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第55話 若旦那、責任の宛名を書き直す



 代官所から書付をもらった翌朝。


 青柳屋の帳場には、写しが六枚並んでいた。


 藤兵衛が、一枚ずつ確認している。


「染め場へ一枚」


「はい」


「お松殿へ一枚」


「はい」


「おきぬ殿」


「はい」


「源三殿」


「はい」


 まるで何かの通達発送である。


 前世の私が、妙に落ち着く。


 紙。


 宛名。


 控え。


 受領。


 安心。


 ……いけない。


 ここは呉服屋。


 役場へ戻るな。


「若旦那」


 藤兵衛が言った。


「楽しそうですな」


「そんなことありません」


「先ほどから紙を揃える手つきだけ、妙に速いですが」


「気のせいです」


 完全に前世の筋肉が動いている。


 いや、筋肉ではない。


 事務神経。


 そんな神経があるかは知らない。


 午前中。


 職人たちは、それぞれ大浜屋へ返事を出した。


 お松さん。


 今回は受けない。


 おきぬさん。


 四反まで。


 染め場の親方。


 五反まで。


 源三。


 七反。


 誰も。


 「御用だから」という言葉に、追加で数字を盛らなかった。


 私は。


 少しだけ、ほっとした。


 これで終わればよかった。


 だが。


 昼前。


 青柳屋の暖簾が、大きく揺れた。


 大浜宗兵衛。


 本人。


 一人。


 供もいない。


 顔は笑っていない。


「若旦那」


「いらっしゃいませ」


「随分なことをしてくれたな」


 店の空気が。


 すっと冷えた。


 お鈴が柱の陰へ。


 小春が手を止める。


 しるべまで、箱から顔を上げた。


「何のことでしょう」


 わかっている。


 でも。


 聞く。


「代官所へ行ったそうだな」


「はい」


「職人どもへ、断ってよいと吹き込んだ」


「いいえ」


 宗兵衛の眉が動く。


「何?」


「代官所へ確認しました」


「同じことだ」


「違います」


 ここは。


 言葉を雑にしない。


「断ってよいと、私が決めたわけではありません」


 帳場から。


 代官所の書付を出す。


「御用布三百反の納入責任は大浜屋。職人への個別発注は大浜屋との商取引。代官所からの強制ではない」


 宗兵衛が紙を見る。


「これを確認しただけです」


「結果は同じだ」


「結果は似ています」


「何が違う」


「責任の宛名が違います」


 宗兵衛が黙る。


「御用を三百反で請けた責任は」


 私は紙を指す。


「職人さん宛てではありません」


 一拍。


「大浜屋さん宛てです」


 静か。


 かなり静か。


 言ってから。


 怖い。


 ものすごく。


 脳内の私は。


 ゆっくり後ずさりしている。


 でも外面の若旦那は、できるだけ動かない。


 頼む。


 斉藤壮馬ボイス。


 今だけ頼む。


「若造」


 宗兵衛の声が低くなる。


「商いはな」


「はい」


「一人でやるものではない」


「そう思います」


「なら、周りへ頼むのは当然だ」


「はい」


 そこは否定しない。


「大浜屋が御用を取る」


「はい」


「染め場へ出す」


「はい」


「織元へ出す」


「はい」


「縫い手へ出す」


「はい」


「それの何が悪い」


「悪くありません」


 宗兵衛の顔に。


 一瞬だけ。


 戸惑いが出た。


「では」


「頼んだ先が、条件を選べるなら」


 私は続けた。


「悪くありません」


 頼む。


 頼まれる。


 値を決める。


 納期を決める。


 断る。


 減らす。


 それが商い。


 片方だけが、


 御用だから。


 で決めた瞬間。


 商いではなくなる。


「お松さんは零」


「知っている」


「おきぬさんは四」


「八頼んだ」


「四ならできるそうです」


「足りん」


「はい」


「源三は七」


「はい」


「十五頼んだ」


「はい」


「足りん!」


 宗兵衛の声が、店へ響いた。


 しるべが箱から出た。


 少し離れた。


 猫。


 危険察知だけは速い。


「足りないんだ」


 宗兵衛が言った。


 三百。


 納期。


 もう動き始めている。


「だから集めている」


「はい」


「なのに、お前が」


「私が穴を作ったのではありません」


 出た。


 宗兵衛の顔が止まる。


「六十反」


 私は言った。


「最初から足りなかった」


 昨日。


 大浜屋で言った言葉。


 もう一度。


「でも」


 今日は。


 そこで止めない。


「大浜屋さん」


「何だ」


「どうして三百で出したんですか」


 宗兵衛が。


 初めて。


 目を逸らした。


 ほんの一瞬。


 私は見た。


 何かある。


 ただの強欲ではない。


「取れると思った」


「職人を集めれば?」


「ああ」


「安く?」


「……」


「どうして予定額内に収めないといけなかったんです」


 御用。


 大浜屋は。


 予定額の上限内で三百を出した。


 でも。


 青柳屋と黒瀬屋は。


 その金額では薄すぎると判断した。


「大浜屋さんなら」


 私は言った。


「別の値でも出せたはずです」


 大きな問屋。


 役所仕事に慣れている。


 原価計算も。


 職人の相場も。


 青柳屋より知っている。


 なのに。


 なぜ。


「……御用商人は」


 宗兵衛が言った。


 小さな声。


「御用商人は?」


「一度でも、『できぬ』と言えば終わりだ」


 私は黙る。


「大浜屋は先代から、代官所の御用を受けてきた」


「はい」


「早く」


 宗兵衛の拳が。


 少し握られる。


「安く」


「はい」


「揃える」


 それが。


 大浜屋の看板。


「一度でも、他所より高い。遅い。足りぬ」


 宗兵衛が笑った。


 今度は。


 苦い笑い。


「そうなれば、次はない」


 ああ。


 この人も。


 縛られていた。


 御用だから。


 職人へ言っていた宗兵衛自身も。


 御用だから。


 に、首を締められていた。


 先代から。


 ずっと。


「予定額は」


「灰田様側から示された」


「上げてくれと相談したことは?」


「ない」


「どうして」


「言えるか」


 即答。


「御用商人が」


 一拍。


「高いから無理です、などと」


 私は。


 何も言えなかった。


 前世の記憶が。


 少しだけ戻る。


 前任者がやっていた。


 去年もできた。


 今まで問題なかった。


 例年どおり。


 それだけで。


 今年も。


 できることにされる。


 誰かが。


 毎年少し無理を足していたかもしれないのに。


 できた。


 という結果だけが残る。


 次の年。


 それが標準になる。


「宗兵衛さん」


 私は初めて。


 大浜屋さん。


 ではなく。


 名前で呼んだ。


「何だ」


「今までの不足も」


 少し怖い。


 でも。


 聞く。


「職人さんが埋めてきたんですか」


 宗兵衛は。


 答えなかった。


 その沈黙で。


 十分だった。


 店の奥。


 藤兵衛が目を伏せる。


 伊織がいれば。


 たぶん。


 苦い顔をしたと思う。


 いない。


 今日は。


 宗兵衛と。


 青柳屋だけ。


「今年は」


 宗兵衛が言う。


「特に悪い」


「何が?」


「布の仕入れが上がった」


「はい」


「染めも」


「はい」


「それでも、御用の値はほとんど変わっていない」


 来た。


 価格が止まっている。


 手間は上がっている。


 材料も上がる。


 でも。


 御用だから。


 同じくらいで。


 前例どおり。


 それを。


 最後に。


 人がかぶる。


「私は」


 宗兵衛が言った。


「大浜屋を守ってる」


 誰も責められない。


 その言葉。


「店を潰せば、奉公人も困る」


「はい」


「だから取る」


「はい」


「取ったら、納める」


「はい」


「何が悪い」


 悪い。


 とは。


 簡単に言えなかった。


 宗兵衛だけが悪い。


 そんな話ではない。


 灰田。


 代官所。


 前例。


 大浜屋。


 職人。


 ずっと続いた御用の形。


 全員が。


 少しずつ。


 昔の数字を引きずっている。


「宗兵衛さん」


「何だ」


「一度」


 私は言った。


「本当の値を出しませんか」


「何?」


「三百反を」


 布。


 染め。


 織り。


 縫い。


 運ぶ。


 管理。


 大浜屋の利益。


 全部。


「職人さんを安くしない値で」


「そんなもの」


「出しましょう」


「出してどうする」


「灰田様へ見せます」


 宗兵衛が。


 笑った。


「馬鹿か」


「よく言われます」


「御用の値を上げろと言いに行くのか」


「はい」


「御用を取れなかった青柳屋が?」


「はい」


「黒瀬屋も呼ぶ気か」


「たぶん来ます」


「勝手に決めるな」


 暖簾の外。


「呼んだか」


 声。


 全員が見る。


 伊織。


 来た。


 呼んでいない。


「なぜ」


「大浜屋の主人が青柳屋へ入ったと聞いた」


 この町の噂。


 今日も翼がある。


「黒瀬屋」


 宗兵衛が低く言う。


「お前も俺を笑いに来たか」


「逆だ」


 伊織は帳場へ座った。


「原価を出しに来た」


 完全に参加。


「若旦那」


「はい」


「青柳屋の二百四十の原価表を出せ」


「あります」


「俺も持ってきた」


 黒瀬屋二百六十。


 原価表。


 二枚。


 並べる。


「大浜屋」


 伊織が言った。


「お前のを出せ」


「断る」


「なら帰れ」


「俺の店だぞ」


「ここは青柳屋だ」


 宗兵衛。


 一瞬。


 黙る。


 私も。


 少し笑いそうになった。


 ややこしい。


 でも。


 空気が少しだけ変わった。


「宗兵衛さん」


 私は言った。


「大浜屋を潰したいわけではありません」


「当たり前だ」


「御用を奪いたいわけでもない」


「本当か」


「少しは欲しいです」


「若旦那」


 小春が。


 小声。


「そこ、正直に言います?」


「嘘つくとややこしいので」


 御用。


 欲しい。


 でも。


 今は。


 大浜屋が三百を納められる形を作る方が先。


「御用は大浜屋の名前でいいです」


 伊織も頷く。


「ただし」


「職人の値は削らない」


 伊織が言う。


「青柳屋と黒瀬屋は?」


 宗兵衛が聞く。


「六十を受けるのか」


 私は伊織を見る。


 伊織が答えた。


「値が合えば」


 さすが。


 情緒だけで受けない。


「青柳屋も」


 私は言う。


「無理のない範囲なら」


「お前ら」


 宗兵衛は。


 二人を見る。


「俺の下請けになる気か」


「共同分納」


 私は言った。


「名前は大浜屋」


「利益は?」


「取ります」


「取るのか」


「商いなので」


 宗兵衛が。


 少しだけ。


 笑った。


 初めて。


 本当に。


 少しだけ。


「甘いのか、がめついのかわからんな」


「両方で」


 伊織が言う。


「こいつは、だいたいそうだ」


「伊織さん」


「違うのか」


「否定できません」


 そこから。


 三軒。


 帳場へ座った。


 青柳屋。


 黒瀬屋。


 大浜屋。


 数字を出す。


 布。


 染め。


 織り。


 縫い。


 運搬。


 管理。


 利益。


 職人を削らない。


 夜仕事を前提にしない。


 急ぎ分には。


 急ぎ賃。


「高い」


 宗兵衛が何度も言う。


「これが普通です」


 伊織が何度も返す。


「ここ、もう少し」


「削るなら大浜屋の利益」


「嫌だ」


「では削れない」


「黒瀬屋、お前本当に容赦ないな」


「数字だからな」


 二刻。


 三刻。


 お鈴が茶を出す。


 お滝が握り飯を出す。


 しるべが紙の端へ乗る。


「猫をどけろ」


 宗兵衛まで言うようになった。


 青柳屋に来ると。


 全員。


 最終的に猫対応を覚える。


 日が傾いた頃。


 一枚の紙ができた。


 三百反。


 本当の必要額。


 代官所予定額より。


 一割七分。


 高い。


 全員。


 黙る。


「……これを」


 宗兵衛が言った。


「灰田様へ?」


「はい」


「俺は嫌だぞ」


 即答。


「私も嫌です」


 私も即答。


「お前が言い出したんだろう!」


「怖いものは怖いです」


「若旦那」


 伊織が額を押さえる。


「だから顔に出すな」


「はい」


「俺も嫌だ」


「伊織さんまで?」


「当たり前だ」


 三人。


 誰も行きたくない。


 少し。


 おかしくなった。


 宗兵衛が笑った。


 私も。


 伊織も。


 ほんの少し。


「明日」


 私が言った。


「三人で行きましょう」


「逃げるなよ」


 宗兵衛。


「宗兵衛さんこそ」


「俺は御用商人だ」


「なら先頭で」


「嫌だ」


「私も嫌です」


「では黒瀬」


「断る」


 三人。


 前へ行きたくない。


 でも。


 行く。


 たぶん。


 商いとは。


 時々。


 こういうものなのだと思う。


 誰か一人の正義が。


 悪い誰かを倒す。


 そういう話ではない。


 皆。


 自分の店を守りたい。


 生活を守りたい。


 顔も立てたい。


 できれば損したくない。


 その中で。


 誰かの手だけが。


 毎回安くなる仕組みを。


 少しずつ。


 直す。


 夜。


 帳面を書く。


 大浜宗兵衛、来店。


 御用三百反受注理由を確認。


 大浜屋、代々の御用商人。


 「早く、安く、揃える」が前例化。


 今年、布・染め等の原価上昇。


 御用予定額はほぼ据え置き。


 青柳屋・黒瀬屋・大浜屋。


 三百反の実原価を再計算。


 職人通常手間賃。


 急ぎ賃。


 各店利益。


 すべて含む。


 予定額比。


 一割七分増。


 明日、三店で代官所へ説明予定。


 最後に。


 一行。


 責任の宛名を正しくしても、問題が消えるわけではない。そこから、初めて直せる。


 昨日。


 責任は大浜屋。


 そう確認した。


 正しかった。


 でも。


 大浜屋へ責任を返して。


 終わりではなかった。


 宗兵衛にも。


 事情がある。


 昔からの値。


 昔からのやり方。


 昔からの看板。


 それを守るため。


 さらに下へ。


 責任を渡していた。


 責任のバケツリレー。


 最後。


 一番弱い人が。


 全部かぶる。


 それでは。


 誰も楽にならない。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は。


 責任を返すだけで、仕事を終えた気にならないでいたい。


 これはあなたの責任です。


 そう言ったあと。


 じゃあ。


 どうしたらちゃんと持てるか。


 そこまで一緒に考えられたら。


 責任は。


 罰ではなく。


 仕事に戻る。


 そう思ったところで。


 しるべが。


 三百反の新しい原価表の上へ座った。


「しるべ」


 猫を見る。


「それ、明日持っていく紙です」


 にゃ。


「どいてください」


 にゃ。


 宗兵衛がまだ店にいた。


 猫を見て。


 ため息。


「若旦那」


「はい」


「こいつにも手間賃を払ってるのか」


「払ってません」


「なら働かせるな」


「本人が勝手に参加してます」


 宗兵衛が、しるべを抱き上げた。


 意外。


 持ち方がうまい。


「猫、慣れてます?」


「昔、店にいた」


 初情報。


「名前は?」


「……虎吉」


 似合わない。


 笑いそうになる。


「笑うな」


「笑ってません」


「顔が笑ってる」


 この町。


 顔に出る人間ばかりである。


 宗兵衛は、しるべを箱へ戻した。


 しるべも抵抗しなかった。


「上手いですね」


「御用商人だからな」


「猫と関係あります?」


「ない」


 久しぶりに。


 店の中に笑いが出た。


 明日。


 代官所。


 予定額。


 一割七分増。


 怖い。


 かなり。


 でも。


 三人で行く。


 誰も先頭には立ちたくないが。


 少なくとも。


 もう。


 六十反の穴へ。


 誰か一人を詰め込んで済ませる話ではない。


 私は三百反の原価表を畳んだ。


 逃げたのではない。


 今日は責任の宛名を大浜屋へ戻し。


 そこからさらに。


 責任を持てる値段まで、三軒で書き直したのである。


⸻



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