第49話 若旦那、完成した白無垢をまだ完成と呼ばない
祝言の前日。
青柳屋の奥座敷に、白無垢が広げられていた。
祖母の曲がった縫い目。
母の鶴。
鶴の片翼に入った、新しい銀糸二本。
右袖の内側には、娘の芽。
裾には、三代目の身体に合わせて足した新しい白。
古い白から新しい白へ、水が流れている。
衿には、娘の顔に合わせて選んだ今の白。
その内側には、白菊さんから贈られた、軽い香りの香袋。
そして。
裏裾の一角。
何もない。
そこだけ、意図して残した余白。
いつか誰かが、この白無垢をもう一度着ることがあれば。
その人が、自分の印を入れられる場所。
「……できましたね」
私が言った。
小春は答えなかった。
「小春さん?」
「まだです」
やっぱり。
この人の完成判定は、本当に厳しい。
「もう全部、縫いましたよね」
「はい」
「寸法も」
「確認しました」
「衿も」
「できています」
「芽も」
「あります」
「では」
「明日、着てもらって、歩いて、祝言が終わるまでです」
そこまで。
呉服屋の仕事、長い。
私は完成した白無垢を前にして、心の中でこっそりゴールテープを張っていた。
小春が撤去した。
まだ残り一周あるらしい。
「若旦那」
藤兵衛が祝い直し帳を開く。
「本日の最終確認を」
「はい」
もう何度目だろう。
だが、今日は文句を言わない。
糸。
刺繍。
衿。
裾。
袖。
裏地。
余白。
一つずつ確認する。
お松さんは裾。
おきぬさんは衿。
千代さんは内側。
小春は全体。
伊織は、なぜか寸法表と費用明細を両方見ている。
「伊織さん」
「何だ」
「今日はもう、値段は変わりませんよ」
「知っている」
「では、その帳面は」
「最終確認だ」
「好きですね、確認」
伊織が顔を上げた。
「お前にだけは言われたくない」
ぐう。
二日前まで、弥七の仕事場へ行きたくて川の方角を眺めていた男である。
反論できない。
「追加費用まで、全部入金済み」
伊織が言った。
「洗い張り代も」
「はい」
「職人の手間賃も」
「明日の祝言が終わり次第、残りをそれぞれへ」
「先延ばしするなよ」
「しません」
「祝いの酒で忘れるな」
「そこまで信用が」
「酒が入るだろ」
「……入ります」
「なら帳面を先に終わらせろ」
正しい。
非常に正しい。
前世の私なら、
明日やればいい。
月曜でいい。
祝いの後で。
と、未来の自分へ仕事を投げていた。
未来の自分は、だいたい受け取り拒否できない。
かわいそうである。
「今日できる精算は、今日やりましょう」
藤兵衛が頷いた。
「ようやく若旦那らしくなりましたな」
「ようやく?」
「三十九日かかりました」
白無垢と一緒に育成されていたらしい。
祝い直し帳。
兼、若旦那成長記録。
認めたくないが、かなり正確である。
昼過ぎ。
花嫁になる娘と母親が、最後の確認に来た。
明日は朝が早い。
今日のうちに、白無垢を家へ届ける。
その前に。
「一度だけ、見ておきたいです」
娘が言った。
「着なくても?」
「はい」
白無垢を広げる。
娘は、最初に持ち込んだ日のように、端から端まで見た。
でも。
見る場所が、違っていた。
まず左袖の内側。
「おばあちゃん」
曲がった縫い目。
次に胸元。
「お母さん」
鶴。
その片翼だけ、二本の銀が少し新しく光る。
そして右袖。
「私」
小さな芽。
裾。
古い白と、新しい白。
その境目を越えて、水が流れている。
「ここも、私ですね」
「背が高かった証です」
私が言うと、母親が笑った。
「証なんて立派なものじゃないわよ。丈が足りなかっただけ」
「お母さん」
「だって本当でしょう」
そう。
そのくらいでいい。
三代の物語。
などと言うと、急に格式が増す。
実際には。
祖母の縫い目は曲がっている。
母は祝言の日、白無垢が重くてそれどころではなかった。
娘は背が少し高かった。
鶴の銀糸が二本ほつれた。
そんな生活の凸凹が、一枚に残っている。
私は、その方が好きだった。
「最後に」
娘が言った。
「余白を見てもいいですか」
裏裾の一角を見せる。
何もない。
本当に何もない。
娘は、しばらくそこを見ていた。
「不思議ですね」
「何がですか」
「何もないのに、ここが一番未来っぽい」
私は答えずに頷いた。
何もないから。
まだ決まっていない。
次があるとも限らない。
誰も着ないかもしれない。
それでもいい。
未来とは、予約ではない。
空けておくことだ。
「若旦那さん」
「はい」
「一つ、お願いしてもいいですか」
「何でしょう」
「この余白のこと」
娘は白無垢を見た。
「次の人がいたら、ちゃんと伝わりますか」
確かに。
何十年も先。
青柳屋があるかもわからない。
祝い直し帳が残るかもわからない。
白無垢だけが桐箱の中にあれば。
誰かが、空いている場所だと思って、普通に刺繍を入れるかもしれない。
「紙を一枚、入れましょう」
母親が言った。
「紙?」
「箱の中に」
娘は少し考えた。
「手紙みたいに?」
「そんな大げさじゃなくていいんじゃない?」
母親は笑う。
「取扱説明書」
私は反応した。
「取扱説明書」
「若旦那さん、好きそう」
なぜわかった。
三代白無垢。
使用上の注意。
一、祖母の縫い目を無理にまっすぐにしないでください。
二、鶴の右翼二本は娘の代で交換済み。
三、右袖内側に新芽あり。
四、裏裾の一角は次の人のための余白です。
五、猫を近づけないでください。
最後。
最後は絶対に必要である。
「藤兵衛さん」
「はい」
「一枚、記録を作りましょう」
「祝い直し帳とは別に?」
「白無垢と一緒に箱へ入れるものです」
「承知いたしました」
紙。
墨。
筆。
書き始めようとすると、娘が言った。
「若旦那さん」
「はい」
「短くていいです」
見抜かれた。
私が書くと、十箇条くらいになると思われている。
「では」
藤兵衛が筆を取った。
私ではない。
信用。
そこまでか。
藤兵衛が書く。
—
三代目にて、祝い直し。
祖母の縫い目を残す。
母の鶴を残す。
娘は右袖に、新芽を一つ。
裾を新しい白で伸ばす。
裏裾の一角は、次に着る人のために空けてあります。
直す時は、今の着る人に合わせてください。
—
短い。
よい。
私なら、
残すとは過去へ戻ることではなく――
から始めていた。
危ない。
「これで十分ですね」
娘が言った。
「はい」
「猫のことは?」
お鈴が聞いた。
「入れません」
私は答えた。
「でも」
「入れません」
これは家族へ渡る記録である。
猫対策マニュアルではない。
しるべは青柳屋固有の災害だ。
未来の花嫁まで心配させる必要はない。
その時。
当のしるべが、白無垢の周りを歩いていた。
「しるべ」
全員の声が重なった。
猫が止まった。
すごい。
一か月以上に及ぶ白無垢直しの成果。
青柳屋全員の猫警戒能力が、かなり上がっている。
しるべは、何もしていないのに疑われたことが不満なのか、尻尾を一度大きく振った。
「ごめんなさい」
娘が笑った。
「でも、今日は駄目」
しるべが娘を見る。
「明日、これ着るから」
猫は。
少しだけ首を傾げた。
わかったのか。
わかっていないのか。
たぶん、わかっていない。
でも。
白無垢には近づかなかった。
「成長しましたね」
お鈴が言った。
「誰が?」
私が聞く。
「しるべ」
「若旦那も」
小春が加えた。
「同列ですか」
かなり不本意である。
夕方。
白無垢を畳む時間になった。
小春が手を伸ばした。
だが途中で止めた。
「お母様」
「はい?」
「一緒に畳みませんか」
母親は驚いた。
「私が?」
「以前も、畳んだことがあるでしょう」
母親は白無垢を見る。
「何十年も前よ」
「身体は覚えているかもしれません」
小春と母親。
二人で袖を合わせる。
母親の手が、少し迷う。
でも。
一度、袖を持つと。
「ああ」
小さく声が出た。
「こうだった」
手が動き始める。
袖。
身頃。
裾。
昔、自分が着た白無垢。
その後、母親と一緒に畳んだのかもしれない。
今度は、娘のために畳む。
「私も」
娘が言った。
「やってみたい」
「明日は着る側でしょう」
「だから覚えたい」
三人になった。
小春が教える。
母親が補う。
娘が覚える。
畳むだけ。
でも。
これも継承なのだと思った。
着物だけを渡しても。
扱い方を知らなければ、次へ行かない。
どう持つか。
どう畳むか。
どこを見れば弱っているかわかるか。
そんな小さな手つきも、一緒に渡す。
「若旦那も覚えます?」
お鈴が聞いた。
「もちろんです」
私は少し離れた場所から見た。
右。
左。
袖を。
「そこ、逆です」
小春に言われた。
まだ触ってもいない。
「頭の中で逆でした」
「難しいですね」
「はい」
若旦那、継承失敗。
見学続行。
白無垢は、桐箱へ戻った。
最初に青柳屋へ来た時とは違う。
でも、新品でもない。
三代分。
そして、ほんの少し未来分。
箱の中へ入る。
記録の紙を、上へ置く。
娘が蓋を閉める前に、白無垢を見た。
「明日、よろしくね」
誰に言ったのだろう。
祖母へ。
母へ。
白無垢へ。
自分へ。
全部かもしれない。
蓋が閉まる。
桐箱を、青柳屋から娘の家へ届けた。
帰り道。
空になった私の両手が、妙に軽かった。
「若旦那」
小春が言った。
「寂しいですか」
「少し」
「まだ終わっていませんよ」
「わかっています」
明日。
袖を通す。
歩く。
祝言を挙げる。
そこまで。
「でも」
私は言った。
「ずっと店にあったので」
白無垢がなくなった青柳屋は、少し広く感じた。
たった一枚なのに。
人がいなくなった部屋みたいだ。
前世でもあった。
長く抱えていた仕事。
大変だった仕事。
早く終われと思っていた仕事。
終わった瞬間。
急に静かになる。
あれ。
もうないんだ。
と、少しだけ寂しくなる。
「今日、完成と書きますか」
夜。
藤兵衛が祝い直し帳を前に聞いた。
私は考えた。
「まだ書きません」
「では、何と」
私は筆を持った。
仕立て、完了。
仕事、未完。
「明日まで?」
「はい」
着てもらう。
歩いてもらう。
それで初めて。
「明日、何も起きなければよいですね」
お鈴が言った。
全員が黙った。
言うな。
そういうことを言うな。
物語の中で、
何も起きなければいいですね。
は、だいたい何か起きる前振りである。
前世の脳内テレビが一斉に警報を鳴らした。
「お鈴さん」
「はい」
「明日は、何があっても慌てないようにしましょう」
「何かあるんですか?」
「ありません」
「では、なぜ」
「ありませんが、あります」
「どっちですか」
説明できない。
物語文法を異世界の女中へ説明するのは難しい。
伊織が呆れた顔をした。
「予備の糸と針は持っていく」
「ですよね」
「小さな当て布も」
「はい」
「替えの紐」
「はい」
「香袋の紐も確認した」
「完璧ですね」
「完璧とは言うな」
伊織が言った。
私は少し笑った。
そうだった。
完璧にしない。
ちょうどいいところで止める。
何かあれば直す。
この一か月、そればかりやってきた。
「では」
私は祝い直し帳を閉じた。
「明日は、直せる準備だけして行きましょう」
「それでよいかと」
小春が頷いた。
店を閉める。
夜の青柳屋。
久しぶりに、大きな白がない。
しるべが、自分の空き箱へ入る。
今日は、誰も止めなかった。
「しるべ」
にゃ。
「明日は留守番です」
猫がこちらを見る。
「祝言ですので」
にゃ。
「来ても白無垢には乗れません」
にゃ。
しるべは目を閉じた。
聞いていない。
でも。
今日は、それでいい。
私は灯りを一つ消した。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、何かを作り終えた時。
すぐ次の仕事で埋めないでいたい。
完成したものが、自分の手を離れていく夜を。
少しくらい寂しがってもいい。
空いた場所は。
また明日、何かが入る。
今夜くらい。
空いたままでいい。
逃げたのではない。
今日は三代分の白無垢を桐箱へ戻し、完成の文字だけを、明日の花嫁のために一晩残しておいたのである。




