第56話 若旦那、三人並んで値上げを言いに行く
翌朝。
青柳屋の帳場に、男が三人並んでいた。
私。
黒瀬伊織。
大浜宗兵衛。
三百反の原価表を前にして。
誰も。
口を開かない。
「……行きますか」
私が言った。
「行くしかないだろ」
伊織。
「誰が最初に話す」
宗兵衛。
また、それ。
昨日も決まらなかった。
「御用商人の大浜屋さんが」
「嫌だ」
「即答ですね」
「値を上げてくれと頼みに行く御用商人の気持ちを考えろ」
「青柳屋は落札してません」
「だから気楽だろう」
「気楽ではありません」
「黒瀬」
「断る」
伊織まで。
全員。
先頭を嫌がる。
脳内の私は、三人を見た。
……待って。
これ。
ハンセン、ブロディ、ホーガンが同じコーナーに立ってない?
誰が止めるの、このカード。
しかも三人とも、
俺が先発は嫌だ。
と言っている。
超重量級スター軍団。
入場だけ派手。
試合開始前に譲り合う。
やめろ。
プロレス界に存在しない絵面を脳内で作るな。
「若旦那」
藤兵衛が言った。
「そろそろお時間です」
「はい」
「どなたが話すかは、歩きながらお決めください」
雑に送り出された。
正しい。
これ以上三人で帳場にいても、何も進まない。
代官所までの道。
三人。
無言。
私が真ん中。
右に伊織。
左に宗兵衛。
なぜ私がセンターなのか。
「宗兵衛さん」
「何だ」
「先頭、歩きません?」
「嫌だ」
「伊織さん」
「断る」
結局。
青柳屋の若旦那が先頭になった。
おかしい。
御用を取ったのは大浜屋。
数字を一番きれいに作ったのは黒瀬屋。
なのに。
なぜ。
猫用品屋になりかけている呉服屋が先頭なのか。
人生の隊列は、時々おかしい。
代官所。
昨日と同じ役人が、こちらを見る。
そして。
宗兵衛を見る。
伊織を見る。
私を見る。
「……今日は三人か」
「はい」
「何の用だ」
三人とも。
一瞬。
互いを見る。
誰も言わない。
役人の眉が寄る。
仕方ない。
「御用布三百反の予定額について」
私が言った。
宗兵衛が小さく、
「やっぱりお前か」
と言った。
聞こえている。
あとで覚えておこう。
「再計算した額を、お持ちしました」
原価表を出す。
役人が読む。
途中。
顔が変わった。
「一割七分増?」
「はい」
「予定額を超えている」
「はい」
「それを」
紙から顔を上げる。
「通せと?」
怖い。
かなり。
「通していただきたい、というより」
「何だ」
「これが、三百反を無理なく納めるために必要な額です」
役人が宗兵衛を見る。
「大浜屋」
「……はい」
宗兵衛。
顔が固い。
「お前は予定額内で請けたはずだ」
「はい」
「今さら何だ」
来た。
一番言われたくない言葉。
今さら。
自分で請けた。
約束した。
だったら何とかしろ。
宗兵衛の顔が。
少し青く見える。
「申し訳ありません」
宗兵衛が頭を下げた。
深い。
「私の見込みが」
「違う」
伊織が言った。
宗兵衛が顔を上げる。
役人も。
「黒瀬屋?」
「大浜屋の見込みだけの問題ではありません」
伊織が原価表の一行を指した。
「昨年より、生地の仕入れが上がっている」
次。
「染めの材料」
次。
「運搬」
「……」
「縫い手の手間賃も、昨年水準では足りない」
伊織。
強い。
こういう時。
数字という武器を持たせると、怖い。
ブロディ。
チェーンではなく算盤を振り回している。
いや、比喩を重ねるな。
「これまで」
宗兵衛が続けた。
声は低い。
「大浜屋は、不足を店の利益と、職人への値で調整してまいりました」
言った。
自分から。
私は少し驚いた。
「それで、納めてきた」
役人。
「はい」
「なら今年も」
「できません」
宗兵衛が言った。
はっきり。
空気が。
変わった。
昨日まで。
この人は。
できる。
と言うことで。
大浜屋を守ってきた。
御用商人であり続けた。
その宗兵衛が。
できません。
と言った。
これは。
たぶん。
かなり大きい。
「できぬ?」
役人の声が低くなる。
「予定額のままでは」
宗兵衛は言った。
「三百反を、これまでと同じ品質で、期日までに」
一度。
息を吸う。
「職人へ無理をさせずには、できません」
言った。
私は。
何も足さなかった。
ここは。
宗兵衛の言葉だ。
青柳屋が代わりに説明するところではない。
役人はしばらく黙った。
「待て」
また。
奥へ。
昨日と同じ。
そして。
やはり。
灰田主膳が出てきた。
「これは」
三人を見る。
「ずいぶん豪華な顔触れだ」
脳内。
やめろ。
今、例の三人を思い出すな。
「青柳屋」
「はい」
「黒瀬屋」
「はい」
「大浜屋」
「……はい」
「昨日まで競っておった三軒が」
原価表を見る。
「今日はそろって値上げか」
言い方。
悪い。
非常に悪い。
「談合か?」
私は固まった。
伊織の目が細くなる。
宗兵衛の顔も変わる。
危ない。
この言葉。
前世の脳内役所が一斉に非常ベル。
そこは駄目。
そこは絶対に雑に笑って流してはいけない。
「違います」
私が即答した。
少し声が大きかった。
灰田が面白そうにこちらを見る。
「ほう」
「受注前に三店で価格を合わせたものではありません」
「では」
「大浜屋さんが受注後、実際に必要となる原価を、三店それぞれの実績から再計算しました」
言葉を選ぶ。
かなり慎重に。
「職人の手間賃を競争材料として下げないための確認です」
灰田が。
私。
伊織。
宗兵衛。
順番に見る。
「よくしゃべる」
「ここは、しゃべらないと危ないので」
伊織が。
ほんの少しだけ横を向いた。
笑った?
今?
たぶん笑った。
「主膳様」
宗兵衛が前へ出た。
「御用は大浜屋が受けた仕事です」
「そうだ」
「責任も、大浜屋にあります」
「昨日から、ずいぶん責任がお好きだな」
「はい」
「で?」
「ですから」
宗兵衛は。
深く頭を下げた。
「一割七分の増額を、お願い申し上げます」
来た。
値上げ。
正面から。
御用商人が。
言った。
部屋が。
静か。
灰田が原価表を見る。
「高いな」
「はい」
「税から出る」
「はい」
「町人が納める銭だ」
「はい」
そこ。
重い。
値上げをすれば。
誰かの税から払う。
職人を守れば何でもよい。
ではない。
金は。
どこかから来る。
「主膳様」
伊織が言った。
「一割七分すべてを増やす必要はありません」
私は見る。
聞いていない。
「黒瀬?」
「納期を変えれば下がる」
伊織が別の紙を出した。
いつ作った。
「三百反を一括納入」
一つ。
「これが一割七分増」
次。
「二百四十を大祭前。残り六十を十日後」
数字。
「こちらなら八分増」
え。
八。
「伊織さん」
「昨日帰ってから計算した」
この男。
やっている。
「さらに」
もう一枚。
「警護役と当日奉仕人分を先行し、予備分を後納なら」
見る。
五分増。
灰田の目が変わった。
宗兵衛も。
私も。
「つまり」
灰田が言う。
「値を上げる以外にも」
「納め方を変える」
伊織が答える。
「全部を同じ日に必要としている理由があるなら、一割七分」
「ないなら?」
「急がない分を急がせない」
いい。
黒瀬伊織。
こういうところ、本当に強い。
安くする。
ではない。
急がなくていいものから、急ぎ賃を外す。
職人の値を削らず。
総額を下げる。
「大浜屋」
灰田が聞く。
「どうだ」
宗兵衛は。
紙を見る。
「できます」
「本当に?」
私が思わず聞いた。
宗兵衛が睨む。
「今は主膳様が聞いている」
「すみません」
若旦那。
割り込み。
反省。
「五分増の案なら」
宗兵衛が言った。
「大祭前に必要な分を優先し、残りを後納できます」
「三百という数は変えぬ?」
「変えません」
「品質も?」
「落としません」
「職人の値も?」
灰田が聞いた。
そこを。
聞いた。
「落としません」
宗兵衛。
答える。
灰田は。
しばらく黙った。
そして。
「五分」
一言。
「認める」
一瞬。
聞き間違えたかと思った。
宗兵衛も。
伊織も。
動かない。
「ただし」
やはり来る。
「今回だけだ」
私は。
少し眉を寄せた。
今回だけ。
危ない。
また次。
同じ問題になる。
宗兵衛も。
たぶん思った。
「主膳様」
宗兵衛が言った。
すごい。
続ける。
「来年以降は」
灰田の目が。
細くなる。
宗兵衛。
少し止まる。
でも。
続けた。
「毎年、見積もりを出させていただけますか」
お。
いい。
「前年踏襲ではなく」
宗兵衛。
言う。
「その年の材料と手間で」
灰田が。
笑った。
「御用商人が、ずいぶん面倒になったな」
「申し訳ありません」
「誰に教わった」
宗兵衛。
私を見る。
やめて。
「青柳屋か」
「違います」
私は即答。
「黒瀬屋です」
「おい」
伊織。
「半分です」
「押しつけるな」
宗兵衛が。
少しだけ笑った。
「三軒とも、面倒になっただけです」
「そうか」
灰田も。
笑った。
そして。
「よかろう」
え。
「来年以降」
灰田が役人を見る。
「前年額をそのまま出すな」
役人。
少し嫌な顔。
仕事が増える顔。
わかる。
非常にわかる。
「材料相場を確認し、見積もりを取れ」
「は」
「ただし」
灰田が三人を見る。
「高いと言えば、それだけで通ると思うな」
「もちろんです」
伊織が答える。
「根拠を出せ」
「はい」
私は答える。
「できぬ理由だけではなく、どうすればできるかもな」
宗兵衛。
「はい」
三人。
頭を下げた。
外へ出る。
代官所の門。
しばらく。
誰も。
何も言わなかった。
そして。
「……通った?」
私が言った。
「五分だ」
伊織。
「通ったな」
宗兵衛。
「本当に?」
「お前、今まで何を聞いていた」
「緊張で半分くらい」
「若旦那」
宗兵衛が。
初めて。
呆れた顔で私を見る。
「お前、よくその状態でしゃべれるな」
「脳内と口が別部署なので」
「何を言ってる」
自分でもわからない。
でも。
通った。
全部ではない。
一割七分ではない。
五分。
納期を分ける。
急ぎ分だけ急ぐ。
それで。
職人の手間賃を落とさずに済む。
「伊織さん」
「何だ」
「昨日のうちに計算したんですね」
「ああ」
「すごい」
「普通だ」
「いや、これは」
「普通だ」
二回言った。
褒められるのが苦手。
相変わらず。
「宗兵衛さん」
「何だ」
「言えましたね」
「何を」
「できません」
宗兵衛の顔が。
一瞬。
止まる。
「……二度と言わせるな」
「次も必要なら」
「言う」
お。
「言うんですね」
「うるさい」
いい。
大浜屋。
少し変わった。
帰り道。
三人。
横に並ぶ。
今度は。
誰も先頭ではない。
「しかし」
宗兵衛が言った。
「一つ問題がある」
「何です?」
「五分増を、どこへどう振るか」
現実。
すぐ来る。
「まず急ぎ賃」
伊織。
「染め場」
私。
「運搬も」
宗兵衛。
三人。
もう数字の話をしている。
さっきまでの緊張。
消えるのが早い。
商人。
強い。
青柳屋へ戻る。
職人たちが待っていた。
「どうだった」
染め場の親方。
私は答える。
「五分、増えました」
空気が。
一瞬止まる。
「五分?」
「はい」
「一割七分じゃなく?」
「納期を分けました」
伊織が説明する。
大祭前。
二百四十。
残り。
十日後。
急ぎ分へ急ぎ賃。
通常分は通常。
「じゃあ」
おきぬさんが聞く。
「八反やらなくていい?」
「四でいいです」
「四で?」
「はい」
顔が。
緩んだ。
親方。
「俺は五?」
「五」
「それで大浜屋は足りるのか」
宗兵衛が答える。
「足りない分は、納期を後ろへ回す」
「御用なのに?」
「ああ」
親方が。
しばらく宗兵衛を見た。
「大浜屋の旦那」
「何だ」
「変わったな」
「うるさい」
今日。
その台詞。
宗兵衛と伊織。
二人とも使っている。
似ている。
言ったら怒られそうなので、黙っておく。
夕方。
帳場。
三百反の工程表を。
作り直す。
一。
大祭前必要分。
二百四十。
二。
後納。
六十。
三。
急ぎ作業分。
手間賃上乗せ。
四。
通常分。
通常手間賃。
五。
各店利益。
削らない。
宗兵衛が言う。
「利益、少しは削れるぞ」
伊織。
「削るなら三店同率」
「何でだ」
「大浜屋だけ削れば、また同じになる」
その通り。
「では」
私が言う。
「削らない方向で」
二人がこちらを見る。
「何です」
「一番がめついのは、お前かもしれんな」
宗兵衛。
「商いなので」
私は答えた。
三人。
少し笑う。
夜。
帳面を書く。
御用布三百反。
再見積。
当初必要額。
予定額比一割七分増。
納期・納入順を再設計。
大祭前二百四十反。
残り六十反、十日後。
最終増額。
五分。
代官所了承。
職人通常手間賃を維持。
急ぎ分、急ぎ賃あり。
来年以降。
前年額踏襲ではなく、その年の材料相場と手間を確認の上、見積提出。
最後に。
一行。
値上げできないなら、人を安くする前に、納め方を変えられないか考える。
金。
時間。
人数。
品質。
全部。
同時に固定すると。
最後に。
動けるものが。
人しか残らなくなる。
そして。
人が伸びる。
夜へ。
休日へ。
我慢へ。
でも。
本当は。
納期も動く。
順番も動く。
数量も。
仕様も。
金額も。
話せば。
動くことがある。
前世の私は。
条件は動かないものだと思いすぎていた。
締切だから。
予算だから。
決まっているから。
仕方ない。
そして。
動くのは自分。
伸びるのは自分の時間。
削れるのは、自分の余白。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は。
自分を伸ばす前に。
条件の方へ。
一回くらい。
動けませんか。
と聞いてみたい。
案外。
十日くらい。
動くかもしれない。
そう思ったところで。
お鈴が店先から言った。
「若旦那!」
「はい」
「しるべが」
今日は。
何。
「工程表の上で寝ています」
見る。
三百反の工程表。
横長。
その上に。
しるべ。
きれいに。
大祭前二百四十と。
後納六十の。
境目あたりで寝ている。
「しるべ」
猫を見る。
「そこ、ちょうど納期を分けたところです」
にゃ。
「邪魔です」
にゃ。
宗兵衛が笑った。
「猫まで分納か」
「どういう意味です?」
「前半が二百四十。尻尾が六十」
見る。
しるべの身体。
確かに。
尻尾だけ。
工程表の後半へ。
「やめてください」
「わかりやすい」
伊織まで。
何。
この二人。
急に猫へ馴染みすぎでは。
「黒瀬さん、大浜屋さん」
私は言った。
「猫を工程管理に使わないでください」
「青柳屋が言うな」
二人の声が。
重なった。
初めて。
完全に揃った。
私は黙った。
しるべが、にゃ、と鳴く。
最悪だ。
三店。
連携が。
猫ツッコミから始まっている。
私はしるべを工程表から抱き上げた。
逃げたのではない。
今日は三店そろって「高いです」と言いに行き。
人の手間を削る代わりに、納期を十日伸ばして。
最後には。
御用商人三軒の呼吸だけが、妙にぴったり揃ってしまったのである。
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