第39話 若旦那、花街の人形を寝かせる
若葉が青柳屋へ持ってきた人形は、ずいぶん華やかな姿をしていた。
赤い小袖。
金糸の帯。
黒い髪には、小さな簪まで挿してある。
人形とはいえ、さすが花街育ちである。
青柳屋の帳場に座らせると、周りの反物よりよほど堂々として見えた。
「この子のお布団を、お願いしたいんです」
若葉が言った。
「稽古に使う人形なのですよね」
「はい。着物の畳み方や、髪飾りの合わせ方を覚える時に使います」
なるほど。
ただ飾るための人形ではない。
花街の娘たちが、大人の所作を覚えるための人形だ。
帯を締める。
襟を合わせる。
簪を選ぶ。
笑い方を覚える。
この小さな身体に、ずいぶん多くの稽古が詰まっている。
「名前はありますか」
私が聞くと、若葉は少し困った顔をした。
「みんな、稽古人形って呼んでいます」
「お名前はないのですか」
「はい。誰のものでもないので」
誰のものでもない。
だから、名前もない。
その言葉が、少し胸に引っかかった。
人形は、誰に抱かれるわけでもない。
稽古が終われば棚へ戻される。
毎日いろいろな娘の手に触れられるのに、誰からも自分の名では呼ばれない。
前世の職場にも、似たものがあった。
共用。
備品。
担当なし。
誰でも使えるものは、時々、誰にも大切にされなくなる。
壊れていても、誰かが直すだろう。
汚れていても、自分のものではない。
責任だけが、空中を漂う。
「若葉さん」
「はい」
「名前をつけてもよいのでは」
「私がですか」
「いつも使っている方たちで」
若葉は人形を見た。
「白菊姉さんに聞いてみます」
「それがよいと思います」
その横で、千代さんは人形の寸法を測っていた。
前回、人形の布団を四組仕立てたことで、手つきが少し変わっている。
もう、誰かの指示を待ってから動くのではない。
首から足先まで。
肩幅。
髪飾りの高さ。
帯の厚み。
紐に印をつけ、帳面へ数字を書いていく。
「髪飾りをつけたまま寝かせますか」
千代さんが聞いた。
若葉は首を傾げた。
「いつもは、つけたまま棚へ置きます」
「では、枕は低い方がよいですね。簪が引っかかりますから」
「そんなところまで」
「眠らせるなら」
千代さんは人形を見つめた。
「きちんと眠れる形にしたいです」
人形は眠らない。
それは皆、わかっている。
それでも千代さんは、眠れる形と言った。
それが、少しよかった。
「どんな布がよいでしょう」
小春が端切れ籠を出した。
人形の着物に合わせるなら、華やかな布がよい。
朱色。
金襴。
花柄。
紫。
どれも花街の人形に似合う。
お鈴が金糸の入った端切れを広げた。
「こちら、きれいです!」
「花街らしいですね」
小春も頷く。
だが、若葉はすぐには選ばなかった。
華やかな布を一枚ずつ見てから、籠の奥へ手を伸ばした。
取り出したのは、薄い灰色の木綿だった。
何の柄もない。
金糸もない。
少しだけ柔らかく、何度か洗われたような布。
「こちらですか」
私が聞くと、若葉は頷いた。
「変でしょうか」
「華やかではありませんね」
「はい」
若葉は人形の着物へ触れた。
「この子、昼はずっと華やかな格好をさせられるんです」
帯を替えられる。
簪を挿される。
襟を何度も直される。
娘たちの稽古のために、一日中きれいな姿をしている。
「だから、眠る時くらいは」
若葉は灰色の布を撫でた。
「何もついていない方が、休める気がします」
店の中が、少し静かになった。
よい選び方だった。
見せるための人形に、見せないための布団。
華やかな着物を着るからこそ、寝床は地味でよい。
「こちらにしましょう」
千代さんが言った。
「でも」
若葉が少し心配そうに布を見た。
「花街からの注文なのに、こんな地味な布でよいのでしょうか」
「眠るための布団です」
千代さんは、今度は迷わなかった。
「人に見せるための布ではありません」
その言葉に、小春が少し笑った。
千代さん自身も、長く見えない場所を縫ってきた。
帯の裏。
袖の内側。
誰にも名前を知られない仕事。
だからこそ、見せないための布の値を知っているのかもしれない。
「では、灰色で」
若葉が言った。
「ただ、一つだけ」
「何でしょう」
「小さな花を、入れてもらえますか」
「花街らしく?」
「いいえ」
若葉は少し考えた。
「白い、名もない花を一つだけ」
名もない花。
小さくて。
目立たなくて。
でも、よく見れば咲いている花。
「枕の裏へ入れましょうか」
千代さんが提案した。
「裏?」
「普段は見えません。でも、枕を返した時だけ見えます」
若葉の顔が明るくなった。
「それがいいです」
決まった。
薄灰色の敷き布団。
同じ色の掛け布団。
低い枕。
その裏に、小さな白い花。
華やかな人形のための、誰にも見せない寝床。
「お代は」
若葉が巾着を出した。
千代さんは、材料と手間を考えた。
前なら、小春か私の顔を見ていただろう。
だが今日は、自分で言った。
「こちらです」
金額を伝える。
若葉は少し驚いた。
「思ったより、きちんとするんですね」
地味な布なのに。
小さな布団なのに。
そういう意味だろう。
「布は地味ですが」
千代さんが言う。
「髪飾りに当たらない枕と、帯が崩れない厚みを考えます。花も一つ縫います」
「では、そのお代ですね」
「はい」
若葉は、きちんと銭を払った。
「お願いします、千代さん」
名前を呼ばれた。
千代さんの背筋が、少しだけ伸びた。
「承りました」
その日の午後、布団作りが始まった。
灰色の木綿を切る。
古い綿を洗い直したものを、薄く均等に入れる。
人形の帯が厚いため、背中が沈みすぎないよう、敷き布団の中央だけ綿を少し減らす。
「普通は、中央を厚くするのでは」
私が聞くと、千代さんは人形を寝かせて見せた。
「帯がありますから、そのままだと腰が浮きます」
「なるほど」
「ここを少し薄くすると、背中が落ち着きます」
完全に人形寝具職人である。
数日前まで、帯の裏だけを縫っていた千代さんが、いまや人形の体格と帯の厚みから寝心地を考えている。
人は、役目を渡されると急に見えるものが増える。
「若旦那」
お鈴が人形を見ながら言った。
「この子、帯を外して寝ればよいのでは」
全員が止まった。
正論。
あまりにも正論。
稽古が終わったら、帯も髪飾りも外せばいい。
そうすれば、枕も敷き布団も普通でよい。
お鈴。
今、それを言うのか。
人形寝具設計会議の根本を揺らすな。
「でも」
若葉が言った。
「稽古の途中で、急に呼ばれることもあるんです。そういう時は、着せたまま棚へ置きます」
「なるほど」
救われた。
いや、何に救われたのだ。
人形用特殊寝具の存在意義である。
脳内の事業計画が、廃業寸前から戻ってきた。
「お鈴さん」
「はい」
「よい疑問でした」
「褒められました?」
「半分だけ」
千代さんは笑いながら、作業を続けた。
枕の裏へ、白い花を縫う。
小さな花びらが五枚。
中心に、淡い黄色の糸。
名もない花。
だが、誰かが見つけるために縫われた花だ。
夕方。
白菊さんが、若葉と一緒に青柳屋へやって来た。
「稽古人形へ布団を頼んだと聞きまして」
「勝手にすみません」
若葉が頭を下げる。
「怒ってはいませんよ」
白菊さんは人形を見た。
華やかな姿。
その横に、地味な灰色の布団。
「よい色ですね」
「地味ではありませんか」
千代さんが聞くと、白菊さんは微笑んだ。
「眠る時まで、人に見せる顔をしなくてもよいでしょう」
若葉と同じことを言った。
やはり、似ている。
姉妹ではない。
でも、同じ場所で長く生きると、考え方がどこか似てくるのかもしれない。
「それで」
白菊さんは人形へ手を伸ばした。
「この子の名ですが」
「決まりましたか」
「皆で相談しました」
若葉が嬉しそうに言う。
「小夜です」
「さよ」
「夜に、きちんと休めるように」
小夜。
昼は稽古を支え。
夜は灰色の布団で休む。
よい名だった。
「小夜さんですね」
千代さんが帳面へ書く。
注文主。
花街。
人形名、小夜。
担当、千代。
人形にも名がつき。
職人にも名がある。
誰が作り。
誰が使うのか。
それだけで、仕事の輪郭が少しはっきりする。
「完成は四日後です」
千代さんが言った。
「三日でできますが、最後の一日で寝かせて確かめます」
「寝かせて?」
白菊さんが笑う。
「はい。帯や簪が当たらないか」
「人形を一晩寝かせるのですね」
「はい」
「では、小夜にとって、青柳屋へ初めてのお泊まりですね」
お泊まり。
急に責任が重くなった。
人形である。
動かない。
食事もいらない。
夜泣きもしない。
それでも「預かる」となると、何か起きそうな気がする。
特に青柳屋には、しるべがいる。
私は猫を見る。
しるべも、人形を見ている。
嫌な予感しかしない。
「小夜さんは、夜はこちらの箱へ入れましょう」
私は言った。
「猫の手が届かないところへ」
「しるべ、何かするんですか」
若葉が聞く。
「何かするとは限りません」
「しないとは?」
「言えません」
猫への信頼がない。
実績に基づく評価である。
四日後。
布団は完成した。
敷き布団へ人形を寝かせる。
帯は崩れない。
髪飾りも枕へ当たらない。
掛け布団は、着物の金糸を隠すように静かに胸元までかかる。
華やかな小夜が、灰色の中で初めてただの人形に見えた。
「おやすみなさい」
千代さんが、小さく言った。
そして枕を裏返す。
白い花が、一つだけ咲いている。
「きれい」
若葉が言った。
「見えないのが、もったいないですね」
私が言うと、白菊さんは首を横に振った。
「見えないから、よいのです」
「そういうものですか」
「誰にも見られない場所に、自分だけが知っている花がある」
白菊さんは、枕を元へ戻した。
「それは、案外、人を強くします」
人形だが。
そう言いかけて、やめた。
これは人形だけの話ではない。
白菊さんも。
若葉も。
小春も。
千代さんも。
人に見えないところに、自分だけの何かを持っているのかもしれない。
表では華やかに。
裏では、地味な布団と小さな花。
その両方があって、一日を続けられる。
「千代さん」
白菊さんが言った。
「花街の人形用の布団を、今後もお願いできますか」
「今後も?」
「人形は、小夜だけではありません。髪結いの稽古用も、帯の稽古用もあります」
千代さんの目が大きくなる。
人形寝具部門。
正式に花街へ進出。
始まりは、しるべが小さな布団へ無理やり乗ったことだった。
猫のはみ出しから、職人の仕事が一つ生まれた。
商いの入口とは、本当にわからない。
「はい」
千代さんは、深く頭を下げた。
「私でよろしければ」
「あなたがよいのです」
白菊さんは、はっきり言った。
千代さんの名が、また一つ町へ出た。
夜。
帳面に今日のことを書く。
花街稽古人形。
名、小夜。
灰色木綿の寝具一式。
帯の厚みに合わせ、敷き布団中央を薄くする。
低い枕。
枕裏へ、白い花一つ。
担当、千代。
花街より、今後の人形寝具も相談予定。
小夜、青柳屋に一泊。
しるべとの接触なし。
最後の一行は重要である。
預かり品の安全管理。
猫から守った。
何も起きなかった。
それも立派な実績だ。
私は帳面を見ながら思った。
昼の顔。
夜の顔。
人へ見せる布。
誰にも見せない布。
どちらか一つだけでは、きっと疲れる。
前世の私は、人へ見せる顔のまま家へ帰ることがあった。
大丈夫です。
平気です。
できます。
その顔を外す場所がなくて、布団の中まで力が入っていた。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、眠る時くらい、何も飾らなくてよい人でいたい。
そして、誰かが人に見せる顔を外した時。
そこへ、地味でやわらかな布を敷ける人でいたい。
名もない花が一つあれば、十分な夜もある。
そう思ったところで、店先から物音がした。
かさ。
かさかさ。
見る。
しるべが、小夜を運んだ空の箱へ入っている。
「しるべ」
猫は箱の中で丸くなった。
「そこは小夜さんの箱です」
にゃ。
「もう帰りましたけど」
にゃ。
「だからといって、あなたの寝床ではありません」
しるべは動かない。
空になった箱は、猫のもの。
猫界では、そういう決まりらしい。
藤兵衛が静かに言った。
「若旦那」
「はい」
「猫用寝具より、箱の方が安く済むのでは」
確かに。
人形の布団を狙い続けていた猫が、最後には空箱で満足している。
高級布も。
特注枕も。
必要なかった。
猫の需要調査、完了。
「猫用寝具部門は、廃止で」
「まだ始まっておりません」
「では、開始しない方向で」
その瞬間、若葉が忘れ物を取りに戻ってきた。
箱の中のしるべを見る。
「あら、しるべにも寝箱ができたんですね」
「違います」
「花街の子たち、猫用も欲しがるかもしれません」
「伝えないでください」
若葉は笑って帰っていった。
遅い。
たぶん伝わる。
町の噂には翼がある。
花街まで飛ぶなら、簪くらい挿しているかもしれない。
私は空箱へ収まったしるべを見下ろした。
逃げたのではない。
今日は花街の人形を眠らせ、明日は猫の箱を商品化しないための言い訳を考えるのである。




