなった。


「すみません、すみません」


 母親は何度も頭を下げた。


「目を離した私が悪いんです」


「見つかってよかったです」


 私が言うと、母親は涙を拭いた。


「青柳屋の若旦那さんですよね」


「はい」


「ありがとうございます」


「お礼なら、小春さんと銀次さんに」


 銀次は慌てた。


「いや、俺は何も」


「歩幅を合わせてくれました」


 母親は銀次を見た。


 そして深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


 銀次は、どうしていいかわからない顔をしていた。


 賭場で負けた時より、今の方がよほど困っている。


 感謝は、慣れていない人間には少し重い。


 でも、これは受け取った方がいい。


「受け取ってください」


 私が小さく言うと、銀次はぎこちなく頭を下げた。


「へい」


 その声は、少しだけ震えていた。


 帰り道、小春が言った。


「銀次さん、よかったですね」


「はい」


「あの子、安心していました」


「銀次さんの足が、昨日より落ち着いていました」


 小春は少し笑った。


「若旦那、足ばかり見ていますね」


「籠屋の話をしているので」


「本当に?」


「……少し、人の戻り方も見ています」


 言ってから、少し照れた。


 こういう言葉を自分で言うと、急に恥ずかしい。


 前世の私なら、あとで布団の中で反省会を開くやつである。


 しかし小春は、からかわなかった。


「戻れる場所があるのは、いいですね」


「はい」


「若旦那にもありますか」


 その問いに、私はすぐには答えられなかった。


 前世の私に、戻れる場所はあっただろうか。


 家はあった。


 職場もあった。


 コンビニも、いつもの帰り道もあった。


 でも、自分が少し失敗しても、少し情けなくても、そのまま座れる場所は、あまり多くなかった気がする。


 今はどうだろう。


 青柳屋。


 藤兵衛。


 お滝の朝粥。


 お鈴の笑い声。


 小春の手。


 辰五郎と銀次の足。


 黒瀬伊織の刺さるけれど役に立つ言葉。


 気づけば、戻る場所のようなものが少しずつ増えている。


「今、作っているところです」


 私は言った。


 小春は、静かに頷いた。


 祭りは、昼を過ぎると一段とにぎやかになった。


 子どもたちの山車が通りを進み、太鼓が鳴る。


 お鈴は店先で団子を二本買っていた。


「若旦那、一本どうぞ」


「ありがとうございます」


「小春さんにも」


「ありがとうございます」


 三人で団子を食べた。


 湯屋の前とは違う、祭りの団子。


 甘い。


 少し焦げている。


 そこがいい。


 完璧な団子ではない。


 でも、祭りの風に当たっているだけで、五割増しくらい美味しく感じる。


 前世の私は、こういう場面でよく思っていた。


 原価はいくらだろう。


 スーパーで買えばもっと安い。


 でも、違う。


 祭りの団子は、団子だけを買っているのではない。


 灯り。

 音。

 人混み。

 子どもの声。

 少し焦げた匂い。

 今日ここで食べたという記憶。


 それら込みで、値がついている。


 商いは、物だけを売っているわけではない。


 場を売ることもある。


 時間を売ることもある。


 あとで思い出せる小さな景色を渡すこともある。


「若旦那、また難しい顔をしています」


 小春が言った。


「団子について考えていました」


「団子で?」


「団子で」


 お鈴が笑った。


「若旦那は、何でも商いにしますね」


「悪い癖です」


「でも、嫌じゃありません」


 お鈴のその言葉に、少し救われた。


 祭りの夕方、銀次は最後の荷を運び終えた。


 神社の石段の下で、源蔵さんが大きく頷く。


「今日の足は、悪くなかった」


「ありがとうございます」


「明日からも、頼むぞ」


「へい!」


 銀次の声は、朝よりずっとまっすぐだった。


 辰五郎は何も言わなかったが、銀次の背中を軽く叩いた。


 それだけで十分だった。


 陽が落ちると、提灯の灯りが町を包んだ。


 太鼓の音が少し遠くなり、人々の声もゆるやかになる。


 祭りの終わりが近づくと、町は急にやさしい顔をする。


 楽しかった時間が、まだ少し空気に残っている。


 けれど同時に、もう終わることもわかっている。


 その少し寂しい時間が、私は嫌いではなかった。


 夜、青柳屋の前で、私は片付けを手伝っていた。


 提灯を外し、紐をほどき、余った紙をまとめる。


 やはり紐は私に反抗的だった。


 小春がまた助けてくれた。


「若旦那、紐に嫌われていますね」


「たぶん前世からです」


「ぜんせ?」


「いえ、昔からです」


 危ない。


 また出かけた。


 祭りの日は、気が緩む。


 片付けが終わる頃、通りの向こうから桑田佳祐が来そうな気配がした。


 いや、実際に来たわけではない。


 脳内の話である。


 祭りのあと。


 その言葉だけで、勝手に情緒が照明を落とし始める。


 やめてほしい。


 まだ帳面が残っている。


 ここでしっとりしたら、帳面を見る目が完全に遠くなる。


 祭りのあとには、余韻とゴミと未払いが残る。


 現実は、なかなか詩だけでは帰らせてくれない。


 でも。


 今日の町は、悪くなかった。


 迷子は母親の腕に戻った。


 銀次は仕事で少し戻った。


 子どもたちは半纏を着て笑った。


 青柳屋の奉納布は、神社に無事かかった。


 団子は少し焦げていた。


 提灯は揺れていた。


 どれも、完璧ではない。


 でも、ちゃんと町だった。


 私は暖簾を見上げた。


 青柳屋の暖簾は、夜風に少し揺れている。


 それもまた、悪くない。


 揺れても、戻る。


 濡れても、乾く。


 間違えても、仕事で返す。


 そうやって、人も店も町も、少しずつ続いていく。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は、祭りのあとに残るものまで、ちゃんと見ていたい。


 その時、藤兵衛が帳場の奥から声をかけた。


「若旦那」


「はい」


「帳面でございます」


 来た。


 祭りのあとに、もっとも現実的なものが来た。


 私は深く息を吸った。


 脳内の桑田佳祐が、静かにギターを下ろす。


 そうだ。


 情緒はここまで。


 ここからは勘定である。


 私は帳場へ向かった。


 逃げたのではない。


 今日は、祭りのあとまで含めて、若旦那なのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ