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第44話 若旦那、きれいになる途中で止める

 二日目。


 私は、弥七のところへ行かなかった。


 行かなかった。


 大事なことなので、もう一度言う。


 行かなかった。


 朝。


 川の方を見た。


 昼。


 川の方から風が吹いた。


 夕方。


 たまたま散歩の方向が川寄りになりかけた。


 だが、行かなかった。


「若旦那」


 小春が言った。


「今日は昨日より、三町ほど弥七さんへ近づいていました」


「散歩です」


「昨日も聞きました」


「健康のためです」


「昨日まで、健康のために川沿いへ歩く習慣はありませんでした」


 ぐう。


 逃げ道がない。


 青柳屋へ戻る。


 しるべが空き箱で寝ていた。


「あなたはいいですね」


 にゃ。


「待てと言われても、寝ていられる」


 にゃ。


「いや、あなたの場合、そもそも待っていませんね」


 猫には締切も進捗確認もない。


 あるのは、箱が空いているかどうかだけである。


 羨ましい。


 少しだけ。


 そして翌朝。


 私は夜明け前に目を覚ました。


 今日。


 今日なら行ける。


 二日が終わった。


 弥七から、来るなと言われていない日である。


 これはもう、合法。


 いや、別に昨日まで違法だったわけではない。


 脳内の私が、朝から暖簾を上げている。


 行ける。


 白無垢を見られる。


 試し洗いの結果がわかる。


「若旦那」


 藤兵衛の声。


「はい」


「まだ、朝餉前でございます」


「知っています」


「草履を履いておられますが」


「朝の空気を」


「祝い直し帳もお持ちですが」


「朝の空気にも記録が必要かと」


 藤兵衛は黙った。


 その顔には、


 嘘が下手ですな。


 と書いてあった。


「朝餉を済ませてからにしてください」


「弥七さんは朝が早いです」


「若旦那も、本日だけは早うございますな」


 はい。


 完全に浮かれている。


 結局、朝粥を食べることになった。


 味がしない。


 いや、お滝の朝粥はうまい。


 でも、意識の八割が川辺にある。


「若旦那」


 お滝が言う。


「飯くらい、こっちで食べな」


「食べています」


「口だけね」


 鋭い。


 身体は青柳屋。


 心は弥七の作業場。


 遠隔操作で朝粥を食べている。


 ようやく支度が整い、小春、伊織と三人で弥七のところへ向かった。


「走るな」


 伊織が言った。


「走っていません」


「歩幅が昨日の倍だ」


「測ったんですか」


「見ればわかる」


 ライバルの観察眼を、ここで使わないでほしい。


 弥七の仕事場へ着く。


 白い布が風に揺れていた。


 桶の水が朝の光を返している。


 弥七は、私たちを見ても何も言わなかった。


「おはようございます」


「来たか」


「来てもいい日なので」


「誰も来いとは言ってない」


 そうだった。


 来るな、が解除されただけ。


 招待されたわけではない。


 開始十秒で、若旦那の浮かれが一段落した。


「結果を見せてください」


「こっちだ」


 作業台の上。


 四本の糸と、四枚の小さな布片が並んでいた。


 表布。


 裏地。


 胸元の鶴に使われた糸。


 祖母が縫い直した糸。


 その横に、それぞれ二つずつ見本がある。


 一つは洗う前。


 一つは試し洗いのあと。


「……白くなっていますね」


 表布は、確かに明るくなっていた。


 黄みが少し抜けている。


 でも真っ白ではない。


 柔らかな白。


「これが、一番弱い洗いだ」


 弥七が言った。


「もう少しできますか」


「できる」


「その場合は?」


 弥七は鶴の糸を指した。


 洗った方。


 よく見ると、表面がわずかに毛羽立っている。


「一回でこれだ」


 胸が少し沈む。


「切れますか」


「今すぐではない」


「では」


「もう一段強くやれば、わからん」


 次に、祖母の縫い糸。


 こちらは、色は明るくなった。


 しかし、洗う前より細く見える。


 小春が慎重に触れた。


「張りが落ちています」


「そうだ」


 弥七が言う。


「白くはなる。だが、弱くもなる」


 単純だった。


 そして、難しかった。


 きれいになる。


 同時に、壊れやすくなる。


 前世にも、似た話はいくらでもあった。


 もっと速く。


 もっと見栄えよく。


 もっと効率よく。


 数字だけ見れば改善。


 でも、その途中で誰かの余力が削れている。


 表面は整っている。


 内側は痩せている。


 ……なんだ。


 白無垢まで、組織運営みたいなことを言い始めた。


 異世界へ来ても、逃げ切れない。


「若旦那」


 小春が言った。


「この洗いで、止めた方がいいと思います」


「染みは?」


「薄くはなります。でも、残ります」


「衿の黄ばみも」


「はい」


 祝いの日。


 もう少し白く。


 あと少しだけきれいに。


 そう思う。


 かなり思う。


 ここで止めて、あとから、


 もう一回洗えばよかった。


 と言われたら。


 胸の中の小さな心配係が、机を並べ始める。


 だが。


 私は祖母の糸を見た。


 母の鶴を見た。


 娘が決めた順位を思い出した。


 一、祖母の縫い目。


 二、母の鶴。


 三、娘の芽。


 白さは、入っていない。


「ここで止めましょう」


 私は言った。


 弥七がこちらを見る。


「いいのか」


「はい」


「あと一度やれば、見た目はもっとよくなる」


「でも、一番残したいものが弱る」


「そうだ」


「なら、ここです」


 言い切った瞬間、不思議と胸が軽くなった。


 最大までやらない。


 できるところまで、全部やらない。


 目的に足りたところで止める。


 それも仕事なのだ。


 伊織が見本布を持ち上げた。


「商品なら、難しい判断だ」


「ですよね」


「客は、できるならもっと、と言う」


「はい」


「職人も、もっときれいにできると知っている」


「はい」


「そこで止める理由を、店が説明できるか」


 また、それだ。


 説明を背負う。


「できます」


 私は言った。


「いや」


 少し考えた。


「できるようにします」


 弥七が鼻で笑う。


「そこは正直なんだな」


「格好つけて白無垢が強くなるなら、いくらでも格好つけます」


「ならん」


「ですよね」


 娘と母親にも、結果を見てもらうことになった。


 午後。


 二人が弥七の仕事場へ来る。


 洗う前の布。


 試し洗い後の布。


 二つを並べる。


「きれいになった」


 娘が言った。


「思ったより、白い」


「これ以上もできます」


 私は伝えた。


「ただし、鶴と、お祖母様の縫い糸が弱る可能性があります」


 娘は迷わなかった。


「ここでいいです」


 早かった。


「本当に?」


「はい」


 試し洗いした布を持つ。


「これなら、古いっていうより……」


 少し考える。


「やわらかい白に見える」


 母親が頷いた。


「私が着た時より、少し明るいくらいかもしれない」


「では」


「お願いします」


 決まった。


 弥七が、本洗いへ進む。


「三日」


「三日ですか」


「今度は来てもいいですか」


 私は聞いた。


 全員がこちらを見た。


 伊織。


 小春。


 母親。


 娘。


 弥七。


 何、その顔。


「確認です」


「三日後だ」


 弥七が言った。


「それまでは」


「来るな」


 やっぱり。


「はい」


 第二次来訪禁止令。


 発令。


 心の中で、少しだけ膝から崩れた。


 娘が笑っている。


「若旦那さん、本当に待つのが苦手なんですね」


「最近、鍛えられています」


「白無垢と一緒に?」


「たぶん、私の方が洗われています」


 弥七が言った。


「お前は、もう少し洗われた方がいい」


「心を?」


「落ち着きをだ」


 職人、手厳しい。


 青柳屋へ戻る。


 祝い直し帳を開く。


 試し洗い結果。


 弱い洗いで、白さ十分。


 鶴糸、毛羽立ちあり。


 祖母糸、張り低下あり。


 これ以上の洗いは行わない。


 本洗い、三日。


 そして。


 きれいになる途中で止める。


 その一文を、私は少し大きく書いた。


 藤兵衛が覗く。


「正式記録ですか」


「かなり正式です」


「承知いたしました」


 今日は情緒扱いされなかった。


 少し成長した気がする。


 夕方。


 若葉が、小夜の稽古箱の相談で来た。


 祝い直し帳が開いていたので、白無垢の話になる。


「もっと白くできるのに、やめるんですか」


「はい」


「もったいなくないですか」


「少し思います」


「少し?」


「かなり」


 正直に言う。


「でも、一番きれいなところと、一番大事なところが、同じとは限らないので」


 若葉は少し考えた。


「花街でもあります」


「何がですか」


「白粉」


 なるほど。


「濃くすれば、きれいに見えることもあります。でも、全員が同じように塗ればいいわけじゃない」


「白菊さんも?」


「白菊姉さんはよく言います」


 若葉が少し背筋を伸ばし、白菊さんの真似をした。


「足せるからって、全部足したら野暮になるよ」


 うまい。


 目に浮かぶ。


 小春が笑った。


「布も同じかもしれませんね」


「引き算ですね」


 私が言う。


 その瞬間。


 脳内に、どこからともなくリフォーム番組の匠が現れかけた。


 劇的な何かを、何ということでしょう、と仕上げようとしている。


 待て。


 今日は劇的にしない話である。


 匠にはいったん帰っていただきたい。


 全部を変えない。


 見違えさせない。


 昔の白が、昔の白だとわかるくらいで止める。


 その方が、この白無垢には合う。


 夜。


 帳面を閉じる前に、私は考えた。


 人は、良くできるとわかると、もっとやりたくなる。


 あと一回。


 あと少し。


 あと一段。


 もっと痩せる。


 もっと稼ぐ。


 もっと上手くなる。


 もっと好かれる。


 どこかに「完成」があるような気がして、進み続ける。


 でも。


 進めば進むほど、大事な糸が細くなることもある。


 どこで止めるか。


 その線は、誰かが決めなければならない。


 前世の私は、止めるのが苦手だった。


 できるなら、やる。


 頼まれたなら、やる。


 もう少しなら、やる。


 そして最後には、自分の糸が細くなっていた。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は、「まだできる」と「ここまででいい」を、別の言葉として持っていたい。


 できる。


 でも、やらない。


 それは諦めではない。


 守るために止めることもある。


 そう思ったところで。


 店先で、しるべが何かをしていた。


 見る。


 自分の空き箱の中敷きを、前足で掘っている。


 がり。


 がりがり。


「しるべ」


 止まらない。


「それ以上、掘ると破れます」


 がりがり。


「そこで止めてください」


 しるべが止まった。


 私を見る。


 お。


 通じた?


 しるべは一度だけ、にゃ、と鳴いた。


 そして。


 もう一度、がり。


「止まってない」


 小春が吹き出した。


「猫には難しいようですね」


「私より、止めるのが苦手です」


 藤兵衛が後ろから言った。


「若旦那と、よい勝負でございます」


「そこは否定してください」


「記録を見ますと」


「帳面を根拠にしないでください」


 私はしるべを箱から抱き上げた。


 中敷きには、小さな爪跡。


 まだ直せる。


 全部きれいに直す必要もない。


 猫が使った跡だ。


 これは残してもよいだろう。


 私は箱を見て、少し笑った。


 逃げたのではない。


 今日は白無垢をきれいになる途中で止め、猫だけは途中で止められなかったのである。


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