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第48話 若旦那、顔のそばには今の白を置く

 翌朝。


 白無垢の残る大きな仕事は、衿だった。


 古い衿は外さない。


 祖母が着た。


 母が着た。


 二人の首元にあった白は、そのまま内側へ残す。


 その上に。


 三代目の娘のための、新しい白衿を重ねる。


「顔にいちばん近いところですから」


 小春が言った。


「今日は慎重にいきます」


「昨日までも慎重でしたよね」


「昨日よりです」


 さらりと言われた。


 では昨日の慎重とは何だったのか。


 慎重にも段位があるらしい。


 初段。


 二段。


 白無垢衿元八段。


 私は今日も針から距離を置く。


 最近の青柳屋では、


 若旦那が白無垢に直接触れない。


 というのも品質管理の一部になりつつある。


 悲しい。


 だが正しい。


 小春が、数枚の白布を並べた。


「昨日、裾へ足した白と同じものでは駄目なんですか」


 私が聞く。


「駄目ではありません」


「では」


「顔映りを見たいです」


 顔映り。


 また新しい世界が始まった。


「同じ白でも、顔の近くへ持ってくると違います」


「……白って」


 口を開きかけた。


 全員が私を見る。


 やめた。


 心のアンミカには、本日、有給を取得していただいている。


「何でもありません」


「賢明だ」


 伊織が言った。


 なぜお前まで安心している。


 昼前。


 娘が母親とやって来た。


 今日は、髪も祝言の日に近い形へまとめている。


「衿だけで、そんなに変わるんですか」


 娘が聞く。


「試してみましょう」


 小春が、一枚目の白布を首元へ当てた。


 少し青みの強い白。


 顔が、きりっと見える。


「きれいですね」


 お鈴が言う。


 二枚目。


 少し黄みのある白。


 今度は、顔が柔らかく見える。


 三枚目。


 裾に使った、新しい白。


「これが一番、元の白無垢には近いですね」


 母親が言った。


 確かに。


 白無垢全体で見れば、いちばん馴染む。


 でも。


 小春は首を傾げた。


「娘さんのお顔には、二枚目の方が合う気がします」


「白無垢と違って見えませんか」


「少し」


「なら、一枚目?」


 娘が鏡を見る。


 迷っている。


 こういう時。


 選択肢を出しすぎると、人は急にわからなくなる。


 前世の私は、家電量販店でそれを何度も経験した。


 こちらは省電力。


 こちらは高画質。


 こちらは音がよい。


 こちらは型落ちでお得。


 最初はテレビを買いに来たのに、最後には自分が何を見たいのかわからなくなる。


「一度」


 私は言った。


「白無垢全体ではなく、お顔だけ見てみませんか」


 娘がこちらを見る。


「顔だけ?」


「はい。これは祖母さまとお母さまの白無垢ですが」


 一拍。


「今日、着るのはあなたです」


 娘の表情が少し変わった。


 小春が二枚目をもう一度当てる。


 柔らかな白。


 元の白無垢とは、ほんの少し違う。


 でも。


 娘の肌にはよく馴染む。


「私も」


 娘が鏡を見ながら言った。


「これが好きです」


「では、これにしましょう」


 決まった。


 元の白にいちばん近い白ではない。


 今の花嫁に、いちばん近い白。


 それでいい。


 母親が娘の横顔を見ていた。


 しばらくして、ぽつりと言った。


「……私の時より、似合ってる」


 店の空気が止まった。


 娘が振り向く。


「お母さん」


「何?」


「それ、褒めてる?」


「褒めてるわよ」


「なんか、自分の時は似合ってなかったみたいに聞こえるけど」


「私は丸顔だったから」


「今もでしょ」


「あなたほどではないって意味」


「私も丸顔ってこと?」


 始まった。


 祝言前、母娘。


 衿元から突然、輪郭論争へ突入。


 小春が針を持ったまま止まっている。


 お鈴は笑いをこらえている。


 藤兵衛は帳面から顔を上げない。


 こういう時、番頭は強い。


 聞いていないことにする能力が高い。


「まあまあ」


 私が入ろうとした。


 二人が同時にこちらを見る。


「若旦那はどう思います?」


 娘。


「どちらが丸顔です?」


 母。


 なぜ。


 なぜ私が、母娘の顔型判定へ参加することになった。


 ここは地雷原である。


 右へ行っても爆発。


 左へ行っても爆発。


 脳内の私は、賭場で最後の一枚をめくるより緊張していた。


 こういう時に限って、


 どっちもおきれいですよ。


 などという雑な逃げ方をすると、


 質問に答えていない。


 になる。


 前世で学んだ。


「……白衿の話へ戻りませんか」


 私は言った。


 伊織が鼻で笑った。


「逃げたな」


「戦略的撤退です」


「それを逃げたと言う」


「若旦那」


 母親が笑った。


「困らせてごめんなさい」


「助かりました」


 娘も笑っている。


 よかった。


 母娘の小さな言い合いは、それほど深いものではなかったらしい。


 むしろ。


 こうやって笑える親子だからこそ、三代の白無垢を直して着ようと思えるのかもしれない。


「でもね」


 母親が娘の衿へ触れた。


「本当に、あなたの方が似合うと思う」


「白が違うから?」


「それもあるけど」


 母親は少し考えた。


「あなたのために直したからじゃないかしら」


 娘が黙る。


「私の時は、母から渡されたものを、そのまま着たの」


「うん」


「もちろん嬉しかった。でも、あなたは自分で残すものも決めて、変えるものも決めたでしょう」


 祖母の縫い目。


 母の鶴。


 新しい銀。


 娘の芽。


 裾へ足した白。


 次代へ残す余白。


 そして、今日の衿。


「だから」


 母親が言った。


「もう、あなたの白無垢に見えるのよ」


 娘の目が少し潤んだ。


 私は視線を、白無垢へ戻した。


 見ない方がいい涙もある。


 最近、それも少し覚えた。


「では」


 小春が静かに言った。


「この白で、衿を重ねます」


「お願いします」


 古い衿をほどかない。


 内側へ残す。


 その上から、新しい白布を合わせる。


 千代さんが内側の位置を確認する。


「古い衿へ、針を入れすぎない方がいいですね」


「はい」


 小春が答える。


「新しい衿だけで形を作って、必要なところだけ留めます」


「また、遊びを残す?」


 私は聞いた。


「少し」


 雨の羽織でもそうだった。


 全部をぴったり留めない。


 古い布と新しい布が、それぞれ少し動ける余地を残す。


「近いからって、全部くっつけなくていいんですね」


 口から出た。


 伊織を見る。


 すでにこちらを見ている。


「今度は人間関係の話か」


「まだ布です」


「半分は違うだろ」


「四割くらいです」


「増やすな」


 小春が笑いながら針を進める。


 午後。


 新しい衿が形になった。


 娘がもう一度、白無垢を着る。


 首元に、今日選んだ白。


 裾には、昨日足した別の新しい白。


 同じ三代目でも、二つの白がある。


 それでいい。


 顔に近い白。


 地面に近い白。


 役目が違えば、白も違う。


「どうですか」


 小春が聞く。


 娘が鏡を見る。


 少し、首を左右へ動かす。


「好きです」


 短い。


 でも、十分だった。


「苦しくありませんか」


「大丈夫です」


 母親がすぐに言う。


「その“大丈夫”は信用しすぎない方がいいわよ」


「また?」


「衿が苦しくなったら、ちゃんと言いなさい」


「はいはい」


「返事が軽い」


「お母さん」


 また始まりそうである。


 でも今度は、皆笑った。


 祝言の準備とは、もっと静かで感動的なものだと思っていた。


 実際は。


 丈。


 衿。


 履物。


 暑さ。


 水分。


 丸顔。


 かなり生活に近い。


 でも、その方が私は好きだった。


 大切な日は、日常から突然浮かび上がるわけではない。


 日常の延長にある。


 だから、ちゃんと食べる。


 ちゃんと座る。


 苦しければ言う。


 それでいい。


 その時。


 店の外から声がした。


「白菊姉さんから、お届け物です」


 若葉だった。


 手には小さな包み。


「白菊さんから?」


「はい。花嫁さんに」


 開けると。


 小さな香袋が入っていた。


 真っ白ではない。


 淡い生成り。


 香りも、かなり軽い。


「強い香りではありません」


 若葉が言った。


「白菊姉さんが、祝言の日はただでさえいろんな匂いがするからって」


「いろんな匂い?」


「料理。香。人。花。白粉」


 確かに。


「だから、自分の香りまで頑張らなくていいって」


 娘が香袋を受け取った。


 香りを確かめる。


「落ち着く」


「衿の内側へ入れることもできます」


 小春が言った。


「見えない場所へ?」


「はい」


 娘が少し笑った。


「じゃあ、そこに」


 また。


 見えない場所が増えた。


 左袖には祖母。


 右袖には芽。


 胸には母の鶴。


 衿の内側には、白菊さんからの軽い香り。


 人の思いを全部見えるところへ縫い付けたら、うるさくなる。


 見えないところに置くものがあるから、表が静かに見える。


「いいですね」


 私が言うと、若葉が笑った。


「白菊姉さんが、青柳屋さんならそう言うと思ったって」


 見透かされている。


 花街まで青柳屋の癖が伝わっている。


「それと」


 若葉は、娘へ小さく頭を下げた。


「おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「白無垢、素敵です」


「古く見えませんか」


 娘が聞く。


 若葉は少し考えた。


「古いところもあります」


 正直だ。


 だが、そのあと。


「でも、新しい人が着てますから」


 娘が笑った。


 それでよいのだと思った。


 古い白無垢を。


 新しい人が着る。


 全部新しくする必要はない。


 古さを隠す必要もない。


 着る人まで、古い形へ寄せなくていい。


 夜。


 祝い直し帳を開く。


 新衿選定。

 元の白無垢へ最も近い白ではなく、本人の顔映りを優先。

 古い衿は外さず内側へ残す。

 新衿を上から重ねる。

 必要箇所のみ留め、動きの余白を残す。

 着用確認、苦しさなし。

 白菊殿より、軽い香りの香袋。

 衿内側へ入れる予定。


 最後に一行。


 顔のそばには、今の自分の白を置く。


 過去を大事にする。


 受け継ぐ。


 残す。


 それは大切だ。


 でも。


 人にいちばん見える場所まで、全部昔のままにしなくてもいい。


 顔は、今の自分だ。


 今日笑う。


 今日困る。


 今日選ぶ。


 なら、そのすぐそばには、今の自分に合う白があっていい。


 前世の私は。


 過去の評価を、顔の近くへ置きすぎていた気がする。


 あの時できなかった。


 あの人に言われた。


 昔はこうだった。


 私はこういう人だから。


 ずっと。


 首元に巻いていた。


 苦しいのに。


 自分の衿だと思って。


 でも。


 古い衿は捨てなくていい。


 内側へ残して。


 上に、新しい白を一枚重ねればいい。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は、過去を捨てずに、顔の近くくらいは今日の自分に似合うものを選びたい。


 そう思ったところで。


 店先から、妙に静かな声がした。


「若旦那」


 お鈴。


 また嫌な予感。


「どうしました」


「しるべが」


「はい」


「白菊さんの香袋を」


「食べました?」


「食べてません」


 よかった。


「抱いて寝ています」


 何。


 見る。


 しるべが自分の空き箱の中で丸くなっている。


 前足の間に、生成りの香袋。


「しるべ」


 猫が目を開ける。


「それ、花嫁さんのです」


 にゃ。


「あなたのではありません」


 にゃ。


 若葉が笑った。


「香り、気に入ったのかな」


「猫に香袋は必要ありません」


「でも、しるべも強い香りは苦手そう」


「そういう問題では」


 娘まで笑っている。


「しるべにあげてもいいですよ」


「駄目です」


 私は即答した。


「白菊さんから、あなたへの贈り物です」


「でも」


「贈り物は、受け取った人が使ってください」


 自分で言って、少しだけ気に入った。


 善意を横流ししない。


 猫にも。


 私はしるべの前足から香袋を回収した。


 しるべが不満そうに鳴く。


「代わりに、しるべ布があります」


 にゃ。


「箱もあります」


 にゃ。


「十分でしょう」


 にゃ。


 全然納得していない。


 そこへ伊織が言った。


「猫用に別の香袋を作ればいい」


「また商品化しようとしてます?」


「端切れと、猫が嫌がらない香りなら試せる」


「伊織さん」


「何だ」


「青柳屋を呉服屋に戻す話、覚えていますか」


 伊織が黙った。


 少し考えた。


「……布製品ではある」


「そういう問題ではありません」


 若葉と娘が笑い出した。


 白無垢の衿を仕立てた一日が、最後は猫用香袋の商品会議になりかけている。


 私は祝い直し帳を閉じた。


 逃げたのではない。


 今日は花嫁の顔元へ新しい白を置き、最後は猫の首元へ新商品が置かれる未来だけを何とか食い止めたのである。




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