第31話 若旦那、ほどけない帯と向き合う
黒瀬が帰ってから、店の空気が少しだけ変わった。
誰も何も言わない。
でも、皆が同じことを思っている気がした。
――青柳屋は、呉服屋だ。
その夜、私は反物蔵へ入った。
昼間の賑わいとは違い、蔵の中は静かだった。
木の匂い。
糊の香り。
布だけが持つ、乾いた空気。
私は一本一本、反物を手で撫でていく。
木綿。
麻。
絹。
同じ布でも、指先へ返ってくる声が違う。
前世では、生地をこんなふうに触ることはなかった。
服は完成した姿で買うものだった。
けれど、この時代では違う。
布は、まだ誰の人生にもなっていない。
誰かの晴れ着になるかもしれない。
誰かの仕事着になるかもしれない。
赤子を包む産着になるかもしれない。
その前の姿が、反物なのだ。
「若旦那。」
後ろから小春が声を掛けた。
手には小さな行灯を持っている。
「まだ起きていらしたんですか。」
「少しだけ。」
「黒瀬さんの言葉ですか。」
「……顔に出ていますか。」
「少しだけ。」
小春は笑った。
「黒瀬さん、厳しいですね。」
「でも、間違っていません。」
「はい。」
二人で反物を眺める。
しばらく沈黙が続いた。
嫌な沈黙ではない。
布を見ている時間は、話さなくても落ち着く。
「若旦那。」
「はい。」
「この反物、覚えていますか。」
小春が一本の薄藍色の反物を差し出した。
「これは……。」
「去年、織元さんが『難あり』として安く置いていったものです。」
広げてみる。
一見、美しい。
だが光に透かすと、ごく細い一本だけ、糸が乱れている。
「この一本か。」
「はい。」
普通なら誰も気づかない。
でも、一度気づくと、そこだけが目に入る。
「売れませんね。」
私が言うと、小春は首を横に振った。
「売れない、ではありません。」
「え?」
「合う人を、まだ見つけていないだけです。」
私はその言葉に息をのんだ。
布にも、出会う相手がいる。
完璧だから売れるわけではない。
誰に届くかで価値が変わる。
その時だった。
暖簾の外で、小さく声がした。
「こんばんは……。」
店を閉めたはずなのに。
外へ出ると、一人の女性が立っていた。
三十代半ばくらいだろうか。
着物の帯が少しだけ崩れている。
何度も結び直した跡だった。
「遅くに申し訳ありません。」
「どうされましたか。」
女性は少し恥ずかしそうに笑った。
「明日、妹の祝言で……。」
そう言って帯を見下ろした。
「どうしても、きれいに結べなくて。」
私は一瞬、黙った。
帯を結ぶ技術は、まだお滝や小春ほどではない。
だが。
目の前には、困っている人がいる。
「少々、お待ちください。」
私は店の奥へ向かった。
「小春さん。」
「はい。」
「お願いできますか。」
小春は何も言わず頷いた。
女性を店の中へ招き、帯をほどく。
慌てた跡が、布に少し残っている。
「大丈夫ですよ。」
小春が優しく言う。
「布は、慌てると固くなります。」
「布もですか。」
「人も同じです。」
女性は少し笑った。
小春の指が、ゆっくり帯を整えていく。
引きすぎない。
緩めすぎない。
息を合わせるように結ばれた帯は、さっきまでとは別物のように美しかった。
「ありがとうございます……。」
女性の目が少し潤んでいた。
「これで妹の隣に立てます。」
帰り際、女性は深く頭を下げた。
「帯を結んでもらっただけなのに、不思議ですね。」
「何がですか。」
「心まで整いました。」
店を出る女性の背中を見送りながら、私は思った。
呉服屋の仕事は、布を売ることではない。
布を通して、人が安心して明日へ行けるようにすることなのかもしれない。
その時、帳場から藤兵衛が静かに言った。
「若旦那。」
「はい。」
「本日は、ようやく呉服屋らしい一日でございました。」
私は笑った。
「そうですね。」
「ですが。」
「まだありますか。」
「帯結びの稽古、明日から増やしましょう。」
現実は早い。
私は苦笑いしながら頷いた。
「はい。」
どうせ一度死んだ身だ。
町の腹を支えることも大切だ。
でも明日からは、布でも人の背中をそっと押せる若旦那になろう。




