↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
49/53

第50話 若旦那、花嫁が笑って帰るまで



 祝言の朝。


 私は、いつもより早く目が覚めた。


 昨日までは。


 白無垢が青柳屋にあった。


 見れば確認できた。


 触らなくても、小春に聞けた。


 糸の箱も。


 祝い直し帳も。


 全部、手元にあった。


 今日は違う。


 白無垢は、花嫁の家にある。


 これから着る。


 歩く。


 人に見られる。


 そして。


 私たちは、もう店の中から全部を守れない。


 ……怖い。


「若旦那」


 藤兵衛が言った。


「朝餉を」


「いただきます」


「今日は、ちゃんと召し上がりますな」


「学びました」


 祝言の日に必要なのは。


 まず、飯。


 三代白無垢編、最大の教訓がそこなのかと言われれば困る。


 でも。


 人は腹が減る。


 晴れの日でも減る。


 朝粥を口へ運ぶ。


 今日は味がする。


 少し成長した。


「持ち物を確認します」


 小春が風呂敷を開いた。


 白糸。


 銀糸。


 緑糸。


 小さな当て布。


 替えの紐。


 針。


 鋏。


 香袋の替え紐。


「全部あります」


「祝い直し帳は?」


「青柳屋に置きます」


 私が答えた。


「持っていかないんですか」


「今日は帳面を見る日ではありません」


 藤兵衛が、ほんの少し目を細めた。


「若旦那」


「はい」


「それらしくなりましたな」


「最初から若旦那です」


「外見は」


「中身も頑張っています」


 そこへ伊織が来た。


 朝から。


 当然のように。


「遅い」


「まだ約束の刻前です」


「祝言の日に、刻ぴったりを狙うな」


「早く着いて待つ?」


「そうだ」


 この男。


 三十九日前なら、


 無駄な待ち時間だ。


 くらい言いそうだったのに。


「伊織さん」


「何だ」


「ずいぶん人情派に」


「白無垢の現場確認だ」


「はいはい」


「二回言うな」


 黒瀬伊織。


 本日も、協力を取引と呼び続ける。


 安心する。


 青柳屋を出る前。


 私は店先の箱を見た。


 しるべが入っている。


「しるべ」


 猫が目を開ける。


「今日は留守番です」


 にゃ。


「白無垢は、もうここにありません」


 にゃ。


「だから追いかけても無駄です」


 しるべは目を閉じた。


 理解したのか。


 聞いていないのか。


 後者だと思う。


「お鈴さん」


「はい」


「よろしくお願いします」


「任せてください」


 猫監視。


 正式業務。


 青柳屋も遠くまで来たものだ。


 花嫁の家へ着くと。


 すでに人が動いていた。


 親戚。


 近所の女たち。


 料理を運ぶ人。


 髪を整える人。


 祝いの品を持ってくる人。


 静かな感動など、どこにもない。


「その皿、そっち!」


「帯締めは?」


「誰か、お湯!」


「花嫁、朝は食べた?」


 現場だった。


 完全に現場。


 前世の私は思う。


 結婚式はイベントではない。


 一日限定の巨大プロジェクトである。


 関係者多数。


 締切絶対。


 延期困難。


 しかも主役は緊張している。


 地獄の要件定義。


 いや。


 祝いの席で地獄と言うな。


「若旦那さん!」


 母親がこちらへ来た。


「よかった」


「何かありました?」


 心臓が跳ねた。


「いえ」


 母親は笑った。


「来てくれたから」


 それだけ。


 よかった。


 すでに脳内消防隊が半鐘を鳴らしかけていた。


 撤収。


 部屋の奥。


 娘が座っていた。


 まだ白無垢は着ていない。


 髪を整え。


 薄く化粧をして。


 いつもより静かに見える。


「おはようございます」


 私が言った。


「おはようございます」


「眠れました?」


「少しだけ」


「朝餉は?」


 母親が横から答えた。


「食べさせました」


「お母さん」


「大事なのよ」


 経験者、強い。


「では」


 小春が言った。


「始めましょう」


 桐箱が開く。


 白無垢が出る。


 昨日まで見ていたはずなのに。


 場所が変わるだけで、違って見えた。


 これはもう青柳屋の仕事ではない。


 花嫁の衣装だ。


 小春と女たちが着付ける。


 左袖。


 祖母の縫い目。


 娘が、一瞬だけそこを見る。


 右袖。


 新芽。


 また見る。


 胸元には、母の鶴。


 二本だけ新しい銀が、朝の光を拾った。


 衿。


 娘のために選んだ白。


 内側に、白菊さんからの香袋。


 裾。


 足した新しい白。


 古い白から、水が流れている。


「立ってください」


 娘が立つ。


 全員が。


 裾を見る。


「丈」


 伊織が言う。


 小春が確認。


「大丈夫です」


「袖」


「大丈夫」


「衿」


 娘が首を少し動かす。


「苦しくないです」


 母親。


「本当に?」


「大丈夫」


「その大丈夫は」


「お母さん」


 全員が笑った。


 緊張が少し抜けた。


「歩いてみましょう」


 娘が一歩進む。


 裾。


 きれいに落ちる。


 二歩。


 水の柄が揺れる。


 三歩。


 鶴の銀糸も無事。


 私は。


 息をしていなかったらしい。


「若旦那」


 伊織が言った。


「息をしろ」


「しています」


「今した」


 ばれている。


 家を出る。


 祝言の場まで。


 そう遠くはない。


 だが、白無垢姿ではゆっくり歩く。


 一歩。


 また一歩。


 母親が隣。


 私は少し後ろ。


 小春は裾を見ている。


 伊織は、人の流れまで見ている。


 仕事の癖は抜けない。


 通りの人が振り返る。


「きれいねえ」


「三代目の白無垢だって?」


「昔のを直したらしいよ」


 聞こえる。


 そして。


 やっぱり。


「少し色が違うね」


 一人の年配の女が言った。


 来た。


 覚悟していた言葉。


 私は一瞬、口を開きかけた。


 説明。


 できる。


 白は一色ではない。


 祖母。


 母。


 娘。


 全部説明できる。


 でも。


 娘が先に答えた。


「はい」


 笑っている。


「三人分なんです」


 それだけ。


 女は、少し驚いたあと。


「あら」


 白無垢をもう一度見た。


「じゃあ、いい白だねえ」


「ありがとうございます」


 終わった。


 説明。


 十二文字くらい。


 私なら一千字使っていた。


 伊織が横でぼそり。


「台詞の仕立ては、不要だったな」


「ですね」


 少し悔しい。


 でも。


 うれしい。


 自分の白無垢として、もう本人が説明できる。


 店の言葉は、いらない。


 それでいい。


 祝言の場へ着いた。


 人が多い。


 料理。


 酒。


 花。


 声。


 笑い。


 白無垢が、その中へ入っていく。


 花嫁は座る。


 立つ。


 頭を下げる。


 また座る。


 母親が何度か、


「水飲んだ?」


 と聞いている。


 正しい。


 非常に正しい。


 私は端で見守る。


 何もすることがない。


 これが。


 怖い。


 針を持てない。


 裾を触れない。


 人の祝言の真ん中へ、


 少し確認します。


 と入るわけにもいかない。


「若旦那」


 小春が小声で言う。


「待つのも仕事ですよ」


「またですか」


「またです」


 この白無垢。


 最後まで同じことを教えてくる。


 しばらくして。


 花嫁が立ち上がった。


 その時。


「……あ」


 小さな声。


 私は反応した。


「どうしました?」


 花嫁が右袖を見る。


「糸が」


 心臓。


 跳ねる。


 見る。


 右袖の新芽。


 ではない。


 その少し下。


 袖の内側から、白い糸が一本。


 ほんの少しだけ出ている。


 小春が確認する。


「仕付け糸です」


「仕付け?」


「一本、取り忘れました」


 全員が黙った。


 小春の顔が。


 真っ赤になった。


 この一か月。


 あれだけ確認した。


 全員で見た。


 最後まで。


 それでも。


 一本。


 残った。


「ごめんなさい」


 小春が頭を下げた。


「私が」


「待ってください」


 私は言った。


 白い糸を見た。


 引っ張らない。


 鋏を出す。


 小春が根元を確認。


「切って大丈夫です」


 ちょき。


 一本。


 終了。


 娘が袖を見る。


「これで?」


「はい」


「じゃあ、大丈夫」


 小春はまだ申し訳なさそうだ。


「でも」


 娘が笑った。


「これくらいある方が、青柳屋さんらしいです」


「どういう意味ですか」


 私が聞く。


「完璧じゃないって、ずっと言ってたでしょう」


 ぐう。


 最後の最後。


 一本の仕付け糸に回収された。


 この三十九日。


 白くしすぎない。


 全部新しくしない。


 境目を消さない。


 余白を残す。


 完璧にしない。


 そして最後に。


 仕付け糸一本。


 いや。


 そこは意図して残したわけではない。


 普通にミスである。


「これは美談にしてはいけません」


 私が言った。


 娘が笑う。


「はい」


「取り忘れです」


「はい」


「次から確認項目へ入れます」


「若旦那さん」


「はい」


「今日は、もう仕事の顔しなくていいですよ」


 言われた。


 私は口を閉じた。


 そうか。


 もう。


 今日くらいは。


 客として。


 祝いの場にいていいのか。


「では」


 母親が盃を持ってきた。


「若旦那さんも」


「いただきます」


「仕事は終わった?」


 私は少し考えた。


 花嫁を見る。


 白無垢を着ている。


 歩いた。


 座った。


 笑っている。


 袖の仕付け糸も、取った。


「はい」


 初めて言った。


「終わりました」


 盃を受け取る。


 一口。


 酒が、うまかった。


 そこから先は。


 あまり白無垢を見なかった。


 料理を食べた。


 酒を飲んだ。


 伊織とも飲んだ。


「黒瀬屋さん」


 母親が伊織へ言う。


「ありがとうございました」


「俺は布と工程を少し見ただけです」


「でも、一緒に直してくださったんでしょう」


「共同取引です」


 言った。


 自分から。


 私は盃を置いた。


「伊織さん」


「何だ」


「今、共同って」


「共同取引だ」


「連携?」


「違う」


「かなり近い」


「酒を飲め」


 逃げた。


 珍しい。


 伊織が逃げた。


 私は笑った。


 夕方。


 祝いがひと区切りした頃。


 娘がこちらへ来た。


 まだ白無垢姿。


「若旦那さん」


「はい」


「ありがとうございました」


「こちらこそ」


「こちらこそ?」


「着ていただいたので」


 娘が笑う。


「小春さんにも」


「はい」


「千代さんにも、お松さんにも、おきぬさんにも」


「伝えます」


「弥七さんにも」


「たぶん、礼は着てからにしろって言います」


「もう着ました」


「では、今度は受け取ってくれるかもしれません」


「黒瀬屋さんにも」


「本人がそこにいます」


「聞こえている」


 伊織が少し離れたところから答えた。


 娘は最後に。


 自分の右袖を少し持ち上げた。


 内側の芽。


「これ」


「はい」


「朝より、少し好きになりました」


「どうして?」


「今日一日、着たから」


 なるほど。


 作った時より。


 選んだ時より。


 使ったあと。


 自分のものになる。


 雨の羽織と同じだ。


 水たまりを踏んで初めて。


 人形の布団も。


 人形を寝かせて初めて。


 白無垢も。


 祝言の日を過ごして初めて。


 完成する。


「次に誰かが着る時」


 娘が言った。


「この芽も、古くなってるんですね」


「たぶん」


「いいですね」


「はい」


 新しいものも。


 いつか古くなる。


 それでいい。


「それまで、大事にします」


「しまって守るだけではなく」


 母親が横から言った。


「着て、汚して、また直す」


「覚えてます」


 娘が答える。


 三代目。


 ちゃんと受け取った。


 夕方。


 私たちは青柳屋へ戻った。


 しるべは。


 いつもの箱で寝ていた。


「ただいま」


 にゃ。


「終わりました」


 にゃ。


「白無垢、無事でした」


 にゃ。


「仕付け糸が一本ありましたけど」


 猫は欠伸をした。


 興味なし。


 それでいい。


 店の中は静かだった。


 私は祝い直し帳を出した。


 最後の頁。


 今日の記録を書く。


 祝言当日。

 本人着用。

 丈、問題なし。

 衿、苦しさなし。

 鶴、銀糸ともに異常なし。

 新芽、異常なし。

 裾、水流刺繍、異常なし。

 袖内側、仕付け糸一本取り忘れ。

 現地にて除去。

 次回最終確認項目へ追加。

 花嫁、終日着用。

 笑顔で祝言を終える。


 そこで。


 筆が止まった。


 三十九日前。


 最初の頁。


 仕立て直し。


 途中。


 ずっと。


 仕事、未完。


 そう書いてきた。


 私は最後に。


 二文字を書いた。


 完了。


 藤兵衛が、横から見ていた。


「ようやくですな」


「はい」


「完成、ではなく?」


 私は少し考えた。


「完了、で」


「なぜ」


「完成は、たぶん次の人まで続くから」


 裏裾には余白がある。


 誰かが着れば。


 また糸が増えるかもしれない。


 丈が変わるかもしれない。


 新しい傷もつく。


 でも。


 青柳屋の今回の仕事は。


 ここで終わり。


「完了」


 藤兵衛がもう一度言った。


 そして帳面を閉じた。


 ぱたん。


 小さな音。


 三十九日分の音だった。


 何だか。


 胸が空いた。


 寂しい。


 でも。


 悪くない。


 しるべが箱から出てきた。


 祝い直し帳の横へ来る。


「しるべ」


 猫が帳面を見る。


「これは乗っても」


 一瞬。


 考えた。


 もう仕事は終わった。


「……今日はいいです」


 しるべが帳面の上へ乗った。


「え」


 いや。


 いいと言った。


 言ったけど。


 まさか本当に乗るとは。


 猫が丸くなる。


 三十九日の記録。


 祖母。


 母。


 娘。


 職人たち。


 全部入った帳面。


 その上に。


 猫。


「若旦那」


 小春が笑う。


「最後の印ですね」


「猫の印はいりません」


「でも、ずっといましたから」


 確かに。


 何度も白無垢を狙った。


 銀糸を狙った。


 端切れをくわえた。


 箱へ入ろうとした。


 品質管理項目を増やした。


 かなり参加している。


「藤兵衛さん」


「はい」


「記録には書かないでください」


「すでに最後の頁を閉じましたので」


「よかった」


「ただし」


「何です?」


「帳面表紙に、毛がつきます」


 見る。


 黒い毛。


 一本。


 白無垢ではない。


 帳面だから。


 まあ。


 いいか。


 私はしるべの背中を撫でた。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は。


 何かを終える時。


 完璧だったかどうかだけで、自分の仕事を測らないでいたい。


 仕付け糸を一本、忘れる日もある。


 途中で弱い糸が見つかる。


 丈が足りない。


 予定外に布を足す。


 それでも。


 直して。


 選び直して。


 人の身体に合わせて。


 最後に。


 その人が笑って帰れたなら。


 それは、ちゃんと終わった仕事だ。


 花を咲かせるというのは。


 たぶん。


 満開にすることではない。


 芽なら芽で。


 水なら水で。


 白なら違う白のままで。


 その人が次へ行けるところまで、一緒に仕立てることなのだ。


 私は祝い直し帳の上で眠るしるべを見た。


「しるべ」


 にゃ。


「今日は動かなくていいですよ」


 猫は目を閉じた。


 私も。


 今日は次の仕事を探さなかった。


 空いた帳場。


 空いた手。


 少しだけ残った祝い酒の匂い。


 そのままで。


 夕方の青柳屋に座った。


 逃げたのではない。


 三代分の白を花嫁へ返し、笑って帰るところまで見届けて。


 今日だけは。


 ちゃんと、店じまいをしたのである。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。