第40話 若旦那、猫の箱に値をつけかける
花街の稽古人形、小夜を送り出した翌朝。
青柳屋の店先には、箱があった。
昨日、小夜を預かるために使った木箱である。
中は空。
蓋は外してある。
角は少し丸く、底には古い布を一枚敷いている。
そして、その中に、しるべが入っていた。
ぎゅうぎゅうである。
白黒の身体が、箱の四辺にぴったり押し込まれている。
尻尾だけが、はみ出している。
明らかに小さい。
だが、しるべは満足そうだった。
「……なぜ、そこまでして入るんですか」
私が言っても、しるべは動かない。
猫は、箱を見ると入る。
これは法則なのか。
前世の記憶でも、猫はだいたい箱に入っていた。
高い寝床を買っても、梱包の箱に入る。
ふかふかの布団を用意しても、段ボールに入る。
人間の善意を、価格ごと無視する。
そして人間は言うのだ。
そっちかい、と。
異世界でも同じだった。
猫の箱好きに、時空は関係ないらしい。
「若旦那!」
お鈴が店先から駆け込んできた。
「お客様です!」
「朝からですか」
「はい。しるべの箱を見に」
「しるべではなく、箱を?」
「はい。箱を」
嫌な予感がした。
店先へ出ると、子どもが三人、若葉、それから茶屋の主人まで立っていた。
全員、箱を見ている。
「若旦那さん」
若葉が言った。
「花街の子たちが、しるべの寝箱を見たいって」
「寝箱」
「はい。昨日、私がうっかり話してしまって」
伝わった。
やはり伝わった。
町の噂には翼がある。
花街まで飛ぶ噂には、簪どころか羽織まで着ている。
「若旦那、うちの人形にも箱ほしい」
「猫が入れるやつ」
「豆助も入れるかな」
「犬は、たぶん入りません」
子どもたちは勝手に相談を始めている。
茶屋の主人まで、腕を組んで真剣な顔をしていた。
「若旦那、茶屋にも一つ置いたらどうですかね」
「何をですか」
「猫の寝箱」
「猫待ち台があるでしょう」
「でも、箱に入る猫もいい」
わかる。
わかってしまう。
箱に入る猫は、強い。
寝ているだけの猫より、少し物語がある。
なぜ入ったのか。
狭くないのか。
出る気はあるのか。
人間の問いを全部無視して、猫は箱の中で丸くなる。
その無視の仕方が、妙にありがたい。
「作るんですか?」
お鈴が期待に満ちた顔で聞いた。
「作りません」
私は即答した。
しるべが、にゃと鳴いた。
「あなたのためにも言っています」
にゃ。
「猫用寝箱部門は開店しません」
そう言い切った瞬間、暖簾が揺れた。
「作れば売れるぞ」
黒瀬伊織だった。
出た。
合理性が、また朝から着物を着て来た。
「伊織さん」
「その箱、町で評判になっている」
「早すぎませんか」
「評判になるものは早い」
「ただの空き箱です」
「ただの空き箱に猫が入った。だから評判になった」
伊織は箱を見る。
しるべは箱の中で、目だけ動かした。
「大きさを三種。猫用、人形用、小犬用。中敷き布は青柳屋。箱は黒瀬屋の荷箱職人に頼める」
「もう企画になっていますね」
「需要がある」
「需要があるからといって、すぐ商品にしてよいのでしょうか」
「商人が何を言っている」
正論。
売れるものを作る。
それは商いの基本である。
しかも材料はある。
青柳屋には端切れがある。
黒瀬屋には荷箱のつながりがある。
しるべは実演販売をしている。
いや、実演販売ではない。
本人は寝ているだけである。
だが、この世には寝ているだけで広告になる存在がいる。
猫である。
「若旦那」
藤兵衛が帳場から言った。
「商品とするなら、寸法、材料、手間賃、納期の整理が必要です」
「藤兵衛さんまで」
「まだ反対も賛成もしておりません。帳面上の確認でございます」
帳面は冷静だ。
情緒にも猫にも流されない。
小春は箱の中敷き布を見ていた。
「これ、古い端切れを畳んだだけですね」
「はい」
「でも、しるべには十分そうです」
「十分どころか、本人はかなり満足しています」
しるべは、むにゃ、とでも言いそうな顔で目を閉じている。
腹が立つ。
少し。
でも、かわいい。
負けそうになる。
「作るなら」
小春が続けた。
「箱そのものより、中に敷く布の方が青柳屋の仕事ですね」
「猫用敷き布」
「しるべ布と、重なります」
「ですよね」
すでにある。
しるべ布。
猫待ち台。
休み布。
ここに寝箱まで加えると、青柳屋の猫関連商品が増えすぎる。
呉服屋である。
忘れてはいけない。
黒瀬にも「飯屋になったのか」と言われたばかりだ。
今度は猫家具屋になったのか、と言われる。
いや、目の前の黒瀬が言い出している。
どういうことだ。
「伊織さん」
「何だ」
「黒瀬屋は、青柳屋を呉服屋に戻したいのか、猫用品屋にしたいのか、どちらですか」
「売れるなら使えと言っているだけだ」
「つまり猫用品屋へ」
「違う」
「でも、猫用、人形用、小犬用と」
「試算だ」
試算が速い。
この男の頭の中には、常に小さな算盤が走っている。
しかも足が速い。
「若旦那さん」
若葉が遠慮がちに言った。
「花街では、箱そのものより、使い終わった箱を少しきれいにしてもらえたら嬉しいかもしれません」
「使い終わった箱を?」
「はい。簪や稽古道具の箱が、捨てるには惜しいけれど、そのままでは少し傷んでいるものがあるんです」
なるほど。
新しく作るのではない。
使い終わった箱を、もう一度使えるようにする。
人形の布団にもできる。
小物入れにもできる。
猫が入ることもある。
ただし、猫は勝手に入る。
「箱を売るのではなく、箱を整える」
私はつぶやいた。
小春が頷いた。
「内側へ布を貼れば、道具入れにもできます」
「傷んだ角は?」
「薄い布を巻いて補強できます」
千代さんが、ちょうど黒瀬屋から見本布を届けに来ていた。
「小さな箱なら、私にもできます」
少し前なら、そうは言わなかったかもしれない。
人形の布団を作ったことで、千代さんの中に小さな柱が立っている。
「では、箱直しとして受けましょうか」
私が言うと、伊織がすぐに言った。
「それでは数が出ない」
「出なくてよいです」
「なぜ」
「空き箱は、空いたから使えるのです」
「何だ、それは」
「新しく作った箱を、空き箱とは呼べません」
伊織は眉を寄せた。
我ながら、少し妙なことを言っている。
だが、感覚としては正しかった。
空き箱には、使われた時間がある。
何かを運んできた跡。
誰かが開けた跡。
角の擦れ。
蓋の癖。
それを全部消して、新品の箱を大量に作るなら、それはもう別物だ。
しるべが気に入ったのは、新品の高級寝箱ではない。
小夜を守っていた空き箱だ。
役目を終えた箱が、もう一度、猫の寝床になった。
そこがよかったのだ。
「売るなら、箱ではなく手直しです」
私は言った。
「持ち込まれた箱を見て、布を貼る。角を直す。人形用、道具用、猫用になるかは、その箱次第」
「規格化しづらい」
「はい」
「手間がかかる」
「はい」
「高く売りづらい」
「はい」
「商売としては弱い」
「たぶん」
伊織は、しばらく黙った。
それから、しるべが入っている箱を見た。
「だが、青柳屋らしい」
低い声だった。
褒めているのか。
保留なのか。
黒瀬伊織語は、まだ完全には読めない。
「では、箱直し」
藤兵衛が帳面へ書いた。
「小物箱、稽古箱、人形箱、猫が入る可能性のある箱」
「最後、必要ですか」
「問い合わせが来るかと」
来る。
絶対に来る。
そして、それはだいたい子どもから来る。
子どもは、大人が避けた曖昧さを、正面から聞いてくる。
「猫は入りますか」
「猫次第です」
これが答えになるのだろうか。
たぶん、なる。
猫なので。
昼前、若葉が花街から小さな箱を二つ持ってきた。
一つは簪が入っていた箱。
もう一つは、小夜の稽古道具をしまう箱。
どちらも角が擦れている。
蓋の内側には、白粉の粉が少しついていた。
「これは、きれいにしすぎない方がよいですね」
千代さんが言った。
「どうしてですか」
若葉が聞く。
「白粉の跡が、少し残っている方が、その箱らしいので」
「でも、汚れでは」
「食べ物を入れる箱ではありません。触るところだけ拭いて、内側へ薄い布を貼れば」
千代さんは、箱の底を指で示した。
「道具も傷つきません」
見せるためではない布。
眠るための布。
今度は、しまうための布。
千代さんの仕事が、少しずつ広がっている。
「布は、地味でよいですか」
千代さんが聞いた。
若葉は笑った。
「はい。眠る布と同じで」
「では、灰色の木綿を薄く」
「小さな花は?」
「箱の蓋の裏へ、一つ」
若葉の顔が明るくなった。
箱の中に、見えない花。
また一つ、誰にも見せない場所ができる。
そのやり取りを見ていた伊織が、ぼそりと言った。
「見えない場所に花を入れるのが、流行るな」
「嫌ですか」
「悪くない」
「褒めましたね」
「事実だ」
最近の伊織は、少しずつ逃げ方が雑になっている。
褒めている時は、もう少し隠してほしい。
いや、隠さなくていい。
人は変わる。
ライバルも、少しだけ変わる。
午後には、子どもたちも箱を持ってきた。
菓子が入っていた小箱。
釘が入っていた木箱。
蓋のない箱。
底が抜けかけている箱。
そして、おさよが持ってきたのは、おたまを入れていた古い箱だった。
「これ、おたまのお部屋にしたい」
「お布団はありますよね」
「うん。でも、お部屋もほしい」
ついに人形の住居問題である。
布団から部屋へ。
住環境整備。
前世の私の脳内に、不動産チラシが舞った。
駅徒歩なし。
日当たり良好。
猫の侵入注意。
「お部屋にするなら、窓を描きますか」
お鈴が言った。
「窓!」
おさよの目が輝く。
増えた。
箱直しに装飾要素が増えた。
「窓は描けます」
千代さんが言った。
「ただ、穴は開けません」
「なんで?」
「箱が弱くなるからです」
「じゃあ描く」
「はい」
千代さん、もう立派に客対応をしている。
理由を言い、代わりを出す。
断るだけではない。
それができるようになると、商いはずいぶん強くなる。
夕方まで、青柳屋は箱だらけになった。
呉服屋である。
布を売る店である。
なのに今日は、箱、箱、箱。
しるべは、どの箱にも順番に入ろうとした。
「しるべ」
止まらない。
「それはお客様の箱です」
止まらない。
「検品ではありません」
しるべは、釘箱だった木箱へ前足を入れ、すぐに出た。
中が固かったらしい。
次に、菓子箱へ入る。
小さい。
無理。
尻尾だけではなく、肩まで出ている。
「それは無理です」
しるべは諦めない。
猫は、箱に対して自分の体積を過小評価する傾向がある。
最終的に、花街の簪箱へ向かったところで、若葉が慌てて抱き上げた。
「しるべ、それはだめ」
しるべは不満そうに鳴いた。
「花街の箱には、白菊姉さんの簪が入るんだから」
にゃ。
「あなたは入らないの」
にゃ。
若葉、猫への注意がうまい。
花街で鍛えられているのだろうか。
いや、猫と花魁修行を並べるな。
夜。
帳面へ今日のことを書く。
空き箱直し、開始。
新しく箱を売るのではなく、使い終えた箱を整える。
内側へ布。
角を補強。
蓋裏へ小さな花。
人形部屋、相談あり。
猫が入るかは、猫次第。
しるべ、検品を装い複数の箱へ侵入。
最後の一行は、正確に書く。
装っているかどうかは不明だが、結果としてはそう見える。
私は筆を置き、空き箱を見た。
箱は、中身がある時だけ大事にされる。
届いた品を守り、役目を終えれば、邪魔になる。
捨てられる。
潰される。
でも、空いたからこそ、別のものを入れられる。
空いていることは、役目がないことではない。
次の役目を待てる状態なのだ。
前世の私は、空白が怖かった。
予定のない日。
返信のない時間。
何も生まれない午後。
空いている自分を、価値がないように感じていた。
でも、箱は空いているから、猫が入る。
人形の部屋になる。
簪を休ませる。
誰かの小さな花を、蓋の裏へ隠せる。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、空いている時間をすぐに埋めようとしないでいたい。
空き箱には、空き箱の値がある。
ただし、新品を作って空き箱として売るのは、少し違う。
そこだけは譲れない。
そう思ったところで、藤兵衛が静かに言った。
「若旦那」
「はい」
「箱直しの受付札、文言はいかがいたしましょう」
また札である。
最近の青柳屋は、札を立てすぎて店先が小さな役場の掲示板みたいになってきた。
私は少し考えた。
「使い終えた箱、もう一度お役目を」
藤兵衛は筆を止めた。
「悪くありませんが、やや寺の掲示板に近うございます」
「では」
伊織が横から言った。
まだいた。
「空き箱、整えます」
短い。
強い。
そして商いらしい。
「採用です」
「黒瀬屋案とは書くな」
「今回は書きません」
「当たり前だ」
お鈴が札を書いた。
空き箱、整えます。
人形、道具、猫はご相談ください。
「猫はご相談ください、でいいんですか」
私が聞く。
お鈴はにこにこしている。
「相談だけなら」
そうか。
相談だけなら。
いや、相談から全部始まるのだ。
青柳屋のこれまでが、ほとんどそうだった。
私は箱の中で丸くなるしるべを見た。
逃げたのではない。
今日は猫の箱に値をつけかけて、明日から空き箱の相談窓口が開いてしまったのである。
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