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第52話 若旦那、御用の札にすぐ頭を下げない(前編)



 ぼてぼてした翌日。


 青柳屋は、ちゃんと働いていた。


 朝から反物が二本出た。


 手直しが一件。


 千代さんへ、人形用の敷布団が二組。


 しるべは箱。


 平和である。


 私は帳場で、昨日の売上を見ていた。


 手拭い一枚。


 紐二本。


 改めて見ると、本当にぼてぼてだった。


「若旦那」


 藤兵衛が言った。


「昨日の帳面を、そんなに眺めても売上は増えません」


「味わっているんです」


「何を」


「何もなかった一日を」


「でしたら、本日は働いてください」


「はい」


 余韻、終了。


 その時だった。


 店先に、見慣れない男が立った。


 紺の羽織。


 腰には役所勤めらしい印籠。


 後ろに若い供が二人。


「青柳屋の若旦那は」


「私です」


 男は懐から一枚の紙を出した。


「代官所より申し付けがある」


 店の空気が変わった。


 藤兵衛の背筋が伸びる。


 小春も手を止めた。


 私は紙を受け取った。


 上には、大きく。


 御用布調達之儀。


 嫌な文字面である。


 御用。


 調達。


 前世の脳内で、役所の大型案件ファイルが音を立てて開いた。


 仕様書。


 納期。


 見積書。


 数量。


 担当課。


 そして最後に小さく、


 その他必要な事項は協議による。


 怖い。


 一番怖いやつ。


「秋の大祭に合わせ」


 役人が言った。


「城下の役人、警護、奉仕人が身につける揃い布を新調することとなった」


「何反ほどでしょう」


「三百」


 三百。


 私は紙をもう一度見た。


 三。


 百。


 見間違いではない。


 青柳屋の店の奥で、脳内の私が電卓を落とした。


 待って。


 三百反。


 一反、二反の話ではない。


 昨日は紐二本だった店である。


 振れ幅がおかしい。


「納めは?」


 藤兵衛が聞いた。


「ひと月後」


 ひと月。


 脳内で、今度は工程表が床へ崩れた。


 三百反。


 三十日。


 一日十反。


 いや、染め、織り、仕立て、運搬まで考えたら、そんな単純な話ではない。


「青柳屋一軒への御用ですか」


 私が聞いた。


 役人は少しだけ笑った。


「候補は三軒ある」


 なるほど。


 競い合わせる。


「黒瀬屋も?」


「無論」


 でしょうね。


 黒瀬伊織。


 安く。


 早く。


 数を揃える。


 こういう大口では、あの男は強い。


 むしろホームゲームである。


「もう一軒は?」


「大浜屋」


 藤兵衛の筆が止まった。


 初めて聞く名前ではない。


 城下の外れに大きな蔵を持つ問屋。


 役所仕事に強い。


 布そのものより、役人との付き合いで商いを広げてきた店だ。


「三日後、代官所へ見積もりを持参せよ」


「三日」


「御用である」


 役人はそれだけ言って帰った。


 暖簾が戻る。


 店の中は静かだった。


 私は紙を見る。


 三百反。


 三十日。


 見積もり、三日後。


「若旦那」


 藤兵衛が言った。


「大きな商いでございます」


「はい」


「取れれば、青柳屋の名は城下全体へ出ます」


「はい」


 それはわかる。


 売上も大きい。


 職人へ仕事も回る。


 黒瀬屋と組めば、雨の羽織で作った分業の仕組みも使える。


 うまくいけば。


 かなり大きい。


 だが。


 私は紙の下の方を見ていた。


「藤兵衛さん」


「はい」


「ここ」


 小さな文字。


 調達予定額。


 一反あたりの上限が書かれている。


 藤兵衛が黙った。


 小春も覗く。


「……安いですね」


 そう。


 かなり安い。


「この値で、できますか」


 私が聞く。


 藤兵衛は即答しなかった。


 それだけで答えに近い。


「布だけなら」


 やがて言った。


「質を落とせば」


「職人の手間まで入れたら?」


「厳しいかと」


 来た。


 大口。


 名誉。


 御用。


 その下に。


 安い単価。


 前世でも、よく見た構図だった。


 大きな仕事だから。


 実績になるから。


 次につながるから。


 皆が見るから。


 だから今回は、少し頑張って。


 少し。


 その「少し」が、最後には現場へ全部乗る。


「受けませんか」


 小春が聞いた。


「まだ決めません」


 受けたい。


 かなり。


 青柳屋が御用商人になる。


 看板にも箔がつく。


 昨日まで人形の布団と猫の箱を直していた店が、一気に城下の大口案件。


 脳内の私が、紅白歌合戦の初出場歌手みたいに親族へ電話し始めている。


 待て。


 まだ出場決定ではない。


 しかも、そのステージ衣装を縫う側である。


「まず、原価を出しましょう」


 私は言った。


「いつもの布で作った場合」


「はい」


「少し安い布へ変えた場合」


「はい」


「それから、職人さんへ無理をさせず、ひと月で何反までできるか」


 小春が頷いた。


「数量から先に決めない?」


「はい」


 三百反取れるか。


 ではない。


 何反なら、壊さず作れるか。


 白無垢から教わった。


 できるところまで全部やらない。


 大事な糸が細くなる前に止める。


 午後。


 黒瀬伊織が来た。


 今日は呼んでいない。


「聞いたか」


 第一声。


「御用布?」


「ああ」


 伊織も紙を持っている。


「どうします?」


「取る」


 即答。


「この単価で?」


「取る」


「三百反」


「取れるなら全部取る」


 さすが。


 迷いがない。


 黒瀬屋の算盤は、もう走り始めている。


「職人は?」


「増やす」


「染め場は?」


「二か所追加する」


「納期は」


「詰める」


 早い。


 強い。


 でも。


 以前なら。


 私はここで、伊織と真っ向からぶつかったかもしれない。


 人の手は消耗品ではありません。


 そう言って。


 だが今は。


 伊織も、以前の伊織ではない。


「無理をさせませんか」


 私が聞く。


 伊織は少し嫌そうな顔をした。


「しない」


「本当に?」


「雨の羽織で学んだ」


 お。


「染め場ごとに上限を出す。縫い手も、無理な数は振らない」


「では、三百反は?」


「黒瀬屋だけではやらん」


 私は顔を上げた。


「青柳屋と組む?」


「まだ言っていない」


「今、だいぶ」


「聞け」


 伊織が紙を帳場へ置いた。


「青柳屋。黒瀬屋。それから織元二軒。染め場三軒。縫い手は分ける」


「共同で?」


「そうだ」


「連携」


「共同受注だ」


 今日は否定が弱い。


 かなり進歩している。


「ただ」


 伊織が続けた。


「この上限額では利益が薄い」


「ですよね」


「薄いどころか、何か一つ崩れれば赤字になる」


「では、なぜ取るんです」


「御用だからだ」


 そこ。


 私は引っかかった。


「御用だから?」


「城下の仕事を取れば、次がある」


「実績?」


「ああ」


 前世の脳内で、赤いランプが一つ点いた。


 実績。


 次につながる。


 だから今回は薄利。


 聞いたことがある。


 何度も。


「伊織さん」


「何だ」


「次って、誰が保証するんですか」


 伊織が黙った。


「今回安くやったら、次はこの値が基準になりませんか」


「……なる可能性はある」


「職人さんにも」


 今回は御用だから。


 次も御用だから。


 町のためだから。


 名誉だから。


 その言葉で。


 毎回、少しずつ安く働いてもらう?


 伊織の眉間に皺が入る。


「では断るのか」


「まだです」


「またそれか」


「数字を出します」


 今度は。


 雰囲気で受けない。


 御用の札に舞い上がらない。


 三百という数字に怯えない。


 必要な値を出す。


「この価格ではできないなら」


 私は言った。


「その理由も一緒に見積もりへ書きます」


「予定額を超えるぞ」


「はい」


「落ちる」


「かもしれません」


「それでも?」


 怖い。


 そりゃ怖い。


 三百反。


 御用。


 青柳屋の名。


 逃したら。


 もったいない。


 脳内の私が、競馬場の最終直線で叫んでいる。


 ここまで来た!


 残れ!


 首だけ!


 鼻だけ!


 写真判定でもいい!


 でも。


 今回は単勝を買っていない。


 まだ馬券を買う前だ。


 レースに出る条件を見ている段階である。


 ここで興奮するな。


「安くしないと取れない仕事なら」


 私は言った。


「取ったあとが怖いです」


 伊織はしばらく黙った。


 やがて。


「三日後」


「はい」


「二店で別々に見積もりを出す」


「え?」


「ただし、原価の考え方は合わせる」


 面白い。


「価格カルテル?」


「違う」


「ですよね」


 危ない言葉だった。


「職人の最低手間賃だけは、互いに削らない」


 伊織が言った。


「そこを競争に使わない」


 私は少し驚いた。


「伊織さん」


「何だ」


「かなり人情派に」


「雨の羽織で学んだと言った」


「ありがとうございます」


「お前に礼を言われる筋合いはない」


 でも。


 黒瀬伊織は変わった。


 合理性を捨てたわけではない。


 むしろ。


 合理性の中に、


 削ってはいけない数字


 が増えた。


 それは大きい。


 翌日。


 職人たちを集めた。


 小春。


 千代。


 お松。


 おきぬ。


 染め場の親方。


 織元。


 青柳屋と黒瀬屋。


 一人ずつ聞いた。


「ひと月で、無理なく何反できますか」


 最初。


 皆が遠慮した。


「頑張れば」


「頑張らなくていいです」


「少しくらいなら」


「少しくらいも、今回は抜きです」


「御用ですよ」


「だからです」


 町の仕事なら。


 町の人の手を壊して作るのは、変だ。


 最初は少し戸惑っていた職人たちも。


 やがて。


 数字を出した。


 染め場。


 四十五。


 三十。


 四十。


 織元。


 七十。


 六十。


 縫い手。


 それぞれ。


 数字を重ねる。


 三百には届かない。


「二百四十」


 藤兵衛が言った。


 無理なく作れる数。


 二百四十反。


 六十足りない。


 全員が黙った。


「六十なら」


 誰かが言いかけた。


「頑張れば」


「駄目です」


 私が止めた。


 自分でも驚くほど早く出た。


「二百四十で出しましょう」


「御用は三百だぞ」


 染め場の親方が言う。


「はい」


「落ちるぞ」


「かもしれません」


「青柳屋は、それでいいのか」


 よくない。


 本当は。


 三百欲しい。


 御用商人になりたい。


 売上も欲しい。


 看板も欲しい。


 でも。


「二百四十しか作れないのに」


 私は言った。


「三百できますとは書けません」


 静かになった。


 その時。


 店の外から拍手が聞こえた。


 ぱち。


 ぱち。


 ゆっくり。


 一人の老人が、暖簾をくぐった。


「よい算盤じゃ」


 白い髭。


 旅装。


 杖。


 どこかで見た。


 湯屋の前。


 団子屋。


 何度か町で見かけた、ご隠居。


 小春が小さく言った。


「光翁さん」


 そう。


 光翁。


 老人の後ろには。


 無口な剣士、左近。


 薬売りの弥助。


 三人。


「算盤は」


 光翁が笑った。


「足すためだけにあるのではない」


 私は老人を見る。


「引くためにも?」


「それもある」


 光翁は、二百四十と書かれた紙を見る。


「できぬ六十を、できることにせぬためにもある」


 その言葉だけ残し。


 光翁は店を出た。


「待ってください」


 私は追いかける。


 暖簾を出る。


 通り。


 右。


 左。


 いない。


 早い。


 老人の歩行速度ではない。


「……何者なんですか」


 後ろから伊織。


「知らん」


「伊織さんも?」


「町で何度か見た程度だ」


 光翁。


 また。


 こちらが何かを決めた時だけ現れる。


 答えをくれるわけではない。


 ただ。


 一言置いていく。


 気になる。


 かなり気になる。


 しかし今は。


 御用布だ。


 私は帳場へ戻り、二百四十反という数字を見つめた。


 三百には届かない。


 だが、嘘ではない。


 ここから先は、見積書に何を書くかで決まる。


 御用の札に頭を下げるのか。


 それとも、こちらの条件を示すのか。


 筆を取る。


 墨を含ませる。


 私は最初の一行を書き始めた。

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