第46話 若旦那、受け継いだ丈を伸ばす
母の鶴に、新しい銀糸が二本入った翌日。
白無垢は、ようやく仮仕立ての形まで戻ってきた。
祖母の曲がった縫い目。
母の鶴。
新しい銀糸。
まだ入れていない娘の芽。
そして、次の代へ残す余白。
一枚の中に、ずいぶん人が増えた。
「今日は、ご本人に着ていただきます」
小春が言った。
いよいよである。
布を台の上で眺める段階から、人の身体へ戻す。
前にも思った。
布は、着られて初めて仕事になる。
白無垢なら、なおさらだ。
昼前。
娘と母親が青柳屋へやって来た。
娘は少し緊張している。
「まだ完成ではないんですよね」
「はい。今日は丈と袖、それから動きやすさを見ます」
「動きやすさ」
「お母様によると、祝言の日は重くて暑くて転びそうだったそうなので」
「そこまで言わなくても」
母親が笑った。
「でも本当よ」
美しい思い出の裏側から、生活情報がどんどん出てくる。
花嫁衣装。
重い。
暑い。
腹が減る。
足元が怖い。
人間は、どんな晴れの日でも肉体からは逃げられない。
着付けをして。
帯を整え。
袖を通す。
娘が、白無垢姿で立った。
店の空気が少し変わった。
「……きれい」
お鈴が、小さく言った。
母親は何も言わなかった。
ただ、娘を見ていた。
たぶん、自分が着た日のことを思い出している。
胸元には母の鶴。
左袖の内側には祖母の縫い目。
まだ右袖の芽はない。
それでも、もう三代目の白無垢に見えた。
「少し歩いてください」
小春が言う。
娘が一歩。
二歩。
三歩。
そこで、小春がしゃがんだ。
「……若旦那」
「はい」
「丈が、少し足りません」
何。
見る。
確かに。
短い。
大きく足首が見えるほどではない。
だが、白無垢として見ると、裾の落ち方が少し浅い。
「お母様が着た時は?」
「ちょうどでした」
「お祖母様も?」
「母は、私より少し小柄でした」
全員が娘を見る。
娘も、自分を見る。
「私……背が高い?」
母親が頷いた。
「私よりはね」
なるほど。
三代目だけ、少し背が高い。
考えてみれば当たり前の話である。
受け継いだからといって、身体まで同じ寸法になるわけではない。
血はつながっている。
だが、身長に家訓は効かない。
「どのくらい足りませんか」
「このくらいです」
小春が指で示した。
数寸。
わずか。
だが、伸ばせと言われても布は伸びない。
前世なら、通販で服を買って届いた時の絶望である。
写真では膝下。
私が着ると膝。
モデル身長百六十八センチ。
参考にならん。
こちら百何センチ問題である。
いや、今は自分の前世サイズについて考える場面ではない。
「縫い代は残っていますか」
私が聞いた。
小春が裾を確認する。
「少し。でも、全部出しても足りません」
「では、新しい布を足す?」
千代さんが言った。
店の空気が少し止まった。
足す。
白無垢の裾に、新しい布。
祖母から母へ渡った姿を変えることになる。
娘の顔にも、迷いが見えた。
「別の白無垢にした方がいいですか」
その言葉に。
私は少しだけ胸が痛んだ。
ここまで直した。
でも、着る人の身体に合わないなら意味がない。
思い出を守るために、本人へ我慢させたら逆だ。
「それも選択肢です」
私は答えた。
「無理にこれを着なければいけないわけではありません」
母親が娘を見る。
何も言わない。
いい母親だ。
また、「せっかくここまでやったのに」とは言わない。
娘が決めるのを待つ。
「でも」
娘は、裾を見た。
「これを着たいです」
「では、伸ばしましょう」
私は言った。
「伸ばせるの?」
「布そのものは無理です」
「ですよね」
「でも、足すことはできます」
小春が新しい白布を何枚か持ってきた。
白。
白。
白。
そして全部違う。
もう私は驚かない。
心のアンミカも今日は襖を開けない。
学習した。
白は一色ではない。
我々はすでに履修済みである。
「一番近い白は、こちらです」
小春が古い白無垢の裾へ、新しい布を重ねる。
違う。
わずかだが、わかる。
古い白はやわらかい。
新しい白は、少し光が強い。
「同じに見せることはできますか」
娘が聞く。
「少しくすませれば」
小春が言いかけて、止まった。
全員が弥七の言葉を思い出したのだと思う。
新しいものを、古いふりさせる必要はない。
「同じにしなくてもいいのでは」
千代さんが言った。
「でも、裾だけ新しく見えます」
「はい」
「変じゃない?」
千代さんは白無垢を見た。
「私は、変ではないと思います」
以前なら、もっと自信なさそうに言っただろう。
今は違う。
「この白無垢は、もう新しい銀糸も入っています」
「はい」
「右袖には、娘さんの芽も入ります」
「はい」
「なら、裾にも娘さんの白があってよいのでは」
娘の白。
その言葉に、全員が少し黙った。
祖母の白。
母の白。
娘の白。
前回、言葉として出たものが、本当に布になる。
「ただ足すだけでは、取ってつけたように見えます」
小春が言った。
職人の目。
「なら、柄をつなげる?」
私は裾を見る。
松。
水の流れ。
もともとある水の柄。
そして、今回増やす予定の水の輪。
「水を、新しい白まで流せませんか」
小春が反応した。
「できます」
古い白無垢の裾から、新しい白布へ。
銀と白の糸で、細い水をつなぐ。
境目を隠すためではない。
境目を渡るために。
「縫い目は見えますか」
「近くで見れば」
「なら、残してください」
娘が言った。
「境目を?」
「はい」
即答だった。
「祖母から母へ渡ったところは、見えないでしょう」
「はい」
「でも、私の代で丈を伸ばしたなら、そこはわかる方がいいです」
また一つ。
予定していなかった印。
三代目が背が高かった。
だから布を足した。
そんなことでいい。
むしろ、そんなことがいい。
受け継ぐというのは、博物館へ入れることではない。
今の人が着るのだ。
身体が違えば、丈も変える。
「では、新しい白を足します」
小春が言った。
「何寸?」
伊織が聞く。
またいた。
この男は重要局面になると自然に店の隅へいる。
「最終的には、履物を合わせて決めます」
「先に履物を決めろ」
「はい」
「裾を足してから、また短いでは話にならん」
正しい。
非常に正しい。
華やかな話をしている横から、寸法が入ってくる。
これが仕事である。
「祝言の日の履物は?」
母親が答える。
「家にあります」
「持ってきてください」
伊織が言う。
「今日?」
「今日だ」
「伊織さん」
私が言った。
「そこまで急がなくても」
「丈を決める日に履物がない方がおかしい」
ぐう。
また正論。
「使いを出します」
母親が笑っていた。
「黒瀬屋さんは、頼もしいですね」
「ありがとうございます」
伊織が普通に受け取った。
そこは否定しないのか。
連携と言うと怒るくせに。
ほどなく履物が届いた。
娘が履く。
もう一度立つ。
小春が測る。
千代さんが布を当てる。
お松さんが裾の強度を見る。
おきぬさんが歩いた時の足さばきを確認する。
一枚の白無垢の裾へ、また人が集まる。
「この丈です」
小春が印をつけた。
「少し長めでは」
母親が言う。
「祝言の日は、ゆっくり歩くので」
おきぬさんが答えた。
「普段の着物とは落ち方が違います」
なるほど。
私は横で頷く。
完全に見学者である。
でも、今日はそれでいい。
下手に針へ触らない。
白糸を全部同じと言わない。
猫を近づけない。
若旦那にも重要な役目はある。
「若旦那」
藤兵衛が言った。
「費用が追加になります」
来た。
そうだった。
新しい白布。
裾の仕立て。
水の刺繍。
予定外の手間。
祝いだから無料。
こちらの見落としだから無料。
そう考えたくなる。
だが。
今回、白無垢の丈が足りないことは、誰かの失敗ではない。
娘の身体へ合わせる追加の仕立てだ。
「見積もりを出しましょう」
私は言った。
娘に説明する。
「当初の金額から、追加になります」
「はい」
「新しい裾布と、仕立て、それから水をつなぐ刺繍です」
「お願いします」
娘は迷わなかった。
「ただ」
私は続けた。
「もともと予定していた裾の水の輪の刺繍と重なる部分は、手間を二重には取りません」
追加は追加。
でも、同じ作業へ二度値をつけない。
伊織が小さく頷いた。
「それでいい」
珍しく、素直に合格が出た。
「褒めました?」
「計算が合っていると言っただけだ」
「それを一般には」
「言うな」
久しぶりのやり取りだった。
少し安心する。
午後。
新しい白布を裁つ。
これは、少し緊張した。
古い布ではない。
真新しい布。
ここから三代目の時間が始まる。
小春が鋏を入れる。
しゃく。
静かな音。
娘が、その音を聞いていた。
「私の白」
小さく言った。
「はい」
母親が答えた。
「あなたの白ね」
誰も泣かなかった。
それがよかった。
泣くほどではない。
身長が少し高かった。
丈が足りなかった。
布を足した。
人生の大事なことは、案外そのくらいの生活臭をまとっている。
夕方。
仮縫いまで進んだ。
古い白と、新しい白。
境目は見える。
だが、水の刺繍がまだない今でも、不思議と悪くない。
古い白が、新しい白の上へ乗っている。
まるで。
昔の時間が、今の足元まで届いたようだった。
「娘さん」
小春が言う。
「もう一度、歩いてみてください」
娘が歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
今度は、裾がきれいに落ちる。
「どうですか」
「歩きやすい」
「重くは?」
「少し。でも、大丈夫です」
母親が後ろから言った。
「祝言の日は、その“大丈夫”を信用しすぎない方がいいわよ」
出た。
経験者。
「途中で座れる時は、座りなさい」
「はい」
「食べられる時に食べなさい」
「はい」
「水も飲みなさい」
「お母さん」
「本当に大事なのよ」
白無垢の継承より、急に健康管理が強くなった。
でも、それがいい。
母から娘へ渡すものは、着物だけではない。
祝言の日は暑い。
腹は減る。
無理するな。
そういう情報も、立派な継承である。
前世の私は思う。
こういうのを全部まとめて、取扱説明書と言うのだろう。
三代白無垢。
使用上の注意。
長時間立ちっぱなしにしないでください。
適宜、水分を補給してください。
保管時は湿気を避けてください。
猫を近づけないでください。
最後だけ青柳屋専用である。
夜。
祝い直し帳へ書く。
仮仕立て、一回目。
本人着用。
祖母、母より本人の身長高し。
裾丈、数寸不足。
縫い代のみでは対応不可。
新しい白布を裾へ追加。
古い白へ似せず、新しい白のまま使用。
境目を残す。
水の柄を、旧布から新布へつなぐ予定。
追加費用、依頼主了承。
既存予定作業と重なる分は二重請求せず。
履物着用のうえ、最終丈決定。
最後に一行。
受け継いだものが、そのまま今の自分に合うとは限らない。
丈が足りないなら。
足せばいい。
受け継いだ形へ、自分の身体を無理に縮めなくていい。
家族のやり方。
昔からの決まり。
前の人がうまくいった方法。
それらが自分に合わない時。
自分がおかしいわけではない。
寸法が違うだけかもしれない。
前世の私は、よく自分を合わせようとした。
皆ができるから。
普通はこうだから。
前任者はできたから。
少しくらい我慢すれば。
でも、服の丈が足りない時。
足を短くする人はいない。
布を直す。
当たり前だ。
なのに人生になると、自分の方を縮めようとする。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、受け継いだ型へ自分を押し込むのではなく、自分の丈に合わせて仕立て直していいと思っていたい。
祖母より少し高い。
母より少し高い。
だから、新しい白が数寸増える。
それだけでいい。
その数寸も、いつかこの白無垢の昔話になる。
そう思ったところで。
店先から、小さな声がした。
「若旦那」
お鈴だった。
妙に静かである。
嫌な予感。
「どうしました」
「しるべが」
来た。
「何をしました」
「何もしていません」
珍しい。
「ただ」
お鈴が指差す。
新しい白布の切れ端が、棚の上に置いてある。
その真下に。
しるべが座っていた。
じっと、上を見ている。
狙っている。
まだ何もしていない。
だが、完全に犯行予告である。
「しるべ」
猫は布を見る。
「今日は、その白へ触らないでください」
布を見る。
「新しい白です」
私を見る。
「白って二百色あっても、猫の毛色は足さなくていいです」
小春が吹き出した。
「心のアンミカ、まだいたんですね」
「帰ったと思っていました」
襖の向こうで待機していたらしい。
しるべが腰を落とす。
跳ぶ。
「駄目!」
その瞬間。
伊織が横からしるべを抱き上げた。
「お前は猫を見ていろ」
「ありがとうございます」
「白無垢は職人が見る」
「はい」
また仕事を割り振られた。
若旦那。
猫担当。
しるべは伊織の腕の中で、不満そうに鳴いていた。
「伊織さん、猫を抱くの上手くなりましたね」
「取引品を守っているだけだ」
「猫との連携も」
「言うな」
私は笑った。
逃げたのではない。
今日は受け継いだ白無垢の丈を伸ばし、最後は猫の跳躍だけを伸ばさずに済んだのである。
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