第47話 若旦那、境目に水を流す
新しい白布を裾へ足した翌朝。
白無垢は、青柳屋の奥で大きく広げられていた。
上は、三代を渡ってきた白。
下は、昨日裁ったばかりの新しい白。
境目は、はっきり見える。
古い白は、やわらかい。
新しい白は、まだ少し眩しい。
並べると、違いはごまかせない。
「若旦那」
小春が言った。
「今日は、ここへ水をつなぎます」
指先が、古い裾の柄をなぞる。
松の根元から流れてきた細い水。
途中で、新しい布との境目にぶつかっている。
まるで、
ここから先は別の時代です。
と、線を引かれているようだった。
「境目は残すんですよね」
千代さんが聞く。
「はい」
娘本人の希望だ。
三代目で丈を伸ばしたことが、わかるようにしたい。
だから縫い目は消さない。
でも。
「水は、越える」
小春が言った。
「そうしたいです」
古い白から、新しい白へ。
柄だけは、そのまま先へ行く。
私は腕を組んで眺めた。
「何か、いいですね」
伊織が横から言った。
「何がだ」
「境界線はある。でも、水は気にせず流れる」
「布の話をしろ」
「布の話です」
「今、半分くらい人生の話だっただろう」
鋭い。
最近の伊織は、私の脳内傾向を読み始めている。
このままでは、比喩が発生する前に止められる。
困る。
いや、別に困らない。
仕事は進む。
「柄はどうしますか」
お鈴が聞いた。
小春が図案を広げる。
水の流れ。
新しい裾へ入るところで、少しだけ幅が広がる。
そこへ、小さな水の輪。
「以前の雨の羽織みたいですね」
「似ています。でも、今回は雨ではありません」
「川?」
「祝いの日へ流れる水です」
また小春が、さらっといいことを言う。
名言採取係が立ち上がった。
今日は座れ。
針仕事が始まる。
古い白の上では、糸を強く引けない。
新しい白では、逆に緩すぎると柄が浮く。
同じ一本の水なのに、布ごとに針の力を変える。
「面倒ですね」
私が言うと、小春は笑った。
「違う布をつなぐんですから」
「水は一本なのに」
「だから、難しいんです」
なるほど。
一本に見えるものほど、途中で調整がいる。
私は糸を渡す係に回った。
「銀白を」
「はい」
今回は間違えない。
少し光る白。
水の輪郭に使う。
「次、白銀」
「はい」
こっちは少し柔らかい。
わかる。
わかってきた。
私は成長している。
「若旦那、それは月白です」
千代さんが言った。
違った。
色の世界、まだ深い。
心のアンミカが襖の向こうで肩を震わせている気配がする。
今日は出るな。
白はもう十分やった。
私は黙って正しい糸を渡した。
昼前。
水は、境目へ到達した。
小春が針を止める。
「ここから、新しい布です」
全員が少し身を乗り出した。
大げさだ。
たかが数寸の布。
でも、その数寸へ入る瞬間だけは、妙に緊張する。
祖母の時代。
母の時代。
そこから、娘の時代へ。
針が入る。
すっ。
糸が抜ける。
もう一針。
水が、境目を越えた。
「越えましたね」
お鈴が言った。
「越えました」
私は答えた。
「国境でも越えたみたいに言うな」
伊織が呆れる。
「三代ですから」
「数寸だ」
「距離の話ではありません」
「だから人生の話をするな」
小春が吹き出した。
針が進む。
古い白の水と、新しい白の水。
少し光り方が違う。
でも、一本につながっている。
境目は見える。
隠していない。
それでも、柄は止まっていない。
「若旦那」
藤兵衛が帳面を見ながら言った。
「追加の刺繍時間、予定より半刻ほど長くなっております」
現実が来た。
水が三代を越えている横で、工数が増えている。
これも大事。
「追加請求ですか」
「いいえ。見積もり時の幅内でございます」
「よかった」
「ただし、これ以上柄を増やさぬよう」
釘を刺された。
私は黙る。
実は、少しだけ水鳥を入れたらどうかと思っていた。
危ない。
思いつきで工数を増やす若旦那、封印。
その時。
娘と母親が、途中の様子を見にやって来た。
「もう、つながってる」
娘が白無垢の前へ座る。
水の柄を見る。
境目を指でなぞる。
「縫い目、ちゃんと見える」
「はい」
「でも、水は続いてる」
「はい」
娘は少し笑った。
「これがいいです」
その一言で十分だった。
「では、次はこちらを」
小春が、小さな布包みを開いた。
緑の糸。
娘の印。
新芽。
「今日、入れますか?」
娘の顔が明るくなる。
「はい。右袖の内側へ」
白無垢を少し持ち上げる。
左袖の内側には、祖母の曲がった縫い目。
右袖は、まだ何もない。
そこへ、小春が位置を確認する。
「袖を通した時、このあたりなら自分で見えます」
「お願いします」
緑の糸が白へ入る。
一針。
二針。
最初に、茎。
次に、小さな葉。
二枚。
まだ花ではない。
実でもない。
芽。
「小さいですね」
母親が言った。
「はい」
娘が答える。
「これくらいでいいの」
「もっと大きくしても」
「まだ、これからだから」
いい。
完成していない印。
祝言の日に完成していなくていい。
むしろ、その方が合っている。
結婚して。
それで人生が完成。
そんなわけがない。
始まる。
たぶん、いろいろ。
嬉しいことも。
面倒なことも。
喧嘩も。
洗濯も。
飯も。
家計も。
親戚も。
そして前世の私の脳内に、突然ワイドショーの人生相談コーナーが開きかけた。
閉じろ。
祝言前の娘へ、未来の生活苦を先回りして並べるな。
芽は芽でよい。
「できました」
小春が針を置いた。
右袖の内側。
小さな緑。
娘が袖へ手を入れる。
自分で覗く。
「あ」
笑った。
その笑顔が、今日いちばんよかった。
「見えます?」
「私には」
それでいい。
外から見えなくても。
自分には見える。
前回の花街の人形、小夜の枕裏に入れた名もない花を思い出した。
見えない場所に、自分だけが知っているもの。
青柳屋、最近そういう仕事が増えている。
表でドーン。
豪華。
金。
大柄。
ではなく。
袖の内側。
枕の裏。
箱の蓋の内側。
地味である。
かなり地味。
だが、私は好きだった。
全部を人に見せなくていい。
自分だけが知っている一針がある。
それは、案外強い。
母親が、娘の左袖も覗いた。
「母の縫い目と、あなたの芽ね」
「うん」
「左右でずいぶん違うわね」
左は曲がっている。
赤い古い糸。
右は小さな新芽。
緑の新しい糸。
「でも」
娘が両腕を広げた。
「どっちも私が着るんだね」
その通りだ。
過去を着る。
未来も着る。
そして真ん中に、今の自分が入る。
……待て。
また人生の話になっている。
伊織を見る。
何も言わない。
「今日は止めないんですか」
「何を」
「人生の話を」
「口に出してないなら好きにしろ」
読まれていた。
怖い。
夕方。
水の柄も、ほぼ仕上がった。
古い裾から新しい裾へ流れ、最後は小さな水の輪になって消える。
境目はある。
だが、境目だけを見なければ、一つの景色だ。
「次は、衿ですね」
小春が言った。
古い衿は残す。
その上へ、娘の新しい白衿を重ねる。
いよいよ、顔にいちばん近いところへ、三代目の白が入る。
「明日にしましょう」
私が言った。
小春が少し驚いた。
「若旦那が?」
「何ですか、その反応」
「もう少しやりましょう、と言うかと」
「言いたいです」
「やはり」
「でも、今日はここまで」
自分でも少し驚いた。
きれいになる途中で止める。
待つ。
余白を残す。
ここ数日、白無垢から同じことばかり習っている。
できるから、やる。
ではない。
今日は今日の分。
「明日、衿」
藤兵衛が帳面へ書いた。
「はい」
「若旦那、自ら終了を宣言」
「それも書くんですか」
「成長記録として」
「祝い直し帳ですよね」
「関連事項でございます」
やめてほしい。
白無垢より、若旦那の育成日誌になってきている。
夜。
祝い直し帳を開く。
裾の新布。
旧布との境目を残す。
旧柄の水流を、新布へつなぐ。
水の輪、一つ。
娘本人、確認。
右袖内側へ、新芽の刺繍。
本人のみ見える位置。
左袖、祖母の縫い目。
右袖、娘の芽。
次代用余白、手をつけず。
そして一行。
境目を消さなくても、続きは作れる。
私は、そこを少し眺めた。
前世では、人生の区切りをきれいにしたがった。
あの仕事は終わり。
あの人とは終わり。
失敗は忘れる。
過去は切る。
新しく始める。
でも、そんなにきれいに切れないことも多い。
古い白と、新しい白。
違いは残る。
縫い目も見える。
それでも、その上へ水を流せば、続きになる。
過去と今を、同じ色にする必要はない。
つながっていればいい。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、境目がある自分を恥ずかしがらないでいたい。
前の自分。
今の自分。
違っていていい。
間に縫い目があってもいい。
そこを越える水が一本あれば、たぶん続きを歩ける。
そう思ったところで。
かさ。
小さな音。
振り向く。
しるべが、白無垢から出た細長い端切れをくわえている。
「しるべ」
止まる。
「それは、新しい白の端切れです」
しるべがこちらを見る。
「返してください」
動かない。
「猫の白を足す予定はありません」
にゃ。
「白黒だからって参加しないでください」
しるべが後ずさる。
「待って」
逃げる。
「待ってください!」
店先へ。
私も追う。
小春が笑う。
「若旦那、今日は自分から止められたのに」
「今は止まれません!」
白い端切れをくわえた白黒猫が、青柳屋の店先を走る。
そこへ若葉が通りかかった。
「あ、しるべ。花嫁さんみたい」
「違います!」
端切れが、ちょうどしるべの頭から垂れている。
確かに。
白い綿帽子みたいに見える。
若葉が笑い出す。
「しるべ、お嫁入り?」
「しません!」
私はしるべを捕まえた。
端切れを回収。
無事。
猫は不満そうである。
その向こうで、伊織が腕を組んでいた。
「若旦那」
「はい」
「猫の祝言まで始めるなよ」
「始めません」
「青柳屋ならやりかねん」
「そこまで信用がないですか」
「実績がある」
ない。
猫の祝言実績は、まだない。
まだ、と考えた自分が嫌だ。
私は白い端切れを畳み直した。
逃げたのではない。
今日は三代の白の境目へ水を流し、最後は猫の嫁入りだけは未然に防いだのである。
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