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第45話 若旦那、鶴の羽を一本だけ新しくする

 三日後。


 私は朝餉を、ちゃんと食べた。


 ちゃんと座った。


 ちゃんと噛んだ。


 川の方を見たのは、二回だけである。


 かなり成長した。


「若旦那」


 藤兵衛が言った。


「祝い直し帳を、三度確認しておられます」


「二度です」


「三度です」


「……三度でした」


 成長には個人差がある。


 弥七から、本洗いが終わったという使いが来たのは、朝四つを少し過ぎた頃だった。


 私はすぐに立ち上がった。


「では」


「走りませんように」


 藤兵衛。


 先回りが早い。


「歩きます」


「普通の歩幅で」


「はい」


 小春と伊織も一緒に向かう。


 今回は誰も道順表について触れなかった。


 信用が戻った。


 そう思っていたら、小春の懐から紙の端が見えた。


「それ、道順表ですか」


「念のためです」


 まだだった。


 弥七の仕事場へ着くと、白無垢は長い板の上に広げられていた。


 最初に見た時より、明るい。


 でも、真新しい白ではない。


 袖の白。


 身頃の白。


 衿の白。


 それぞれの違いは、ちゃんと残っている。


 三代分の時間を薄くまとったまま、少しだけ呼吸が楽になったような白だった。


「きれいだ」


 思わず言った。


 弥七がこちらを見る。


「白い、じゃないのか」


「……きれいです」


「ならいい」


 少しだけ、認められた気がした。


 裾の泥は落ちている。


 完全に跡が消えたわけではない。


 光の角度によって、ほんの少し影が見える。


 でも、汚れという感じではない。


 時間の擦れ跡に近い。


「祖母の縫い目は?」


 小春が聞く。


 弥七が左袖の内側を返す。


 曲がった縫い目。


 残っている。


「無事です」


 私が息を吐いた。


「一本だけ、弱った糸を裏から留めた」


「新しい糸で?」


「見えないところだけな」


 残した。


 でも、そのまま放置したわけではない。


 古い糸を、新しい糸が裏から支えている。


 よかった。


 次に、胸元の鶴。


 私は少し顔を近づけた。


 そこで。


 気づいた。


「弥七さん」


「ああ」


 鶴の右の翼。


 先端近く。


 銀糸が一本、浮いている。


 その隣も、少し緩んでいた。


「ほつれています」


 小春が静かに言った。


 胸の奥が沈んだ。


 母親の祝言の絵姿で、一番よく見えていた鶴。


 二番目に残したいと決めたもの。


「洗いで?」


 言った瞬間。


 少しだけ、責めるような響きになった。


 自分でわかった。


 弥七も気づいたと思う。


 だが、怒らなかった。


「そうとも言える」


 弥七は鶴の翼を指で持ち上げた。


「だが、洗わなくても、そのうち浮いた」


「どうして」


「根元が弱ってた」


 銀糸の下。


 古い絹糸が、ところどころ細くなっている。


「洗う前は、汚れと糊でくっついてただけだ」


 私は黙った。


「きれいにしたから壊れたんじゃない」


 弥七が言う。


「きれいにしたから、壊れかけが見えた」


 刺さった。


 かなり深く。


 前世にもあった。


 問題を確認したら、問題が増えたように見える。


 調べなければ、なかったことにできた。


 帳簿を見直したらミスが出る。


 話を聞いたら不満が出る。


 点検したら故障箇所が増える。


 だから。


 見ない方が平和だったのでは。


 そんな気持ちになる。


 でも違う。


 平和だったのではない。


 見えていなかっただけだ。


「直せますか」


 私が聞いた。


「全部、新しい銀糸へ替えればきれいだ」


 伊織が鶴を見る。


「だが、それでは母親の鶴ではなくなる」


「一部だけなら?」


 小春が尋ねる。


 弥七が頷く。


「浮いた二本だけ替える。それ以外は、裏から支える」


「新しい銀糸が目立ちませんか」


「目立つ」


 即答だった。


「古い銀は、少しくすんでる。新しい銀は光る」


 まただ。


 白の次は銀。


 色というものは、どうしてこんなに揃わないのか。


 心のアンミカを召喚しかけて、やめた。


 今日は銀である。


 二百色の出番ではない。


 襖の向こうで待機していただく。


「新しい糸を、少しくすませることは?」


 私が聞くと、弥七は嫌な顔をした。


「わざと古く見せるのか」


「馴染ませるために」


「新しいものを、古いふりさせる必要はない」


 短い。


 だが、強かった。


 新しい糸は、新しい糸。


 古い鶴の中に、新しい二本が入る。


 そこだけ少し光る。


「依頼主へ見てもらいましょう」


 小春が言った。


 また、同じだ。


 こちらで勝手に、馴染ませない。


 隠さない。


 本人に選んでもらう。


 午後。


 母親と娘が来た。


 白無垢を見た娘の顔が、まず明るくなった。


「きれい」


 袖へ触れる。


 身頃を見る。


 祖母の縫い目を確かめる。


「残ってる」


 それから胸元の鶴を見る。


 翼のほつれに気づいた。


「あ」


 小さな声。


「ここが」


「本洗いで浮きました」


 私は説明した。


「ただ、洗ったことで壊れたというより、もともと弱っていた糸が見える状態になりました」


 娘はしばらく鶴を見ていた。


「直し方は?」


 小春が説明する。


 一つ。


 鶴の銀糸を、すべて新しいものへ替える。


 仕上がりは揃う。


 ただ、母親が着た時の銀糸はなくなる。


 二つ。


 浮いた二本だけ、新しい銀糸へ替える。


 残りは裏から支える。


 ただし、新しい二本だけ少し光る。


「全部替えれば、きれいですよね」


「はい」


 小春が答える。


 母親は何も言わない。


 娘が決めるのを待っている。


「お母さん」


 娘が聞いた。


「この鶴、好きだった?」


 母親は少し驚いた。


「どうかしら」


「覚えてない?」


「祝言の日はね」


 母親が笑った。


「着物を見る余裕なんて、ほとんどなかったのよ」


「そうなの?」


「重いし。暑いし。皆に見られるし。転ばないように歩くので精いっぱい」


 現実だった。


 三代の白無垢。


 美しい思い出。


 そんな言葉を積み重ねると、祝言の日まできれいな映画みたいに見えてくる。


 でも本人は。


 暑い。


 重い。


 転びそう。


 たぶん腹も減る。


 人生の大事な日は、意外と現場がバタバタしている。


「でも」


 母親は鶴を見た。


「あとで絵姿を見て、ああ、鶴がきれいだったんだなと思った」


「あとで?」


「そう。着てる時は、自分じゃ見えないもの」


 娘が笑った。


「じゃあ、お母さんの鶴っていうより」


「みんなが覚えてる鶴かもしれないわね」


 それも面白い。


 自分では見えないものが、人の記憶に残る。


 着物とは、そういうものなのかもしれない。


「二本だけ替えます」


 娘が言った。


「新しい銀で?」


「はい」


「そこだけ光ります」


 弥七が念を押す。


「それがいいです」


 迷わなかった。


「どうして?」


 母親が聞く。


「私の時に直したって、わかるから」


 祖母の縫い目。


 母の鶴。


 娘の芽。


 そして。


 娘の代で直した、二本の銀糸。


 予定していなかった印が、一つ増えた。


「それ、娘さんの印とは別でよいですか」


 私が聞く。


「別です」


「芽も入れる?」


「入れます」


 娘は笑った。


「芽は、私が選んだもの。銀糸は、白無垢の方から増えたものだから」


 いい。


 その違いは大きい。


 自分で選んで足すもの。


 途中で起きたことを受け取るもの。


 人生は、その両方でできている。


 予定していた印だけが、自分ではない。


「では」


 小春が言った。


「新しい銀を、二本だけ」


「お願いします」


 弥七が鼻を鳴らした。


「それなら、俺の仕事はここまでだ」


「本洗い、ありがとうございました」


「礼は、着てからにしろ」


 最後まで弥七だった。


 白無垢は、青柳屋へ戻った。


 いよいよ。


 仕立て直し。


 祖母の縫い目を支える。


 母の鶴へ、新しい銀を二本。


 新しい衿。


 裾の水の輪。


 右袖の内側へ、新芽。


 裏裾には、次の代の余白。


 ここからは、針の仕事になる。


 青柳屋へ戻ると、お松さん、おきぬさん、千代さんも集まった。


 白無垢を広げる。


 誰がどこを受け持つか。


 小春が全体を見る。


 伊織は、納期と工程を確認する。


 藤兵衛は帳面。


 私は。


「若旦那は」


 小春が言った。


「はい」


「何もしないでください」


「また?」


「最初は」


「私も何か」


「糸を色分けしますか」


 嫌な記憶が蘇った。


 水浅葱。


 白藍。


 瓶覗。


 色の迷路。


「……帳面を見ています」


「それがよいと思います」


 若旦那、本格的な仕立て直し初日。


 戦力外通告。


 いや。


 全体を見るのも仕事である。


 たぶん。


 そこへ、伊織が小さな箱を置いた。


「銀糸だ」


 開ける。


 何種類か入っている。


 明るい銀。


 少しくすんだ銀。


 細い銀。


 太い銀。


「二本だけなら、どれでも同じでは」


 口に出しかけて飲み込んだ。


 危ない。


 色の職人たちの前で、また「全部同じ」発言をするところだった。


 心のアンミカが、襖の隙間からこちらを見ている。


 今日は出なくていい。


 銀もたぶん、たくさんある。


 わかった。


 学習している。


「どれが合いますか」


 私は丁寧に聞いた。


 小春が一本ずつ、鶴の上へ置く。


 最終的に選んだのは、いちばん明るい銀だった。


「馴染ませなくていいんですか」


 私が聞く。


「新しい糸ですから」


 小春が答えた。


「新しく見えた方がよいと思います」


 新しいものを、古いふりさせない。


 弥七と同じだった。


 午後。


 鶴の片翼へ、二本の新しい銀糸が入った。


 小春が針を引く。


 一本。


 もう一本。


 光を受ける。


 そこだけ、ほんの少し明るい。


 でも、変ではない。


 むしろ。


 古い鶴が、片方の翼の先だけ朝日を受けているように見えた。


「飛びそうですね」


 千代さんが言った。


「二本で?」


「はい」


「大げさでは」


「若旦那が言います?」


 言えない。


 普段、油揚げから人生を考えている男である。


 銀糸二本で鶴が飛んでも、文句を言う資格はない。


 夜。


 祝い直し帳を開く。


 本洗い完了。

 祖母の縫い目、無事。

 裾の泥、除去。

 白の差、残る。

 母の鶴、右翼銀糸二本に浮き。

 元から弱っていた箇所。

 依頼主確認。

 全交換せず、二本のみ新しい銀糸へ。

 新しい銀は、古く見せない。

 娘の印・新芽とは別に、今代の手直し跡として残す。


 書き終えて。


 私は一行足した。


 洗ったから壊れたのではない。洗ったから、弱っていた場所が見えた。


 見つける。


 それは時々、怖い。


 見つけなければ、なかったことにできるから。


 でも、見えないまま祝言の日を迎え、そこで糸が切れる方が怖い。


 問題が見つかった時。


 失敗した。


 増えた。


 悪くなった。


 そう思わなくていいこともある。


 今、見つかってよかった。


 そういう弱さもある。


 前世の私は、自分の弱いところを見るのが嫌だった。


 できない。


 疲れた。


 嫌だ。


 怖い。


 そういう言葉が出てくると、すぐ蓋をした。


 もっと頑張れば。


 まだ大丈夫。


 気のせい。


 でも。


 見えてしまった弱さは、壊れた証拠ではない。


 直せる場所が見つかった、ということでもある。


 全部、新しくする必要はない。


 浮いた二本だけ。


 そこへ新しい糸を入れる。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は、自分の弱った糸を見つけた時、全部取り替えようとしないでいたい。


 二本なら、二本。


 必要なところだけ、新しくする。


 古い自分まで、全部捨てなくていい。


 そう思ったところで。


 店先から、お鈴が呼んだ。


「若旦那!」


「はい」


「しるべが銀糸を狙っています!」


 何。


 振り向く。


 しるべが、作業台の端から垂れた銀糸を見ている。


 目が完全に狩人である。


「しるべ」


 猫の尻が少し下がる。


 飛ぶ体勢。


「待って」


 尻尾が揺れる。


「それは駄目です」


 前足が浮く。


「三代分です!」


 跳んだ。


「うわっ!」


 私も跳んだ。


 猫と若旦那。


 銀糸を挟んで、ほぼ同時。


 私は糸箱。


 しるべは銀糸。


 結果。


 私が糸箱を抱える。


 しるべは何もない机へ着地。


 勝った。


「よし!」


 思わず声が出た。


 全員がこちらを見る。


 小春。


 千代。


 お松。


 おきぬ。


 藤兵衛。


 伊織。


 何だ。


 この視線。


「若旦那」


 伊織が言った。


「今のが今日一番の働きか」


「白無垢を守りました」


「猫からな」


「重要です」


 藤兵衛が祝い直し帳へ筆を入れた。


「何を書いています?」


「銀糸、猫による被害なし」


「それ、必要ですか」


「品質管理でございます」


 まただ。


 青柳屋の品質管理に、猫対策が正式に入り始めている。


 しるべは、何事もなかったように自分の箱へ戻った。


 反省なし。


 私は銀糸の箱を、猫の届かない棚へ置いた。


 逃げたのではない。


 今日は鶴の弱った羽へ新しい銀を二本入れ、最後はその二本を猫から守り切ったのである。

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