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第53話 若旦那、六十反の穴を人の手で埋めない

 御用布を大浜屋が落札した翌朝。


 青柳屋へ、最初に来たのは客ではなかった。


「若旦那」


 染め場の親方だった。


 昨日、ひと月で四十反までなら無理なくできる、と言っていた男である。


 今日は、顔が険しい。


「どうしました」


「大浜屋から話が来た」


 やはり。


「何反ですか」


「二十」


「追加で?」


「ああ」


 親方の染め場は、すでに通常の仕事を抱えている。


 そこへ二十。


「納期は」


「二十五日」


 短い。


「手間賃は?」


 親方は黙った。


 それだけで。


 だいたいわかった。


「うちへ出した数字より、安いですか」


「三割」


 三割。


 頭の中で。


 何かが冷えた。


「理由は」


「御用だから、だとよ」


 出た。


 魔法の言葉。


 御用。


 町のため。


 名誉。


 次につながる。


 その言葉を一枚かぶせるだけで、なぜか人の手間まで薄くなる。


「受けたんですか」


「まだだ」


 親方は腕を組んだ。


「だから来た」


「私に?」


「あんた、昨日言っただろ」


「何を」


「頑張れば、を抜けって」


 私は黙った。


「俺ぁな」


 親方は少し困ったように笑った。


「自分で四十って言ったあと、少し恥ずかしかったんだ」


「どうしてです」


「他の染め場が五十って言ったら、俺んとこが怠けてるように見えるだろ」


 わかる。


 非常にわかる。


 数字は。


 並べた瞬間に競争になる。


 四十。


 四十五。


 五十。


 一番少ない人が、弱く見える。


 だが。


 釜の数も違う。


 人数も違う。


 抱えている仕事も違う。


 家族も。


 身体も。


 全部違う。


「でも」


 親方は続けた。


「昨日、四十でいいって言われたから」


「はい」


「久しぶりに、四十で帰った」


「帰った?」


「夜、家に」


 私は少しだけ笑った。


「普段は?」


「五十やる時ゃ、寝るのが夜中だ」


 笑えない。


「で」


 親方は大浜屋から渡された紙を、帳場へ置いた。


「二十、足せと言われてる」


 四十。


 プラス二十。


 六十。


 単純に五割増し。


 しかも手間賃三割減。


 算盤がおかしい。


 どこからどう見ても。


 おかしい。


「断れば?」


「御用に逆らったと言われる」


「大浜屋に?」


「大浜屋だけならいい」


 親方は声を落とした。


「代官所の御用だ」


 そこ。


 怖いのは。


 大浜屋ではない。


 その後ろに。


 灰田主膳の顔が見えることだ。


 御用を断る。


 それが。


 町へ逆らう。


 代官へ逆らう。


 そんな意味へ、勝手に変換される。


「親方」


 私は聞いた。


「二十反、できますか」


「できる」


 即答。


「……できるんですか」


「寝なきゃな」


 違う。


「では、できません」


 親方が私を見る。


「何だそりゃ」


「寝ないとできないなら、できないです」


「商人がそんなことで」


「そんなことですか」


 親方が黙る。


「釜が壊れたら?」


「困る」


「職人さんが倒れたら?」


「もっと困る」


「では、できないです」


 我ながら。


 乱暴な理屈だと思う。


 でも。


 今はそれくらい言い切らないと。


 全部。


 頑張れば、に吸い込まれる。


 その時。


 暖簾が揺れた。


「俺も同じことを言われた」


 お松さんだった。


「何反ですか」


「十二」


「手間賃は」


「四分の一ほど下げろと」


 次。


 おきぬさん。


「私は八」


 次。


 別の織元。


「十五」


 午前中だけで。


 青柳屋の帳場に。


 御用を取っていない店の相談者が六人集まった。


「……なんで、うちなんでしょうね」


 私が言うと。


 藤兵衛が静かに答えた。


「断ってもよい数字を、一度口にしたからでは」


 ああ。


 そうか。


 ここなら。


 無理だと言っても。


 怠け者扱いされない。


 そう思われたのか。


 少し。


 うれしい。


 でも。


 その分。


 重い。


 私は大浜屋から来た依頼を、一件ずつ書き出した。


 染め場。


 二十。


 織元。


 十五。


 お松さん。


 十二。


 おきぬさん。


 八。


 別の縫い手。


 五。


 合計。


「六十」


 藤兵衛が言った。


 全員が黙った。


 六十。


 昨日。


 青柳屋が三百から引いた数。


 三百。


 引く。


 二百四十。


 その穴。


 六十。


「……ぴったりですね」


 小春が言った。


「はい」


 大浜屋は。


 三百できます。


 と書いた。


 でも。


 持っていない六十を。


 町じゅうから集め始めている。


 しかも。


 安く。


 急いで。


 昨日。


 紙の上には。


 三百。


 とだけ書かれていた。


 その下に。


 今日。


 人の名前が六十反分、出てきた。


 私は少し怖くなった。


 数字というものは。


 人の名前を消すと。


 急に軽くなる。


 三百反。


 と書けば。


 一行。


 でも。


 その一行の下に。


 何人が夜中まで針を持つか。


 何人が飯を急いで食うか。


 何人が家へ帰れないか。


 それは書かれない。


「若旦那」


 親方が言った。


「どうすりゃいい」


 来た。


 正直。


 困る。


 私は御用を取っていない。


 青柳屋には命令する権利もない。


 大浜屋へ、


 やめろ。


 とも言えない。


 それをやれば。


 落札できなかった店の嫌がらせ。


 そう見える。


 しかも。


 その言い分にも一理ある。


 悔しいから邪魔している。


 自分の中に。


 その気持ちがゼロかと言われれば。


 ゼロではない。


 大浜屋が失敗して。


 ほら見ろ。


 と思いたい自分もいる。


 いる。


 嫌だが。


 いる。


 だからこそ。


 慎重にしないといけない。


「断ってください」


 私は言わなかった。


 全員の顔を見る。


「受けるかどうかは、皆さんが決めてください」


「でも」


「ただ」


 私は帳面を出した。


「受ける前に、これを書いてください」


「何を」


「普段の仕事」


 私は項目を作る。


 一。


 今月、すでに受けている反数。


 二。


 御用を追加した場合の、一日の仕事時間。


 三。


 増える夜仕事の日数。


 四。


 休める日。


 五。


 その手間賃。


「……役所みてえだな」


 親方が言った。


 ぐっ。


 前世が出た。


「すみません」


「いや」


 親方が笑った。


「わかりやすい」


 よかった。


 様式増殖罪。


 今回は不起訴。


「それを書いて」


 私は言った。


「それでも受けたいなら、受けてください」


「止めねえのか」


「止めません」


 金が必要な人もいる。


 御用をやってみたい人もいる。


 一時的に忙しくても、今月ならできる人もいる。


 こちらが勝手に、


 あなたのためです。


 と言って断らせるのも違う。


「ただ」


 私は六十と書いた紙を指差した。


「この六十が、どこから出ているのかだけは、消さないでおきたいです」


 午後。


 職人たちが。


 一人ずつ。


 計算をした。


 お松さん。


 十二反を受ければ。


 十日間。


 夜仕事。


「十日は……きついねえ」


「手間賃は?」


「この値」


「普段なら?」


「これくらい」


 並べる。


 差が見える。


 お松さんは首を振った。


「私は断る」


「わかりました」


 おきぬさん。


 八反。


 彼女は少し考えた。


「四反ならできる」


「では、その数字を大浜屋へ」


「半分だけ?」


「はい」


「怒られませんかね」


「怒るかもしれません」


「若旦那」


「はい」


「もう少し安心させておくれよ」


「すみません」


 嘘は言えない。


 怒られる可能性はある。


 ただ。


「四反なら責任を持てる、と言ってください」


 おきぬさんは頷いた。


「それなら言える」


 染め場の親方。


 二十。


 考える。


 考える。


 そして。


「五なら」


「五」


「ああ」


「残り十五は?」


「知らん」


 いい。


 その「知らん」が。


 今は必要だ。


 自分の仕事ではない穴まで。


 自分の身体で埋めなくていい。


 夕方。


 黒瀬伊織が来た。


 紙を見る。


「六十か」


「ぴったりです」


「想定どおりだな」


「想定してたんですか」


「大浜屋が三百を自前で回せるわけがない」


「では、なぜ昨日」


「証拠がない」


 そう。


 そこだ。


 昨日の時点で。


 どうせ職人を叩くだろう。


 と言っても。


 ただの推測。


 負け犬の遠吠え。


 今日は。


 紙がある。


「どうする」


 伊織が聞いた。


「大浜屋へ乗り込みます?」


「お前は時々、急に血の気が多いな」


「脳内だけです」


「やめろ」


「はい」


 伊織が六十の内訳を見る。


「代官所へ持っていくか」


 私は考えた。


「まだです」


「なぜ」


「職人さんたちが、大浜屋から声を掛けられただけです」


「圧はかかっている」


「でも」


 御用を邪魔された。


 と大浜屋が言えば。


 話がひっくり返る。


 それに。


 灰田主膳が何を考えているか。


 まだわからない。


「まず、大浜屋へ行きます」


「一人で?」


「伊織さんも」


「なぜ俺が」


「共同確認」


「御用は共同受注していない」


「では、共同お節介」


「余計に嫌だ」


 でも。


 来る。


 私は知っている。


「小春さんは?」


「行きません」


 即答だった。


「なぜ」


「若旦那と黒瀬さんが二人で行くなら」


「はい」


「十分ややこしいので」


 正しい。


 夕方。


 大浜屋。


 大きな店だった。


 蔵。


 人。


 荷車。


 青柳屋より。


 明らかに大きい。


 店主の大浜宗兵衛が出てきた。


 五十代。


 恰幅がよい。


 柔らかい笑顔。


「これはこれは」


 私たちを見る。


「御用を逃したお二方が、揃って」


 刺してきた。


 笑顔で。


「本日は、職人さんへの追加依頼について」


 私が言う。


「ほう」


「六十反」


 一瞬。


 宗兵衛の目が止まった。


 知っている顔。


「何のことでしょう」


「染め場へ二十。織元へ十五。縫い手へ十二、八、五」


 こちらも。


 名前は言わない。


 職人を守る。


 宗兵衛の笑顔は変わらない。


「町の職人へ仕事を回しているだけです」


「安く?」


「御用ですから」


 やはり。


「御用なら、なぜ安くなるんです」


「名誉がある」


「名誉で飯は食えません」


 言った。


 宗兵衛の笑顔が。


 少し薄くなった。


「若旦那」


「はい」


「商いというものを、まだわかっておられぬ」


「かもしれません」


 それは認める。


「御用へ名を連ねる」


 宗兵衛が言う。


「それだけで、その職人の信用になる」


「はい」


「次の仕事へつながる」


「はい」


「少し手間を譲っても、長い目で見れば得だ」


 筋は通っている。


 だから。


 厄介だ。


 全部が嘘ではない。


 本当に次につながる職人もいるだろう。


 御用に関われたことが。


 看板になることも。


「その次を」


 私は聞いた。


「大浜屋さんが保証するんですか」


「何?」


「今回、三割安く受けた職人さんへ」


 一歩。


「次回は通常の手間賃を払う」


 一歩。


「仕事も優先して回す」


 一歩。


「そこまで約束しますか」


 宗兵衛は。


 答えなかった。


「若造が」


 初めて。


 笑顔が消えた。


「御用を取れなかった腹いせか」


 来た。


 予想どおり。


 そして。


 少し痛い。


 自分の中にも、その気持ちはある。


 だから。


「悔しいです」


 私は言った。


 伊織がこちらを見る。


 宗兵衛も。


「御用、欲しかったです」


 正直に。


「三百と書けた大浜屋さんに負けた。悔しい」


「なら」


「でも」


 私は六十の紙を置いた。


「だからこそ、これをなかったことにはしたくありません」


 宗兵衛が紙を見る。


「大浜屋さんが三百と書いた時」


 私は言った。


「この六十は、どこにありました?」


「……」


「蔵に?」


「……」


「職人に頼めば集まると思っていた?」


「商いとは、そういうものだ」


「はい」


 私は頷いた。


「頼むこと自体は悪くないです」


 分業。


 外注。


 共同。


 青柳屋だってやっている。


 全部自前。


 それが偉いわけではない。


「でも」


 紙を見る。


「足りない六十を、人の睡眠と手間賃で埋めるのは違う」


 宗兵衛の顔が固くなる。


「御用に穴を開けるつもりか」


「穴は」


 私は六十を指差した。


「最初からありました」


 静かになった。


 言ってしまった。


 怖い。


 かなり。


 大浜屋。


 御用商人。


 代官所とのつながり。


 相手は大きい。


 私は。


 猫用品部門が勝手に増えそうになる呉服屋の若旦那。


 戦力差がおかしい。


 脳内で。


 ゴングが鳴った。


 相手は超大型ヘビー級。


 こちら。


 入場した時点で、


 あれ、階級違いません?


 という感じである。


 スタン・ハンセンなら。


 たぶん考えない。


 ロープへ振って。


 ウィー。


 ラリアット。


 終。


 だが私は若旦那である。


 ラリアットは禁止。


 算盤でやる。


「なら、どうしろと言う」


 宗兵衛が言った。


 私は。


 その質問を待っていた。


「六十反」


 紙を指す。


「納期を延ばしてください」


「代官所が認めん」


「では、分納」


「御用を他店へ渡せと?」


「六十だけ」


 宗兵衛の顔が変わる。


「青柳屋が欲しいのか」


「違います」


「では黒瀬屋?」


「違う」


 伊織が答えた。


「誰でもいい」


 宗兵衛が眉を寄せる。


「誰でも?」


「無理なく六十を作れる店へ」


 私は言った。


「大浜屋さんの名前で納めてもいい」


 伊織がこちらを見た。


 宗兵衛も。


「名は、大浜屋さんで?」


「御用を取ったのは大浜屋さんです」


「では、お前らに何の得がある」


 出た。


 商人として。


 当然の質問。


「職人さんが、次も仕事できる」


 宗兵衛が鼻で笑った。


「それが得?」


「はい」


「甘いな」


「よく言われます」


 ただ。


 私も。


 以前ほど甘くない。


「ただし」


 私は続けた。


「通常の手間賃は払ってください」


 宗兵衛の顔。


 また固まる。


「そこは譲りません」


「お前に決める権利はない」


「ありません」


「なら」


「職人さんにも、断る権利があります」


 今日。


 初めて。


 その数字を。


 職人本人たちが計算した。


 何反ならできるか。


 何日夜仕事になるか。


 いくらなら受けるか。


「大浜屋さん」


 私は言った。


「御用だから受けろ、ではなく」


 一拍。


「この条件で受けますか、と聞いてください」


 宗兵衛は。


 長く黙った。


 答えなかった。


「帰れ」


 最後に言った。


 今日は。


 それ以上。


 無理だった。


 店を出る。


 外。


 息を吐いた。


「怖かった」


 私は言った。


「今言うのか」


 伊織が呆れる。


「中で言ったら負けるので」


「中でも顔に出てたぞ」


「本当?」


「かなり」


 駄目だ。


 若旦那、威厳。


 要修繕。


「でも」


 伊織が言った。


「悪くなかった」


「褒めました?」


「二度言わせるな」


 やった。


 勝利。


 いや。


 何も勝っていない。


 大浜屋は。


 まだ答えていない。


 御用も。


 何も変わっていない。


 ただ。


 六十という数字を。


 人の名前へ戻した。


 今日は。


 それだけ。


 夜。


 青柳屋。


 帳面を開く。


 大浜屋追加依頼。


 合計六十反。


 各職人へ、通常より低い手間賃提示。


 職人ごとに、現在仕事量・追加時労働・夜仕事日数を確認。


 お松、十二反辞退。


 おきぬ、八反依頼に対し四反まで回答予定。


 染め場、二十反依頼に対し五反まで。


 大浜屋へ、


 納期延長。


 または分納。


 通常手間賃。


 三点を提案。


 回答なし。


 最後に。


 一行。


 六十反の穴を、人の手で見えなくしない。


 数字には。


 穴がある。


 不足。


 予算。


 納期。


 人員。


 それを埋める。


 仕事では。


 よくある。


 でも。


 穴が空いているのなら。


 本当は。


 穴があります。


 と見せた方がいい。


 六十足りない。


 十日足りない。


 金が足りない。


 人が足りない。


 それを。


 誰か一人が。


 夜中まで働いて。


 黙って埋める。


 すると。


 外から見れば。


 最初から穴なんてなかったように見える。


 そして次も。


 同じ数字が来る。


 また。


 誰かが埋める。


 前世の私は。


 自分で穴を埋める側へ行きがちだった。


 頼まれた。


 誰もやらない。


 あと少し。


 私がやれば終わる。


 そうして。


 穴は消えた。


 でも。


 自分の時間も消えた。


 体力も。


 時々。


 気持ちまで。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は。


 穴を見つけたら。


 自分の身体を丸めて、そこへ詰める前に。


 まず。


 穴があります。


 と言える人でいたい。


 誰かを責めるためではない。


 ちゃんと。


 直すために。


 そう思ったところで。


 店先から声がした。


「若旦那!」


 お鈴。


 また。


 何。


「しるべが」


 はい。


「箱に」


「いつものことでしょう」


「違います」


 見る。


 大浜屋から持ち帰った。


 六十反の内訳を書いた紙。


 その上に。


 しるべが座っている。


「しるべ」


 猫を見る。


「そこは穴ではありません」


 にゃ。


「猫で埋めなくていいです」


 にゃ。


「あなたは自分の箱へ」


 しるべは動かない。


 紙の上。


 六十という数字が。


 猫の腹で隠れている。


 私は。


 少し笑った。


「……見えなくなりましたね」


 小春が言った。


「悪い見本です」


「しるべ、身をもって?」


「そこまで考えてません」


 猫は。


 ただ座っただけである。


 私はしるべを抱き上げた。


 紙の六十が。


 また見えた。


「ほら」


 私は言った。


「見える方がいい」


 しるべが、にゃ、と鳴く。


 納得はしていない。


 でも。


 今日はいい。


 逃げたのではない。


 御用を取れなかった青柳屋は、六十反の穴を誰かの夜で塞がせないために。


 まず。


 穴を、穴のまま帳面へ残したのである。


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