第43話 若旦那、二日間なにもしない
弥七に、
「二日、来るな」
と言われた。
今日が、その一日目である。
私は朝から、帳場に座っていた。
祝い直し帳を開く。
閉じる。
また開く。
何も増えていない。
当然である。
白無垢は、弥七のところにある。
試し洗いの最中。
こちらにできることはない。
ない。
……本当に?
「藤兵衛さん」
「はい」
「弥七さんのところへ、何か届けるものはありませんか」
「ございません」
「洗い粉とか」
「弥七殿がお持ちです」
「昼飯とか」
「ご自分で召し上がるかと」
「様子を見るついでに」
「二日、来るな、と」
「言われました」
終わった。
会話、六往復で終了。
私は再び帳面を見る。
祝言まで、あと三十八日。
数字だけが、一つ減っている。
焦る。
非常に焦る。
前世の私は、頼んだ仕事を待つのが苦手だった。
メールを送る。
三十分後。
既読だろうか。
一時間後。
念のため確認した方がいいか。
半日後。
「その後いかがでしょうか」
いや、早い。
わかっている。
でも気になる。
気になるから確認する。
確認される側は、確認へ返事をする。
その分、作業が止まる。
そして私は、
「忙しいところすみません」
と書く。
忙しくしているのは、お前だ。
過去の自分へ言いたい。
「若旦那」
小春が反物を畳みながら言った。
「落ち着きませんね」
「落ち着いています」
「さっきから帳面を七回開いています」
「数えていたんですか」
「はい」
怖い。
「何もしないのも、仕事ですよ」
小春はさらりと言った。
何もしないのも仕事。
理解はできる。
身体が納得しない。
「でも、何か起きていたら」
「弥七さんから人が来ます」
「布が弱っていたら」
「弥七さんが止めます」
「試し洗いが」
「若旦那」
「はい」
「任せたんですよね」
刺さった。
任せる。
これは仕事を渡すことではない。
渡したあと、手を引っ込めるところまで含まれるらしい。
私は自分の両手を見た。
余っている。
何かしたい。
だが、その余った手を他人の仕事へ突っ込まない。
これが難しい。
青柳屋の店先では、お鈴が空き箱直しの札を拭いている。
千代さんは、花街から預かった小さな稽古箱の内側へ灰色の布を貼っている。
しるべは、自分の箱で寝ている。
全員、仕事がある。
私だけ、白無垢に関しては何もない。
若旦那、手持ち無沙汰。
そこへ暖簾が揺れた。
「こんにちは」
三代白無垢の花嫁になる娘だった。
今日は一人で来ている。
手に、小さな紙包み。
「いらっしゃいませ」
「白無垢は」
「弥七さんのところです」
「そうですよね」
「私も見に行きたいところですが、出入り禁止です」
「出入り禁止?」
「二日間だけです」
娘が笑った。
「若旦那さん、何かしたんですか」
「まだ何もしていません」
「まだ」
「今後もしません」
たぶん。
いや、しない。
今日は我慢する。
「それで」
娘が紙包みを帳場へ置いた。
「私の印を、決めました」
「本当ですか」
祝い直し帳を開く。
今度は、開いてよい。
仕事が来た。
うれしい。
帳面を開く行為に正当性がある。
「こちらです」
包みの中から出てきたのは、小さな布だった。
白地に、細い緑の糸。
刺繍されていたのは。
小さな芽だった。
二枚の葉。
その真ん中から、もう一本だけ伸びようとしている。
「芽ですか」
「はい」
「どうして?」
娘は少し照れた。
「祖母の縫い目と、母の鶴を残すでしょう」
「はい」
「私も何か、立派なものを入れようと思っていたんです」
鶴。
松。
花。
祝いに似合うものはたくさんある。
「でも、考えていたら」
娘は小さな芽へ触れた。
「私は、まだ何にもなっていないなって」
「何にも?」
「妻にはなります。でも、その先はわからない」
どんな家になるか。
どんな暮らしをするか。
子どもがいるかどうかも。
商いをするのか。
家を守るのか。
何が得意になるのか。
まだ決まっていない。
「だから、完成した花じゃなくて」
「芽」
「はい」
いい。
とてもいい。
三代目が入れるのは、完成した印ではない。
これから伸びるもの。
「どこに入れますか」
私は聞いた。
「それも相談したくて」
小春がこちらへ来た。
布を手に取る。
「胸元だと、母上の鶴と近くなります」
「裾は?」
「新しく水の輪を足す予定ですから、少し賑やかになります」
「袖?」
娘が、自分の腕を見る。
小春は少し考えた。
「袖の内側はどうでしょう」
「祖母の縫い目と同じ側?」
「反対の袖です」
左袖には、祖母の曲がった縫い目。
右袖の内側へ、娘の芽。
「外からは見えません」
小春が言う。
「でも、袖を通す時に、自分だけ見えます」
娘はすぐに頷いた。
「そこがいいです」
祖母の縫い目は、左。
娘の芽は、右。
間に、身体が入る。
「面白いですね」
私が言った。
「何がですか」
「過去とこれからを、両方の袖に通すみたいで」
娘が腕を広げる。
左に祖母。
右に自分。
胸には、母の鶴。
三人を着る。
いや。
三人分を背負う、ではない。
それでは重すぎる。
「でも」
私は少し考えた。
「全部背負う必要はありませんね」
「え?」
「祖母のように縫えなくてもいい。お母様と同じ暮らしをしなくてもいい」
娘は静かに聞いている。
「残すのは、命令ではなく、選べるものだと思います」
祖母の縫い目を残す。
母の鶴を残す。
でも、同じ人生を繰り返す約束ではない。
自分の芽を一つ加えて、先へ行く。
娘は、小さく笑った。
「母にも、似たことを言われました」
「何と?」
「白無垢は渡すけど、人生までお下がりにしなくていいって」
いい母親だ。
かなり好きな言葉である。
脳内の名言採取係が、すっと筆を持った。
今回は書いていい。
重要案件。
人生まで、お下がりにしなくていい。
私は祝い直し帳の余白へ、小さく書いた。
藤兵衛が横から見た。
「若旦那」
「はい」
「正式記録でしょうか」
「備考です」
「情緒備考」
「新しい欄を作らないでください」
帳面に情緒欄までできたら、もう収拾がつかない。
娘は笑っていた。
「もう一つ、相談があります」
「どうぞ」
「もし」
少し言いにくそうにした。
「この白無垢が、また誰かへ渡るとしたら」
四代目。
いるかどうかは、まだわからない。
自分の娘かもしれない。
親戚かもしれない。
誰にも渡らないかもしれない。
「その人も、自分の印を入れられるようにできますか」
私は小春を見る。
小春の目が少し明るくなった。
「できます」
「最初から、場所を残す?」
「はい」
白無垢の裏側。
見えない場所に、小さな余白を残す。
刺繍を入れない場所。
補強もしすぎない。
いつか、次に着る誰かが一つ加えられる場所。
「空白を、仕立てるんですね」
私が言う。
「空白を?」
「はい。何も縫わないことを、最初から決めておく」
何もない。
ではない。
まだ使っていない場所。
空き箱と同じだ。
空いているから、次の役目が入る。
「いいです」
娘が言った。
「お願いします」
祝い直し帳へ書く。
三、娘の新しい印。
右袖内側。
新芽。
さらに。
四、次代のための余白。
場所、裏裾の一角。
意図的に刺繍せず残す。
藤兵衛が、そこを二度見した。
「何も入れないことも、記録するのでございますか」
「入れないと決めたので」
「なるほど」
藤兵衛は頷いた。
帳面というものは、あるものだけを書くと思っていた。
でも、意図して残した空白なら、それも設計だ。
書いておかなければ、将来誰かが、
「ここ、何もないから埋めましょう」
と言うかもしれない。
空白を守るために、空白を記録する。
面白い。
昼を過ぎても、私は弥七のところへ行かなかった。
一度だけ、店の外へ出た。
川の方を見た。
小春に見つかった。
「若旦那」
「散歩です」
「川の方向ですね」
「町には川がありますから」
「弥七さんもいます」
「偶然です」
「戻りましょう」
「はい」
捕獲された。
しるべより聞き分けがよい自信はある。
夕方。
伊織が店へ来た。
「行ったか」
「どこへですか」
「弥七のところ」
「行っていません」
「本当に?」
「小春さんに聞いてください」
小春が頷く。
「一度、川の方を見ていましたが」
「見ただけです」
伊織が鼻で笑った。
「一日目は耐えたか」
「耐えました」
「仕事を任せた程度で大げさだ」
「伊織さんは平気なんですか」
「何が」
「自分の店の仕事を、人に任せて待つの」
「平気だ」
即答。
腹が立つほど即答。
「任せた相手を選んだのは俺だ」
伊織が言った。
「そこで毎回疑うなら、最初から頼むな」
ぐう。
正論。
今日は正論の切れ味がいい。
「ただし」
続きがあった。
「報告日を決める」
「報告日?」
「任せたら放置、でもない。いつ確認するかを先に決める」
なるほど。
不安だから随時確認するのではない。
二日後。
この日に見る。
決めたら、それまでは任せる。
それなら、こちらも待ちやすい。
「弥七さんの『二日来るな』は」
「報告日を決めたのと同じだ」
「かなり乱暴ですが」
「あれは弥七だからな」
確かに。
「それと」
私は娘の芽と、次代の余白について伊織へ話した。
伊織は、祝い直し帳を見る。
「何も縫わない場所へ、金は取るのか」
来た。
非常に黒瀬屋らしい質問。
「取ります」
私は答えた。
自分でも即答だった。
伊織の眉が少し動く。
「なぜ」
「その場所を残すために、周りの仕立てを変えるからです」
次代のための余白。
何も刺繍しない。
でも、場所を決める。
将来ほどきやすいように縫い方を調整する。
補強の位置も考える。
何もしないように見えて、何もしなくて済む形を作る。
「なるほど」
伊織が言った。
「空白にも手間はある」
「はい」
「それなら値を取れ」
「もちろんです」
少しだけ胸を張った。
以前の私なら、
何もしていないところから、お金を取るのは悪い。
と思ったかもしれない。
でも違う。
余白を作るのも仕事だ。
待つのも仕事。
何もしないと決めるのも仕事。
伊織が帰ったあと。
私は祝い直し帳の今日の頁を見た。
白無垢には、一針も触っていない。
弥七の仕事場にも行っていない。
それでも今日、決まったことは多い。
娘の芽。
次代の余白。
確認日まで待つこと。
何もしない日にも、仕立ては進む。
夜。
帳面に今日のことを書く。
弥七試し洗い、一日目。
来訪せず。
娘来店。
本人の印、新芽に決定。
右袖内側へ。
次代の着用者が印を入れられる余白を、裏裾へ残す。
余白も仕立ての一部として、手間へ含める。
黒瀬伊織、確認日は先に決めろと助言。
若旦那、川方向へ一度散歩を試みる。
小春により帰還。
「最後の二行、必要ですか」
藤兵衛へ聞いた。
「再発防止のために」
「行っていません」
「方向は同じでした」
「散歩です」
「承知しております」
絶対に承知していない顔だった。
私は筆を置いた。
何もしない。
待つ。
空けておく。
どれも、怠けているように見える。
でも、本当に何かを預けるなら、そういう時間が必要なのだと思う。
他人へ任せた仕事に、何度も手を突っ込まない。
未来の人が何かを入れる場所を、こちらの都合で埋め尽くさない。
自分の一日にも、全部予定を入れない。
前世の私は、空白を見ると不安になった。
埋めた。
予定で。
心配で。
誰かの頼み事で。
自分で作った用事で。
そして最後には、
時間がない。
と騒いでいた。
自分で全部埋めたのに。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、何もないところを、何もないまま残せる人でいたい。
そこへ次の何かが入ってくるまで。
待つ。
それも、仕立てだ。
そう思ったところで。
藤兵衛が言った。
「若旦那」
「はい」
「明日で二日目でございます」
「はい」
「弥七殿のところへ行けるのは、明後日です」
「……はい」
「明日ではありません」
「わかっています」
「朝一番で出掛ける支度をなさらぬよう」
「しません」
「道順表は、私が預かっておきます」
「そこまでします?」
「念のため」
完全に信用されていない。
私は少し肩を落とした。
その横で、しるべが空き箱から出てきた。
別の空箱へ移る。
一つ目を出る。
二つ目へ入る。
何の迷いもない。
空いている場所があれば、とりあえず入る。
「しるべ」
私は言った。
「今日は、空いていても入らないという話をしていたんです」
にゃ。
「聞いていませんね」
にゃ。
猫には、余白を残すという概念がない。
空白は、猫が入るためにある。
どうやらこの世界には、そういう思想もあるらしい。
私は二つ目の箱に収まったしるべを見た。
逃げたのではない。
今日は何もしない仕事を一日やり遂げ、明日も弥七のところへ行かないという、かなり難しい仕事が残っているのである。
⸻




