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第51話 若旦那、今日はだいたい使いものにならない


 祝言の翌朝。


 目が覚めた。


 身体が重い。


 布団が強い。


 非常に強い。


 起きようとすると、肩が、


 まあまあ。


 と、こちらを押し戻してくる。


 腰も、


 今日はいいんじゃない?


 と言っている。


 身体の各部署が、始業を拒否していた。


「……朝?」


 障子の向こうが、明るい。


 かなり明るい。


 嫌な予感。


 私は布団から顔だけ出した。


「藤兵衛さん?」


 返事がない。


「お鈴さん?」


 返事がない。


「小春さん?」


 そもそも小春は青柳屋に住んでいない。


 寝ぼけている。


 危ない。


 私はようやく上半身を起こした。


 頭の中で。


 昨日の祝い酒が、まだ小さく二次会をしている。


 どんちゃん。


 どんちゃん。


 閉店してください。


 もう朝です。


 前世の私は、飲みすぎた翌朝に何度も誓った。


 もう飲まない。


 一生飲まない。


 そして夕方には、


 まあ一杯くらい。


 人類は、なぜ歴史から学ばないのか。


 その答えが今、自分の身体にある。


 階下へ降りる。


 青柳屋は。


 静かだった。


 暖簾はまだ半分。


 藤兵衛が帳場にいる。


 しかし。


 動いていない。


 筆を持ったまま、じっと帳面を見ている。


「おはようございます」


「……おはようございます」


 遅い。


 返事が、半拍遅い。


「藤兵衛さん」


「はい」


「眠いですか」


「いいえ」


「昨日、何刻まで飲みました?」


「覚えておりません」


 完全に眠い人の答えだった。


 その横。


 お鈴が雑巾を持っている。


 だが、同じ柱をずっと拭いている。


「お鈴さん」


「はい!」


「そこ、だいぶきれいですよ」


「……あ」


 柱だけ、店内で異様な光沢を放っている。


「次へ行きましょう」


「はい」


 お鈴は二歩動き。


 隣の柱を拭き始めた。


 今日は、そういう日らしい。


 台所から、お滝が出てきた。


「若旦那」


「はい」


「朝粥」


「お願いします」


「もう昼粥だけどね」


「……そんな時間?」


「お天道様を見な」


 見たくない。


 現実が眩しい。


 膳には、白粥。


 梅干し。


 漬物。


 そして昨日の祝い膳から持ち帰った、少し残った煮物。


「ありがたい」


 心から出た。


 祝いの翌日の白粥。


 これは料理というより救助隊である。


 一口。


 胃に落ちる。


 身体の奥で、


 受領しました。


 という声が聞こえた気がする。


「生き返る……」


「一回死んでるけどね」


 お滝がさらっと言った。


 私は箸を止めた。


 そうだった。


 設定が強い。


 転生者への「生き返る」は、本当に生き返っている。


「二度目の生還です」


「大げさだよ」


 その時。


 暖簾が揺れた。


 黒瀬伊織。


 いつものように、きっちりした姿。


「遅い」


 第一声。


「何がですか」


「店を開けるのが」


「今日は半刻遅く」


「一刻だ」


「そんなに?」


「町ではもう豆腐屋が二巡目だ」


 豆腐屋を時計にするな。


 いや、この町では使えそうだ。


「伊織さんは元気ですね」


「普通だ」


「昨日、飲んでましたよね」


「飲んだ」


「かなり」


「飲んだ」


「二日酔いは?」


「ない」


 腹が立つ。


 こういう人間は、本当に腹が立つ。


 同じ酒を飲んだはずなのに。


 こちらは身体の各部署がストライキ。


 あちらは通常営業。


 前世でいう、飲み会翌朝八時半から普通にメールを返してくる上司である。


 怖い。


「若旦那」


 伊織が私の膳を見る。


「まだ朝餉か」


「昼粥です」


「言い換えても遅い」


「今日は、ぼてぼてやる日です」


「何だ、ぼてぼてとは」


「急がず」


「うん」


「頑張らず」


「うん」


「何となく仕事っぽいことをしながら、一日を終える」


 伊織の眉間に皺が寄った。


「それは仕事なのか」


「今日だけです」


「青柳屋は、よく潰れなかったな」


「昨日までかなり働きました」


「それは知ってる」


 知っている。


 その一言が、少しうれしかった。


 だから今日は。


 ぼてぼて。


 それでいい。


「黒瀬屋さんも、ぼてぼてしていきます?」


「帰る」


 即答。


「お茶くらい」


「いらん」


「昨日の煮物があります」


 伊織の足が止まった。


「……何の」


「里芋と鶏」


「少しだけなら」


 来た。


 合理性、煮物に敗北。


 お滝が無言で一皿増やした。


 伊織は帳場の端へ座る。


「俺は休みに来たわけじゃない」


「はい」


「昨日の職人への支払い確認に来ただけだ」


「はい」


 里芋を食べる。


「……うまい」


「ぼてぼてですね」


「違う」


 かなりぼてぼてである。


 昼過ぎ。


 小春が来た。


 手には、小さな包み。


「昨日の花嫁さんのお母様からです」


「何でしょう」


「祝い膳の残りだそうです」


 開ける。


 卵焼き。


 煮しめ。


 鯛のほぐし身。


 また食べ物が増えた。


 青柳屋。


 本日、呉服屋としての仕事。


 ほぼゼロ。


 食べ物だけは充実。


「黒瀬さんに、また飯屋と言われますね」


 小春が言った。


 見る。


 伊織は、まだいる。


 茶まで飲んでいる。


「本人が利用しています」


「これは取引だ」


「何との?」


「……」


 答えがなかった。


 勝った。


 たぶん。


 小春も今日は、いつもより動きが遅い。


 反物を一枚広げ。


 眺め。


 畳む。


 それだけ。


「小春さん」


「はい」


「今日は仕事、あります?」


「ありません」


「言い切りましたね」


「昨日まで、ありましたから」


 小春は店先へ座った。


 しるべが来る。


 隣へ座る。


 小春が猫の背中を撫でる。


 私も、その横へ座る。


 伊織は帳場。


 藤兵衛は帳面。


 お鈴は、また柱。


 お滝は台所。


 誰も急いでいない。


 通りを籠屋が通る。


 豆腐屋の声。


 子どもの笑い声。


 遠くで魚屋が何か叫んでいる。


 それだけ。


 昨日まで。


 三代の白。


 祖母の縫い目。


 母の鶴。


 花嫁の芽。


 職人。


 納期。


 寸法。


 支払い。


 猫。


 毎日、何かを考えていた。


 今日は。


 猫。


 里芋。


 柱。


 以上。


「若旦那」


 小春が言った。


「こういう日、嫌いですか」


「前は、苦手だったかもしれません」


「何も起きない日?」


「はい」


 前世の休日。


 何もしないと。


 損をした気がした。


 せっかくの休み。


 出掛けなきゃ。


 片付けなきゃ。


 何か身になることをしなきゃ。


 そして。


 休みの日まで、何かを達成しようとしていた。


 休むという仕事の中に。


 成果目標を入れていた。


 馬鹿である。


 休み方にKPIを設定するな。


「今日はどうですか」


 小春が聞く。


 私は、しるべを見る。


 猫は寝ている。


 昨日も寝ていた。


 今日も寝ている。


 たぶん明日も。


「いいですね」


「何が?」


「何も起きなくて」


 小春が笑った。


 その時。


 しるべが立ち上がった。


 何か起きる?


 全員が少し身構える。


 しるべは。


 三歩歩いて。


 別の箱へ入った。


 終了。


「何も起きませんでしたね」


「はい」


 よかった。


 夕方。


 結局。


 青柳屋で売れたものは。


 手拭い一枚。


 紐二本。


 以上。


 伊織が帳面を見た。


「赤字だな」


「今日だけ見れば」


「平気なのか」


「はい」


「なぜ」


「昨日までの売上があります」


 伊織が少し黙った。


「それならいい」


 認めた。


 休みも。


 帳面が許せば、取れる。


 これも商いなのかもしれない。


 働くために休む。


 ではない。


 休めるように働いておく。


 少し順番が違う。


「若旦那」


 藤兵衛が今日の帳面を見せた。


 売上。


 手拭い一枚。

 紐二本。


 支出。


 なし。


 来客。


 黒瀬伊織。

 小春。

 子ども数名。

 しるべ。


「猫も来客?」


「店先から一度出て、再度入りましたので」


「厳密すぎません?」


「記録でございます」


 そして備考。


 特記事項なし。


 いい。


 非常にいい。


 三十九日間。


 祝い直し帳は、毎日ぎっしりだった。


 今日は。


 特記事項なし。


「藤兵衛さん」


「はい」


「今日は、この一行が一番好きです」


「左様ですか」


「はい」


 特記事項なし。


 誰も困っていない。


 布も破れていない。


 納期もない。


 猫も一応、何も壊していない。


 何もない。


 かなりの吉日ではないか。


 夜。


 暖簾を下ろす。


 いつもより少し早い。


 お鈴が聞いた。


「もう閉めるんですか」


「今日はいいでしょう」


 藤兵衛を見る。


 少し考えて。


「よろしいかと」


 許可が出た。


 小春は帰る。


 伊織も、ようやく帰る。


「結局、一日いましたね」


「たまたまだ」


「里芋、おかわりしましたよね」


「……」


「ぼてぼてでしたね」


「明日は働け」


「はい」


 伊織は帰っていった。


 否定しなかった。


 勝利。


 私は店先へ座った。


 夕暮れ。


 しるべが隣。


「今日は、何もしませんでしたね」


 にゃ。


「あなたは、いつもですけど」


 にゃ。


 私は笑った。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は。


 何かを成し遂げた次の日くらい。


 ぼてぼてしていいと思っていたい。


 人生には。


 物語が進む日もある。


 人が変わる日もある。


 大きな決断をする日もある。


 そして。


 里芋を食べて。


 猫が箱を移動するのを見て。


 柱だけ異様にきれいになって。


 一日が終わる日もある。


 どちらも。


 同じ一日だ。


 花を咲かせる日ばかりじゃなくていい。


 土の中で。


 何もしていないように見える日があるから。


 また芽が出る。


 ……と言ったところで。


 脳内の私は首を振った。


 今日は、そこまで立派な話にしなくていい。


 ぼてぼての日である。


 意味まで咲かせるな。


 今日は。


 疲れたから休んだ。


 飯がうまかった。


 猫がいた。


 それで十分。


「しるべ」


 にゃ。


「明日から、また働きましょう」


 猫は。


 箱の中で寝た。


「あなたは働かないんですね」


 にゃ。


 まあ、いい。


 私は灯りを消した。


 逃げたのではない。


 今日は特記事項なしの一日を、特記事項なしのまま終わらせたのである。


 それが、たいへんよくできました。



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