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第41話 若旦那、箱の底から白い祝いを見つける

 空き箱直しの札を出した翌朝。


 青柳屋の店先には、箱が七つ並んでいた。


 菓子箱。


 簪箱。


 釘箱。


 人形箱。


 何が入っていたのかわからない箱。


 そして、しるべがすでに入っている箱。


「しるべ」


 私は呼んだ。


 猫は動かない。


「それはお客様の箱です」


 にゃ。


「受付済みです」


 にゃ。


「検品担当ではありません」


 しるべは、箱の角へ顎を乗せた。


 完全に自分の物である。


 前世の職場にも、こういう人がいた。


 共有の棚。


 共有の文具。


 共有の湯沸かし器。


 気づけば、いつも同じ人の私物みたいになっている。


 ただ、猫に「共有物ですから」と説明しても無駄である。


 そもそも共有という概念がない。


 世界は全部、いったん自分のもの。


 気に入らなければ放置。


 猫の資産管理、豪快すぎる。


「若旦那」


 藤兵衛が帳場から言った。


「朝一番のお客様でございます」


 暖簾の外に、年配の女性が立っていた。


 隣には、二十歳前後の娘。


 二人で、大きな桐箱を抱えている。


「箱直しをお願いしたくて」


 女性は言った。


 桐箱は、他の箱とは明らかに違った。


 長い。


 幅もある。


 蓋の端には、古い家紋。


 紐は色褪せ、角には小さな割れが入っている。


「こちらへ」


 私と藤兵衛で、箱を帳場へ置いた。


 ずしりと重い。


 空き箱ではない。


 中に何か入っている。


「開けてもよろしいですか」


「はい」


 女性が頷いた。


「中身も、一緒に見ていただきたくて」


 蓋を開ける。


 薄い紙。


 古い香の匂い。


 そして、その下に白い布が見えた。


 小春が息を止めた。


「白無垢……」


 箱の中に入っていたのは、古い花嫁衣装だった。


 白。


 だが、真っ白ではない。


 長い年月で、少し黄みを帯びている。


 鶴。


 松。


 水の流れ。


 祝いの柄が、光の角度で浮かび上がる。


 美しい。


 同時に、古い。


 袖口には薄い染み。


 裾には、何か所か茶色い跡。


 糸が弱っている部分もある。


「母の白無垢です」


 年配の女性が言った。


「そして、私も着ました」


 隣の娘が、箱の中を見つめている。


「今度、この子が祝言を挙げることになりまして」


 三代目。


 祖母。


 母。


 娘。


 一枚の白無垢が、三人の祝いの日を渡ろうとしている。


「着られますか」


 娘が聞いた。


 声に期待がある。


 でも、その奥に不安もある。


 私は、すぐに答えなかった。


 着られます。


 任せてください。


 そう言えたら格好いい。


 若旦那らしい。


 だが、布は気合いで若返らない。


 糸は、感動に忖度しない。


 前世の私の中で、何でも「大丈夫です」と返事をして、あとから地獄を見る担当者が立ち上がりかけた。


 座れ。


 今回は、まだ調べていない。


「一度、すべて広げて確認させてください」


 私は言った。


「直せるところ。直せないところ。着るために必要な手間。それから、着た時の重さも」


「重さ?」


 娘が聞く。


「古い布は、補強すると重くなることがあります」


 雨の羽織で学んだ。


 守るために布を重ねれば、動きにくくなることもある。


 よいことを足せば、必ず全部よくなるわけではない。


「祝言は、いつですか」


「四十日後です」


 四十日。


 短くはない。


 だが、白無垢を一枚、すべて見直すには長くもない。


 小春が箱の横へ座った。


「確認してもよろしいですか」


 女性が頷く。


 白無垢を、少しずつ広げる。


 袖。


 身頃。


 裾。


 裏地。


 刺繍。


 小春の指が、布の上を進む。


 途中、手が止まった。


「ここです」


 左の袖の内側。


 縫い目が一度、ほどかれた跡がある。


 そこだけ、糸の色が少し違う。


「母が直したんです」


 年配の女性が言った。


「私の祝言の前に」


「ご自分で?」


「はい。夜中まで縫っていました。上手ではなかったけれど」


 縫い目は、少し曲がっていた。


 おたまの着物に残っていた、おばあちゃんのみみずを思い出す。


 まっすぐではない。


 でも、急いで。


 娘の祝いの日に間に合わせようと。


 誰かが夜、針を持った跡だ。


「ここも、きれいに直りますか」


 娘が聞いた。


 年配の女性が、少しだけ寂しそうな顔をした。


 小春は、二人を見た。


「まっすぐにはできます」


「では」


「ただ、この縫い目は、お祖母様の手です」


 娘が、もう一度袖の内側を見る。


「見えないところですよね」


「はい。着てしまえば、ほとんど見えません」


「なら、残してもいいのかな」


 娘の声は、自分へ聞いているようだった。


 私は口を挟まなかった。


 これは店が決めることではない。


 きれいにするか。


 残すか。


 三代目が選ぶことだ。


「残したいです」


 娘が言った。


「でも、ほどけないようにはしてほしい」


「承知しました」


 小春が頷いた。


「縫い目はそのまま。内側から支えます」


 決まった。


 全部を新しくはしない。


 古い手を残す。


 ただし、次の祝いの日まで持つように支える。


 その後も、確認は続いた。


 裾の染み。


 刺繍のほつれ。


 裏地の弱り。


 衿元の黄ばみ。


 問題は多い。


 特に、裾の大きな染み。


「これは、消えますか」


 年配の女性が聞いた。


 小春は慎重に見た。


「完全には難しいと思います」


「そうですか」


「でも、柄を足すことはできます」


「柄を?」


「水の流れが、ここで途切れています」


 もともとの柄は、松の間を細い水が流れている。


 染みは、ちょうど水の先にあった。


「この染みを隠すのではなく、水の影に見せる方法があります」


「雨の羽織のように?」


 娘が聞いた。


 町で見たのだろう。


「はい。ただし、白無垢ですから、色は足しません」


「白い糸で?」


「白と銀で、水の輪を増やします」


 小春の目が、職人の目になっていた。


 傷を隠すのではない。


 景色へ入れる。


 雨の羽織で見つけた青柳屋の仕事が、白無垢へ戻ってきた。


「よいと思います」


 私は言った。


 すると藤兵衛が、横から静かに言った。


「若旦那」


「はい」


「まだ見積もり前でございます」


 現実。


 そうだった。


 よいと思います、で刺繍は増えない。


 糸代。


 手間。


 洗い。


 ほどき。


 補強。


 仕立て直し。


 感動の横には、いつも帳面がいる。


 しかも、かなり近い距離に。


「まず、手間を出しましょう」


 私は言い直した。


 女性と娘が笑った。


 見積もりには、半日かかった。


 小春だけではない。


 千代さんにも内側の補強を頼める。


 黒瀬屋の縫い手、お松さんには、裾の丈夫な縫い直しが合う。


 おきぬさんには、肌へ触れる衿元。


 そして、古い布の洗いについては、専門の洗い張り職人へ頼む必要がある。


「二つの店だけでは、できませんね」


 私が言うと、小春は頷いた。


「はい」


 青柳屋。


 黒瀬屋。


 洗い張り職人。


 それぞれの手がいる。


 全部を青柳屋の仕事にしたい気持ちが、少しだけあった。


 大きな注文。


 白無垢。


 三代をつなぐ仕事。


 青柳屋だけで仕上げたと言えたら、格好いい。


 でも、それは見栄である。


 できないことまで抱え込めば、布が泣く。


「洗い張りは、弥七さんへ頼みましょう」


 藤兵衛が言った。


「腕はよいので?」


「町一番かと」


「気難しいが」


 暖簾の外から、伊織の声がした。


 また来た。


 この男は、青柳屋へ住んでいるのか。


 いや、働いている。


 自分の店で。


 たぶん。


「白無垢か」


 伊織が箱を見る。


 驚いた顔はしない。


 だが、目が少し鋭くなった。


「弥七は、古い白を扱わせれば間違いない」


「紹介していただけますか」


「紹介はする」


「ありがとうございます」


「ただし」


 来た。


「四十日では、余裕がない」


「はい」


「洗いで一度、布が想定以上に弱る可能性がある」


「はい」


「その時は、全部を残すことはできない」


 女性の顔が曇った。


「全部を残せない?」


 伊織は曖昧にしなかった。


「布が裂ければ、替えるしかない部分もある」


 冷たい言い方に聞こえる。


 でも、必要な言葉だった。


 大丈夫だけを並べて、あとから失うより。


 最初に、可能性を伝える。


「残せるものを優先順位で決めましょう」


 私は言った。


「優先順位?」


「絶対に残したいものを、先に」


 三代の白無垢。


 全部が大事。


 だが、布の状態によっては選ばなければならない。


 娘は、少し考えた。


「祖母の縫い目」


 最初に言った。


 年配の女性が、娘を見る。


「それでいいの?」


「うん」


「柄ではなく?」


「柄は、似たものを足せるかもしれない。でも、この曲がった縫い目は、おばあちゃんの手だから」


 年配の女性の目が潤んだ。


「それから」


 娘は白無垢の胸元を見た。


「この鶴は残したいです」


「なぜですか」


「母の祝言の写真で、一番よく見えていたから」


 写真。


 この町では絵姿かもしれない。


 だが意味は伝わった。


 母が着た時に、胸元で見えていた鶴。


「では、祖母の縫い目。胸元の鶴。この二つを最優先に」


 藤兵衛が帳面へ書く。


「裾の水流と松は、状態により補修、または部分的に作り直し」


「はい」


「裏地は」


 娘が母を見る。


「替えてもいい」


 母親が頷いた。


「見えないところだから?」


 私が聞くと、娘は少し笑った。


「見えないからではなく、私が着るために必要なら」


 いい答えだった。


 残すことだけが、大切にすることではない。


 次に着るために、替えることもある。


 祖母の手を残す。


 母の鶴を残す。


 自分の身体に合う裏地へ替える。


 三代目は、ただ受け取るのではない。


 自分の選択を、一枚へ入れるのだ。


「それと」


 娘が言った。


「私の印も、一つ入れたいです」


「どんな印を」


「まだ決めていません」


「祝言までに考えましょう」


 祖母の縫い目。


 母の鶴。


 娘の一つ。


 白無垢が、ただ古いものではなくなっていく。


 三人が、それぞれに一針ずつ残す衣装。


 見積もりを伝える。


 安くはない。


 洗い。


 補強。


 刺繍。


 裏地。


 仕立て直し。


 娘は金額を聞き、少しだけ息を飲んだ。


 母親も黙った。


 ここで値を下げるべきか。


 私は一瞬、迷った。


 祝い事。


 三代。


 思い出。


 人情。


 値を下げたくなる言葉が、全部揃っている。


 前世の私は、こういう時に弱かった。


 大切なことだから。


 困っているから。


 お祝いだから。


 自分が少し我慢すれば。


 でも、それをやれば、縫う人の手間が消える。


 洗う人の技が消える。


 そして最後には、「思いのある仕事は安くしてもらえる」という変な道ができる。


「こちらが、必要な手間の値です」


 私は言った。


 声が少し硬くなった。


 娘は見積もりを、もう一度見た。


「分けて払うことはできますか」


「はい」


 私は答えた。


「最初に、洗い張りと材料分。途中の確認時に、補修分。完成時に、仕立ての残りを」


 値を下げず、払い方を変える。


 それなら、手は守れる。


 客も、無理なく準備できるかもしれない。


「お願いします」


 娘は、深く頭を下げた。


「この白無垢を、着たいです」


「承りました」


 私は頭を下げた。


 軽く言ってはいけない注文だ。


 四十日。


 三代。


 一枚。


 青柳屋にとって、これまでで最も大きな仕立て直しになる。


 箱を閉じる前、娘が袖の内側をもう一度見た。


 曲がった縫い目。


「おばあちゃん、怒るかな」


「何をですか」


「こんなに、いろいろ直したら」


 年配の女性が答えた。


「怒らないわよ」


「どうしてわかるの」


「私の祝言の時も、母は言ってたから」


「何て?」


「着物は、しまって守るものじゃない。着て汚して、また直すものだって」


 よい言葉だった。


 名言採取係が、脳内で勢いよく立ち上がる。


 今日は座っていてほしい。


 もう十分、胸がいっぱいである。


 白無垢の箱を預かる。


 その時、しるべが近づいてきた。


「しるべ」


 止まらない。


「これは絶対に駄目です」


 しるべは桐箱の匂いを嗅ぐ。


「入れません」


 箱を見る。


 私を見る。


「本当に入れません」


 しるべは、蓋の上へ前足を置いた。


 私はすぐに抱き上げた。


「三代分です」


 にゃ。


「あなたの体重を載せてよい箱ではありません」


 にゃ。


「猫の一代で対抗しないでください」


 娘が笑った。


「しるべも、祝いに参加したいのかもしれませんね」


「参加方法が重すぎます」


 しるべを、自分の箱へ戻す。


 猫は不満そうだった。


 だが今日は譲れない。


 夜。


 帳面に、今日の注文を書く。


 三代白無垢、仕立て直し。

 祝言まで四十日。

 最優先で残すもの。

 一、祖母の曲がった縫い目。

 二、母の胸元の鶴。

 三、娘の新しい印。

 洗い張り、弥七。

 内側補強、千代。

 裾の丈夫な縫い、お松。

 衿元、おきぬ。

 全体仕上げ、小春。

 青柳屋、黒瀬屋、共同確認。

 支払い、三回に分ける。

 値引きなし。


 最後の二文字を、少し強く書いた。


 値引きなし。


 思いが大きい仕事ほど、安くしてはいけないことがある。


 思いだけで針は動かない。


 技術。


 時間。


 材料。


 手の疲れ。


 そこへ、きちんと値をつける。


 その方が、最後まで丁寧に祝いを支えられる。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は、情に流されて手を安くするのではなく、情があるからこそ、手を守れる人でいたい。


 白無垢は、箱の中で眠っている。


 空き箱直しの札から始まった相談が、箱の底に眠っていた祝いの日を起こした。


 空いた箱にも役目がある。


 中身のある箱には、まだ続きがある。


 そう思ったところで、藤兵衛が静かに言った。


「若旦那」


「はい」


「白無垢用の進行帳を、新しく一冊用意いたします」


 また帳面が増える。


 だが、今回は仕方ない。


「表題は、どうしますか」


 私は少し考えた。


「三代白無垢、祝い直し」


 藤兵衛は筆を止めた。


「祝い直し」


「仕立て直しだけではなく、次の祝いへ渡す仕事なので」


 藤兵衛は、ゆっくり頷いた。


「今回は、情緒が過ぎるとは申しません」


「ありがとうございます」


 帳面の表紙に、文字が入る。


 三代白無垢 祝い直し


 その横で、しるべが自分の空き箱から顔だけを出していた。


「あなたは関係ありません」


 にゃ。


「祝い直し帳には載せません」


 にゃ。


 猫は納得していない。


 だが、白無垢の桐箱には入れない。


 絶対に。


 私は帳面と桐箱と猫を順番に見た。


 逃げたのではない。


 今日は箱の底から三代分の祝いを預かり、明日から町じゅうの職人と一枚の白を起こすのである。



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