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第37話 若旦那、人形の曲がった縫い目を残す

 雨の羽織の手直し札を出した、その翌朝。


 青柳屋の帳場には、一体の人形が寝かされていた。


 赤い着物。


 黒い糸で描かれた髪。


 少し色の薄くなった頬。


 右の袖が、今にも取れそうにぶら下がっている。


 昨夜、手直し札を見て持ち込まれた人形だった。


 持ち主は、おさよという七つの娘である。


 昨日は日が暮れかけていたため、人形を預かり、今日あらためて母親と来てもらうことになっていた。


「若旦那」


 藤兵衛が帳面を開いた。


「こちらは、どの欄へ記しましょう」


「人形の着物直し、でしょうか」


「呉服の手直し」


「人形用です」


「小物修繕」


「小物と言うと、少し冷たいですね」


 藤兵衛が筆を止めた。


「では、何と」


「小さなお客様の、小さなお着物」


「帳面の見出しとしては、情緒が過ぎます」


 また言われた。


 最近の私は、帳面へ情緒を入れようとしすぎているらしい。


 帳面は、記録である。


 わかっている。


 だが、人形の袖を「雑品修理」と書くのも違う気がする。


「人形着物手直し、でよろしいのでは」


 小春が言った。


「それでお願いします」


 結局、いちばん普通のところへ着地した。


 商いというものは、長く悩んだあとで、だいたい普通の名前に戻る。


 小春は人形の着物を、そっと広げた。


「袖だけなら、すぐ直せます」


「よかったです」


「でも」


 来た。


 職人の「でも」である。


 黒瀬伊織の「ただし」と同じくらい、続きが怖い。


「内側の布も、かなり弱っています」


 小春が袖口を裏返す。


 裏地は薄くなり、何か所か糸が切れていた。


 外からは、ほとんど見えない。


 だが、このまま袖だけ縫い付ければ、今度は別の場所が破れるかもしれない。


「全部、取り替えますか」


 私が聞くと、小春は少し迷った。


「その方が、丈夫にはなります」


「きれいにも?」


「はい」


 新しい裏地。


 新しい糸。


 まっすぐな縫い目。


 見違えるように整うだろう。


 だが、古い人形である。


 新しくしすぎると、この人形が過ごしてきた時間まで消えてしまう気もした。


 前世の私は、古いものを直すのが苦手だった。


 汚れたら買い替える。


 壊れたら新しくする。


 修理代と新品の値段を比べて、新しい方を選ぶ。


 それは悪いことではない。


 でも、新しいものでは戻らないものもある。


 手に馴染んだ形。


 傷の場所。


 いつついたのかわからない染み。


 なくなってから、「あれも一緒に思い出だった」と気づく。


「お母さんと、おさよさんに聞きましょう」


 私が言うと、小春は頷いた。


 昼前。


 おさよが、母親に手を引かれてやって来た。


 店へ入るなり、人形のところへ走る。


「おたま!」


「おたま、という名なのですね」


「うん」


 おさよは人形を抱き上げようとして、慌てて手を止めた。


 袖が取れかけていることを思い出したらしい。


「まだ痛い?」


「人形なので、痛くはないと思います」


 言ってから、少し考え直した。


「でも、大事に持った方がよいですね」


 人形が痛いかどうかはわからない。


 持ち主が痛そうだと思うなら、その気持ちは本物だ。


 母親が人形を見て、懐かしそうに目を細めた。


「これは、もともと私の人形なんです」


「お母様の?」


「はい。私の母が、着物を縫ってくれました」


 おさよにとっては、祖母が縫った着物。


 三代を渡ってきた人形だった。


 なるほど。


 新しくすればいい、では済まない。


「内側の布が弱っています」


 小春が説明した。


「全部、新しい布へ替えれば丈夫になります。でも、今の縫い目は残りません」


 母親は少し寂しそうに着物を見た。


「母は、縫い物があまり得意ではなかったんです」


「そうなのですか」


「ええ。よく見ると、曲がっているでしょう」


 裾の裏側。


 赤い糸が、少し右へ行き、また左へ戻っている。


 まっすぐ縫うつもりだったのだろう。


 だが途中から、細い蛇のように曲がっていた。


「おばあちゃんの、みみず」


 おさよが言った。


「みみず?」


「おっかあが、そう呼んでる」


 母親が恥ずかしそうに笑った。


「子どもの頃、母に『縫い目がみみずみたい』と言ったんです。母は怒っていましたけど」


「残したいですか」


 私が聞くと、母親はすぐに頷いた。


「できれば」


 おさよも、人形の裾を指でなぞった。


「みみず、いなくなるの嫌」


「では、残しましょう」


 小春が言った。


 迷いのない声だった。


「全部は替えません。弱ったところだけ、内側から新しい布を重ねます」


「そんなことができるんですか」


「はい。ただ、新しい布だけで作るより、手間はかかります」


 母親は頷いた。


「お願いします」


「それと、曲がった縫い目の近くは、ほどけないように別の糸で支えます」


「まっすぐにはしない?」


 おさよが心配そうに聞く。


「しません」


 小春は笑った。


「おばあさまのみみずは、そのままです」


 おさよの顔が、ぱっと明るくなった。


「よかった」


 その一言で、直す場所が決まった。


 袖をつける。


 弱った裏地を支える。


 曲がった縫い目は、消さない。


 見た目だけなら、全部新しくする方がきれいだ。


 だが、この人形に必要なのは、いちばんきれいな着物ではない。


 これまでの時間を落とさず、これからも抱ける着物なのだ。


「お代は、どのくらいですか」


 母親が聞いた。


 小春が手間を考える。


 袖だけの手直しより、少し高くなる。


 だが、新しく一着仕立てるほどではない。


 小春は、きちんと値を伝えた。


 母親が財布を出そうとすると、おさよが小さな巾着を両手で差し出した。


「わたしが払う」


「おさよ」


「おたま、わたしのだから」


 巾着の中には、小さな銭が数枚。


 全部を出しても、手直し代には足りない。


 おさよは真剣だった。


 私は少し考えた。


 無料にはしたくない。


 だが、持っているものを全部取るのも違う。


「では、おさよさんからは、一枚だけいただきます」


「一枚?」


「はい。おたまさんを直してください、というお願いの印です」


「残りは?」


「お母様にお願いします」


 おさよは母親を見た。


 母親が頷く。


「一緒にお願いしましょう」


「うん」


 おさよは、一枚の銭を帳場へ置いた。


 小さな音がした。


 ちゃりん。


 金額は小さい。


 でも、その一枚には、持ち主としての責任が乗っていた。


「確かにお預かりしました」


 藤兵衛が、いつもより少しやわらかい声で言った。


 午後。


 人形の手直しが始まった。


 ちょうど黒瀬屋から、千代さんが雨の羽織の見本を届けに来ていた。


 人形の着物を見ると、足を止める。


「小さいですね」


「千代さん、こういう内側の仕事は得意ですか」


 小春が聞いた。


「はい。帯の裏や、袖の内側ばかり縫っていましたから」


 千代さんの得意な仕事。


 人から見えにくい場所を整える手。


「こちらをお願いできますか」


「私が?」


「弱った裏地へ、当て布を入れてほしいんです」


 千代さんは、少し驚いた顔をした。


 それから人形を受け取る。


「やってみます」


 小さな着物を前に、千代さんの表情が変わった。


 緊張ではない。


 集中である。


 表から縫い目が目立たないように。


 古い糸を切らないように。


 新しい布だけが浮かないように。


 針が、小さく動く。


 その横で、小春は取れかけた袖を直す。


 二人の針が、同じ人形の着物へ入っていく。


 私は糸を渡す係になった。


「若旦那、赤い糸を」


「はい」


 糸箱を見る。


 赤。


 朱。


 茜。


 紅。


 また色の迷路である。


 全部、赤ではないのか。


 いや、言ってはいけない。


 色を扱う店の若旦那として、そろそろ怒られる。


「こちらですか」


「それは蘇芳です」


「では、こちら」


「緋色です」


「赤い糸はどれですか」


「いちばん左です」


 最初からそう言ってほしい。


 私は糸を渡した。


 脳内の私が、手術室の助手みたいになっている。


 赤い糸。


 はい。


 小さな針。


 はい。


 汗を。


 それは不要。


 患者は人形である。


 命に別状はない。


 ただし、持ち主の心にはかなり重要な手術だ。


 そこへ、しるべが現れた。


 人形を見つける。


 近づく。


「しるべ」


 止まらない。


「これはおもちゃではありません」


 しるべは人形の顔を嗅いだ。


 人形は動かない。


 しるべが前足を伸ばす。


 私が抱き上げる。


「駄目です」


 にゃ。


「今は手術中です」


「若旦那」


 小春が針を止めずに言った。


「手直しです」


「はい」


 情緒が医療へ寄りすぎた。


 しるべをしるべ布へ置く。


 だが猫は、まだ人形を見ている。


 自分より小さい人型の何か。


 気になるのだろう。


 しかし、しるべの興味は信用できない。


 蝶を追う。


 糸を追う。


 紙をくわえる。


 帳面へ乗る。


 猫の好奇心は、だいたい人間の工程を壊す方向へ働く。


 夕方。


 人形の着物は直った。


 袖は、元の位置へ戻った。


 内側には新しい布が入り、弱いところを支えている。


 外から見ても、ほとんどわからない。


 そして裾には、曲がった赤い縫い目。


 おばあちゃんのみみず。


 そのまま残っていた。


「できました」


 小春が言う。


 千代さんは、内側をもう一度確かめた。


「当て布も、動きません」


「きれいです」


 私が言うと、千代さんは少し笑った。


「見えないですけど」


「見えないから、いいのでは」


 外からは見えない。


 でも、袖を動かした時に支える。


 抱き締めた時に破れない。


 それは、雨の羽織の裏地と同じだった。


 見えない仕事が、使う人の動きを守る。


 日が傾く頃、おさよと母親が迎えに来た。


「おたま!」


 おさよは、直った人形を両手で受け取った。


 右の袖を動かす。


 左の袖も動かす。


 裾をめくる。


「みみず!」


「いますよ」


「いなくなってない!」


 おさよは、人形をぎゅっと抱き締めた。


 小春と千代さんが、同時に少し身構えた。


 強く抱きすぎて、また破れないか。


 職人の心臓に悪い。


 だが、人形の袖は取れなかった。


 内側の当て布も、きちんと支えている。


「直った」


 おさよは笑った。


 母親は、曲がった縫い目へ指を触れた。


「母の縫い目まで残してくださって、ありがとうございます」


「きれいにしすぎない方がよいものもありますから」


 小春が答えた。


 母親は、何度も頭を下げた。


 帰り際、おさよが店先で振り返る。


「若旦那」


「はい」


「おたま、前より強くなった?」


「前より、少し強くなりました」


「でも、前のおたま?」


「前のおたまさんです」


 おさよは満足そうに頷いた。


 その答えが、今日の手直しのすべてだった。


 新しくなった。


 でも、別のものにはなっていない。


 前のまま。


 少しだけ、これからを長く抱けるようになった。


 夜。


 帳面へ今日のことを書く。


 人形名、おたま。

 右袖、取れかけ。

 裏地、弱りあり。

 全部は替えず、当て布で補強。

 曲がった赤い縫い目、残す。

 千代、内側の手直し担当。

 持ち主おさよ、代金の一部を自分で支払う。

 引き渡し後、強く抱く。

 袖、無事。


 最後の一行は、品質確認として必要である。


 たぶん。


 私は帳面を見ながら思った。


 直すというのは、元どおりにすることではない。


 全部を新しくすることでもない。


 何を残すか。


 どこを支えるか。


 これから、どんなふうに使いたいか。


 それを一緒に選ぶことなのだ。


 人の傷も、同じなのかもしれない。


 全部消えれば、きれいにはなる。


 でも、そこにいた自分までいなくなることがある。


 曲がった縫い目。


 失敗した日。


 恥ずかしかった記憶。


 笑い話になった迷子。


 残してもいいものまで、無理にほどく必要はない。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は、自分の曲がった縫い目も、全部まっすぐに直そうとしないでいたい。


 ほどけないよう、内側から少し支える。


 それくらいで、また歩けることもある。


 そう思ったところで、お鈴が店先から声を上げた。


「若旦那! しるべが人形のお布団に寝ています!」


「人形のお布団?」


 外へ出る。


 おさよが置いていったのか、小さな端切れの敷き布が一枚、店先に残っていた。


 その上に、しるべが無理やり丸くなっている。


 身体が半分以上はみ出していた。


「小さすぎるでしょう」


 にゃ。


「それは、おたまさん用です」


 にゃ。


「あなたには、しるべ布があります」


 しるべは動かない。


 自分の身体に合わない布でも、他人のものだと乗りたくなるらしい。


 猫という生き物は、所有権への理解が独特である。


 藤兵衛が後ろから静かに言った。


「若旦那」


「はい」


「人形用の寝具も、注文品になりますかな」


「増やしません」


 即答した。


 その瞬間、店先にいた別の子どもが言った。


「うちの人形にも、お布団ほしい」


 遅かった。


 需要は、断るより先に立ち上がる。


 私は小さな布からはみ出すしるべを見下ろした。


 逃げたのではない。


 今日は人形の袖を直し、明日から人形の寝具部門が勝手に開店しそうになっているのである。



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