第42話 若旦那、白を白くしすぎない
三代白無垢を預かった翌朝。
青柳屋の帳場には、新しい帳面が置かれていた。
表紙には、藤兵衛の端正な文字で、
三代白無垢 祝い直し
とある。
立派だ。
重い。
まだ一針も縫っていないのに、帳面だけですでに責任が座っている。
私は表紙を開いた。
最初の頁。
依頼主。
祝言まで、あと三十九日。
最優先で残すもの。
一、祖母の曲がった縫い目。
二、母の胸元の鶴。
三、娘の新しい印。
その下には、今日の予定。
洗い張り職人・弥七へ持ち込み。
「若旦那」
藤兵衛が言った。
「桐箱の紐は、確かめましたか」
「はい」
「帳面は」
「持ちました」
「弥七殿への紹介状は」
「懐に」
「道順は」
「……書いてあります」
「猫について行かない、も」
「書かれていました」
まただ。
今回の道順表にも、最後の一行がある。
猫について行かない。
白無垢を抱えて花街へ迷い込んだら、さすがに言い訳ができない。
祝言前の白無垢。
花街。
迷子の若旦那。
噂だけが妙な仕立て上がりを見せる。
絶対に避けたい。
「今回は私も同行します」
小春が言った。
「信用されていない」
「白無垢が大事ですので」
「私ではなく?」
「両方です」
やはり信用されていない。
正しい判断である。
桐箱は、私と藤兵衛で持つことになった。
小春は祝い直し帳。
そして、黒瀬伊織も同行する。
「なぜ伊織さんまで」
「弥七への紹介は、黒瀬屋を通した」
「それは知っています」
「古い白を扱う時は、目が多い方がいい」
「心配してくださって」
「取引品の確認だ」
いつもの答えだった。
この男は、心配や協力を全部「取引」という箱へ入れる。
その箱も、そのうち内側へ布を貼って整えた方がよいかもしれない。
たぶん、本人は怒る。
洗い張り職人・弥七の仕事場は、町の外れにあった。
川に近い。
大きな桶。
干された布。
長い板。
水の音。
風に揺れる白布。
店というより、布が一度、身体を離れて休む場所に見えた。
反物。
着物。
裏地。
袖。
いろいろな布が、仕立てられる前の姿へ戻されている。
「弥七」
伊織が声をかけた。
奥から、一人の男が出てきた。
五十を少し越えたくらい。
細い身体。
日に焼けた顔。
腕には、細かな水仕事の跡がある。
職人というより、川辺の鷺みたいな人だった。
立っているだけで、こちらを値踏みしている。
「黒瀬屋の若いのか」
「以前話した白無垢だ」
「話だけじゃわからん」
弥七は私たちへ挨拶もせず、桐箱を見た。
「下ろせ」
短い。
かなり短い。
伊織より短い。
この町の腕のよい職人は、言葉を節約しすぎではないか。
余った言葉があるなら、私の脳内実況を少し引き取ってほしい。
桐箱を作業台へ置く。
ずしりと重い。
弥七が蓋を開ける。
白無垢を見た。
触らない。
まず、見る。
光を変える。
箱の向きを変える。
それから、ようやく袖口へ指を入れた。
「古いな」
「三代目です」
私が答える。
「聞いてない」
「失礼しました」
聞かれていなかった。
若旦那、開始三十秒で空回り。
弥七は衿。
袖。
裾。
胸元の鶴。
祖母の曲がった縫い目。
順番に見た。
「洗えば、どのくらい白くなりますか」
娘の母親から聞かれたことを、そのまま尋ねた。
弥七の手が止まった。
「白く?」
「はい」
「何のために」
質問で返された。
「汚れを落とすためです」
「白くするためじゃないのか」
「……違うのですか」
弥七は白無垢を持ち上げた。
朝の光へ透かす。
「この白を見ろ」
「はい」
「袖と身頃で違う」
言われて見る。
確かに違う。
袖は少し青みがある。
身頃は、やわらかな黄み。
衿は、さらに色が深い。
私は全部、古くなった白だと思っていた。
「布が違うんですか」
小春が聞いた。
「糸も違う。染めた時期も違う。直した場所は、もっと違う」
祖母が縫い直した袖の内側。
そこだけ使われた糸は、少し明るい。
「白は、一色じゃない」
弥七が言った。
静かな声だった。
その瞬間、心のアンミカが、脳内の襖を勢いよく開けた。
――あんな、白って二百色あんねん。
知っている。
いや、正確には今、知った。
だが、今は明るく言い切る場面ではない。
こちらは三代分の白無垢を広げ、祖母の縫い目と母の鶴をどう残すかという、かなり繊細な保全協議の最中である。
心のアンミカには、一度、襖を静かに閉めていただきたい。
しかし。
騒がしいが、言っていることは正しい。
袖の白。
身頃の白。
衿の白。
祖母が直した糸の白。
どれも白なのに、ひとつとして同じではない。
私は全部を、ただ「古くなった白」だと思っていた。
「古くなったから白が濁ったんじゃない。最初から、それぞれ違う白だ」
弥七が続けた。
心のアンミカ、騒がしいが正しい。
今回は、そこだけ認める。
「では、真っ白には」
「できる」
弥七はあっさり言った。
「強い薬を使えばな」
「使うと?」
「染みは薄くなる。黄ばみも落ちる。白は揃う」
「よいことでは」
「鶴の糸も弱る」
胸元の鶴。
二番目に残したいもの。
「祖母の縫い糸も、切れるかもしれん」
一番目。
「布も薄くなる。見た目は白い。だが、着る日に裂けるかもしれない」
弥七は私を見た。
「白くするか。残すか。どっちだ」
簡単に聞く。
だが、簡単には答えられない。
きれいな白無垢を着せたい。
古い染みを消したい。
祖母の縫い目も残したい。
母の鶴も残したい。
全部ほしい。
前世の私は、こういう時「何とか両方できませんか」と言いがちだった。
早く。
安く。
丁寧に。
全部。
誰も傷つかず。
例外対応で。
担当者の努力で。
魔法の言葉である。
言う側だけが楽な魔法だ。
受けた側は、だいたい呪われる。
「白くしすぎないでください」
私は言った。
弥七の目が、少し動いた。
「染みは残るぞ」
「はい」
「衿の黄ばみも、全部は落ちん」
「着る方へ、もう一度説明します」
「祝いの日だ。汚れた白無垢だと言うやつもいる」
胸の中に、少し迷いが出た。
祝言。
人の目。
一生に一度。
真っ白な方が、絵姿にもきれいに残る。
古い白。
染みの跡。
それを見て、誰かが何か言うかもしれない。
「若旦那」
小春が言った。
「依頼主に見てもらいましょう」
「洗う前に?」
「はい。選んでもらうべきです」
その通りだった。
店が勝手に、思い出を優先してはいけない。
三代目が、何を着たいか。
古い白を残すのか。
新しい白へ近づけるのか。
本人が決める。
「弥七さん」
私は言った。
「一度、依頼主をこちらへ連れてきてもよろしいでしょうか」
「布を洗う前ならな」
「ありがとうございます」
「礼は、まだ早い」
やはり短い。
だが、拒まなかった。
「それと」
弥七が裾の染みを指した。
「ここは、汚れだけじゃない」
「何ですか」
「泥だ」
「泥」
「古い。祝いの日についたものだろう」
年配の女性が着た時か。
その母が着た時か。
「落ちますか」
「落とせる」
弥七は続けた。
「ただ、全部落とす必要があるかは知らん」
泥を残す。
さすがにそれは違うのでは。
祝いの衣装である。
汚れは汚れだ。
そう思った。
だが、弥七は染みの形を見ていた。
「裾の外側じゃない。内側へ跳ねている」
「雨の日だったのでしょうか」
「たぶんな」
祝いの日の雨。
歩いた。
裾を少し上げた。
それでも泥が跳ねた。
その日を歩いた証でもある。
でも、証なら何でも残せばよいわけではない。
泥は布を傷める。
「落とします」
私は言った。
「これは、思い出ではなく、布を弱らせる汚れです」
弥七が初めて、ほんの少し口元を動かした。
「全部、残せと言う若旦那かと思った」
「残すものと、落とすものは分けます」
「できるのか」
「これから学びます」
「今は、できんのか」
「はい」
正直に言った。
弥七は鼻で笑った。
馬鹿にした笑いではなかった。
「なら、見てろ」
白無垢を広げたまま、弥七は小さな布片を持ってきた。
古い白布。
同じように黄ばんでいる。
「試し洗いだ」
「白無垢そのものではなく?」
「いきなり本番へ行く馬鹿があるか」
耳が痛い。
前世では、試しもせず本番投入される仕組みがよくあった。
大丈夫でしょう。
前も似たことをやったから。
時間がないので。
そして本番で燃える。
脳内の消防隊が出動する。
今回は違う。
まず試す。
水。
洗い粉。
温度。
布の変化を見る。
「白無垢の端から、見えない糸を少し取る」
弥七が言った。
「鶴の糸。祖母の縫い糸。表布。裏地。それぞれで試す」
「糸を取っても大丈夫ですか」
「一、二本ならな。取った場所は直す」
小春が頷いた。
「私が戻します」
弥七と小春。
千代さん。
お松さん。
おきぬさん。
まだここにいない人たちの手まで、白無垢の周りへ集まってくる。
一枚を守るために。
全部を一人で抱えない。
雨の羽織で覚えたことだ。
店へ戻り、依頼主の女性と娘へ連絡を入れた。
午後。
二人はすぐに弥七の仕事場へ来た。
白無垢を、外の光で見る。
娘は、袖と身頃の白が違うことに初めて気づいた。
「本当だ」
「どれも白です」
小春が言った。
「でも、同じ白ではありません」
弥七が、二つの選択を説明する。
強く洗って、白を揃える。
染みや黄ばみは薄くなる。
その代わり、古い糸や刺繍が弱る。
やさしく洗う。
色の違いや跡は残る。
その代わり、鶴と縫い目を守れる可能性が高い。
「真っ白な方が、花嫁らしいですよね」
娘が言った。
母親は答えなかった。
店側も答えない。
娘が決める時間だ。
「私」
娘は、胸元の鶴へ触れた。
「最初は、きれいにしたいと思っていました」
「はい」
「古い感じが出たら、恥ずかしいかもしれないって」
正直な言葉だった。
それでいい。
三代の思いを受け継ぐ娘なら、古いものを無条件で愛せる。
そんなきれいな話だけではない。
自分の祝言だ。
自分も、きれいでいたい。
「でも」
娘は、祖母の曲がった縫い目を見た。
「真っ白にして、これが切れたら、たぶん後悔します」
「では、やさしく洗いますか」
「はい」
それから、少し笑った。
「白が違っても、三人分みたいでいいかもしれません」
三人分の白。
その言葉に、母親の目が潤んだ。
「裾の泥は」
弥七が聞く。
「落としてください」
娘は即答した。
「それは残さなくていいのか」
「はい。おばあちゃんの縫い目は残したい。でも、泥は次の道へ持っていかなくていいです」
いい選び方だった。
残すもの。
落とすもの。
古ければ、全部大事というわけではない。
思い出と汚れは、同じではない。
「衿の黄ばみは、少し残ります」
「顔に近いところですよね」
「そうだ」
娘は鏡のような水面へ、自分の顔を映した。
「そこだけ、新しい白布を重ねられますか」
小春が答える。
「できます。元の衿は外さず、内側へ残して、その上へ新しい衿をかけます」
「古い白と、新しい白を両方?」
「はい」
娘は頷いた。
「それがいいです」
祖母の白。
母の白。
自分の白。
同じ衣装の中で、白を揃えない。
むしろ、重ねる。
「娘さんの新しい印は」
私が聞いた。
「決まりそうですか」
「少し」
「何でしょう」
「まだ秘密です」
初めて、娘の顔に祝言前の楽しそうな笑いが出た。
よかった。
白無垢の話が、古いものを守るだけではなく、自分の祝いへ進み始めた。
弥七は白無垢を預かった。
「まず、試し洗い」
「何日ほどで」
「二日」
「早いですね」
「試すだけだ。本洗いは、そのあと」
「はい」
「急かすな」
「急かしていません」
「顔が急いでる」
顔に出ているらしい。
祝言まで三十九日。
日数が一日減るたび、脳内の小さな砂時計がざらざら鳴る。
だが、焦って布を傷めたら終わりだ。
「待ちます」
私は言った。
「待つのも仕事ですので」
「口だけなら、誰でも言う」
弥七は白無垢を箱へ戻さず、白い布でやさしく包んだ。
「二日、来るな」
「確認に一度くらい」
「来るな」
「はい」
強い。
職人の作業中へ顔を出したくなる若旦那の気持ちを、完全に読まれている。
前世でも、進捗を聞きすぎる人がいた。
どうですか。
できそうですか。
いつ終わりますか。
何か問題ありますか。
聞かれるたびに、作業が止まる。
今なら、少しわかる。
心配する側は安心したい。
でも、作る側にとっては、安心を提供する時間まで仕事へ加わる。
私は二日、行かない。
たぶん。
いや、行かない。
小春に見張られるから。
青柳屋へ戻る途中、伊織が言った。
「白くしすぎない、か」
「はい」
「商品としては、説明が必要になる」
「古い白ですからね」
「違う白を、難と見る客もいる」
「はい」
「祝いの日に、なぜ新品を着せないと言う者もいる」
「いるでしょうね」
「それでも、その白無垢を出すのか」
「娘さんが選びました」
伊織は少し黙った。
「なら、店は説明を背負え」
「説明を?」
「着る本人へだけじゃない。親戚。客。口を出す連中へもだ」
祝言は、二人だけのものではない。
周りがいる。
古い。
黄ばんでいる。
染みが残っている。
事情を知らない人は、好きに言う。
「札でもつけますか」
「白無垢へ札を下げる馬鹿があるか」
「冗談です」
「顔が半分本気だった」
また顔に出ている。
「説明は、依頼主と一緒に考えましょう」
私は言った。
「なぜ、この白を選んだのか。聞かれた時に、無理なく話せる言葉を」
「青柳屋は、着物だけでなく台詞まで仕立てるのか」
「必要なら」
「面倒な店だ」
「よく言われます」
だが伊織は、否定しなかった。
夜。
祝い直し帳へ、今日のことを書く。
弥七、白無垢確認。
白は一色ではない。
強い洗いは、鶴と祖母の縫い目を傷める恐れ。
やさしい洗いを選択。
色の違い、黄ばみ、一部残る。
裾の泥は落とす。
古い衿は残し、新しい白衿を重ねる予定。
娘の新しい印は、まだ秘密。
試し洗い、二日。
弥七より、二日間来訪禁止。
最後の一行は、藤兵衛が書いた。
私への業務命令として。
「そこまで書きますか」
「記録でございます」
「二日、本当に行きません」
「その言葉も記録いたしましょうか」
「結構です」
帳面に誓約書まで増やしたくない。
私は筆を置いた。
白くする。
きれいにする。
元へ戻す。
簡単そうな言葉だ。
でも、時間は戻らない。
祖母が着る前の白へも。
母が着る前の白へも。
布は戻れない。
戻るのではなく、今の白を整える。
残したい糸を守る。
落としたい泥を落とす。
新しい白を、一枚重ねる。
それでいい。
前世の私も、昔の自分へ戻りたいと思うことがあった。
傷つく前。
失敗する前。
疲れる前。
もっと白かった頃へ。
でも、そんな白はもうない。
戻る必要もないのかもしれない。
違う白が重なったまま、次の祝いへ行けばいい。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、過去を真っ白に洗い直そうとしないでいたい。
残す糸を選ぶ。
泥だけを落とす。
そして、自分の白を一枚、重ねる。
そう思ったところで、店先から物音がした。
ごそ。
ごそごそ。
見る。
しるべが、白無垢を運んできた桐箱の前に座っている。
中身は弥七のところだ。
箱だけが、青柳屋へ戻っている。
「しるべ」
猫は箱を見る。
「空だからといって、入りません」
箱を見る。
「これは依頼主の桐箱です」
私を見る。
「猫の寝箱ではありません」
しるべが、ゆっくり前足を上げた。
私は箱の蓋を閉めた。
一手早い。
今日は勝った。
しるべは閉じた箱の上へ乗った。
「上も駄目です」
にゃ。
「三代分です」
にゃ。
「猫の一代で押し切らないでください」
藤兵衛が静かに言った。
「若旦那」
「はい」
「箱を蔵へ移しましょう」
「そうですね」
猫との交渉ではなく、物理的に距離を取る。
これも大事である。
私は桐箱を抱えた。
逃げたのではない。
今日は白を白くしすぎないと決め、明日まで三代分の箱を猫から遠ざけるのである。




