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第36話 若旦那、雨の手直しを隠さない

 雨の羽織、追加注文の三枚が仕上がった。


 一枚目。


 傘を差すのが好きな娘の羽織。


 やわらかな雨の中、袖の内側に小さな赤い傘が一つ。


 腕を上げた時だけ、ちらりと見える。


 二枚目。


 蛙を探し回る孫の羽織。


 お松さんの働く雨。


 裾の草むらに、小春が縫った蛙が一匹、半分だけ顔を出している。


 三枚目。


 水たまりを二つ欲しがった年配の女性の羽織。


 静かな雨に、千代さんの風の雨を少し。


 裾には、落ち着いた銀鼠色の水の輪が二つ。


 大人の水たまりである。


 子ども用より控えめ。


 だが、歩くとちゃんと揺れる。


「三枚とも、違いますね」


 お鈴が店先に並べられた羽織を見ながら言った。


「同じ雨の羽織なのに」


「着る人が違いますから」


 小春が答えた。


 その顔には、疲れもあった。


 けれど、それ以上に満足が見えた。


 小春一人で全部を縫ったわけではない。


 基本の雨は、黒瀬屋の縫い手たち。


 最後の一柄は、小春。


 裏には、黒瀬屋の軽い雨具布。


 二つの店。


 四人の縫い手。


 何人もの手が、一枚の羽織に入っている。


 前世の私なら、こういう仕事を見ると、つい言いたくなった。


 チームの力ですね。


 皆さんのおかげです。


 連携の成果です。


 言葉にすれば、きれいにまとまる。


 だが、実際はそんなにきれいではない。


 糸の引き方を合わせる。


 布の厚みを測る。


 黒瀬屋へ確認に走る。


 小春が直す。


 伊織が渋い顔をする。


 藤兵衛が帳面を増やす。


 しるべが図案の上に座る。


 最後だけ不要である。


「若旦那」


 藤兵衛が言った。


「納品の前に、最終の確認を」


「はい」


 袖を引く。


 肩を動かす。


 紐を結ぶ。


 内側の布が突っ張らないか。


 刺繍の糸が裏へ出ていないか。


 雨具布が重すぎないか。


 しるべが近づいてこないか。


 最後の確認が一番重要になりつつある。


 しるべは帳場の端で、こちらを見ていた。


「今日は絶対に駄目ですよ」


 にゃ。


「納品前です」


 にゃ。


「話を聞いてください」


 猫との会話は、いつもこちらだけが疲れる。


 三枚の羽織は、無事にそれぞれの客へ渡った。


 傘の娘は、袖の内側を何度も覗いた。


 蛙の孫は、裾の蛙を見つけるまで店の中を三周した。


 水たまりの女性は、羽織を着たまま店先へ出て、小さく一歩踏み出した。


 雨は降っていなかった。


 それでも裾の水の輪が揺れると、女性は少し笑った。


「晴れの日にも、水たまりはあるのね」


「羽織の中には」


 私が答える。


「では、雨が降る前から着ましょう」


 羽織を着る理由は、雨を防ぐことだけではないらしい。


 気持ちよく三枚を送り出し、私は少し浮かれていた。


 売れた。


 納めた。


 客も笑った。


 黒瀬屋との共同取引も、最初の一歩は成功。


 帳場の奥では、脳内の私が祝勝会の会場を押さえようとしている。


 まだ早い。


 わかっている。


 だが、たまには浮かれてもいいではないか。


 前世では、自分の仕事を褒める前に次の仕事が来た。


 終わった。


 はい次。


 終わった。


 はい修正。


 終わったと思った?


 追加があります。


 仕事とは、倒しても第二形態になる魔王だった。


 今日くらいは、終わった仕事を少し眺めたい。


 そう思っていた。


 三日後。


 水たまりを二つ頼んだ女性が、青柳屋へ戻ってきた。


 手には、あの雨の羽織。


 きれいに畳まれている。


 だが、包み方が少し硬い。


 喜んで見せに来た人の持ち方ではなかった。


「いらっしゃいませ」


 私が頭を下げると、女性は申し訳なさそうに言った。


「若旦那。少し、見てもらいたいところがあって」


 来た。


 前世の私の中で、問い合わせ窓口の電話が鳴った。


 商品に関するご相談。


 納品後三日。


 使用済み。


 詳細確認要。


 脳内担当者が、急に背筋を伸ばす。


「もちろんです」


 羽織を広げる。


 一見、何も問題はない。


 雨の刺繍。


 二つの水の輪。


 どちらも無事だ。


 だが、女性が肩の部分を示した。


「昨日、雨の中を少し歩いたら、ここが引っ張られるような感じがして」


 羽織の肩。


 表の薄藍布には、異常がない。


 内側を返す。


 黒瀬屋の雨具布が、縫い目のところで少し寄っていた。


 破れてはいない。


 だが、表の布より内側の布が縮み、肩を引いている。


「私の歩き方が悪かったのかしら」


「いいえ」


 私はすぐに答えた。


「歩き方の問題ではありません」


「でも、少し大股で歩く方だから」


「大股で歩いてもらうための羽織です」


 女性は少し驚いた顔をした。


「水たまりを二つ踏む方ですから」


 言うと、女性は笑った。


 少しだけ、肩の緊張がほどけた。


「お預かりしてもよろしいですか」


「直りますか」


「必ず確認します」


 直せるかどうか、まだわからない。


 でも、ここで曖昧な笑顔を返したくなかった。


 店の奥へ羽織を運ぶ。


 小春がすぐに内側を調べた。


「雨具布が縮んでいます」


「水で?」


「はい。表の布と、縮み方が違います」


 小春の顔が曇った。


「私の縫い方が強すぎたのかも」


「まだ決めないでください」


「でも」


「黒瀬屋さんにも見てもらいましょう」


 私は使いを出した。


 伊織は、思ったより早く来た。


 早い。


 いつも早い。


 黒瀬屋には、呼ばれる前から町の出来事を把握する部署でもあるのだろうか。


「どこだ」


 挨拶より先に、羽織を手に取る。


 肩を見る。


 内側を返す。


 縫い目へ指を入れる。


 何度か布を引いた。


「雨具布が縮んだ」


「小春さんも、そう言っています」


「うちの布の問題か」


 伊織はすぐに言った。


 言い訳をしなかった。


 少し意外だった。


 いや、伊織はこういう男なのだ。


 正論が強い。


 だから、自分の側の問題も切り分ける。


「布だけではありません」


 小春が言った。


「表と裏を、ぴったり縫いすぎました。少し遊びを残すべきでした」


「遊び?」


 私が聞く。


「布が動ける余りです」


 小春は羽織の肩を示した。


「表の布と裏の布は、雨に濡れた時の動きが違います。ぴったり一緒に縫うと、片方が縮んだ時、もう片方まで引っ張ります」


「仲良く縫いすぎた」


 私が言うと、伊織がこちらを見た。


「何だ、その言い方は」


「二つの布を、離れないようにしすぎたのかと」


「布は友達ではない」


「わかっています」


 だが、どこか人間関係に似ている。


 いつも一緒。


 考えも同じ。


 動く時も同じ。


 それが仲の良さだと思って、ぴったり縫い合わせる。


 でも、人は違う。


 濡れた時の縮み方も違う。


 どちらかが動けば、もう片方が引かれる。


 少し離れて動ける余白が必要なのかもしれない。


「縫い目を一度ほどきます」


 小春が言った。


「肩と背の雨具布に少し余りを持たせて、何か所かだけ留め直します」


「水は入りませんか」


「表側の縫い目は変えません。内側だけです」


 伊織も頷いた。


「雨具布にも、先に水を含ませて縮みを出しておく」


「仕立てる前に一度?」


「ああ。最初の縮みを済ませる」


 なるほど。


 布も、先に少し雨を経験させる。


 ぶっつけ本番にしない。


 前世の研修制度みたいなものかもしれない。


 いや、雨具布に新人研修を重ねるな。


 話がややこしくなる。


「手直しに、どれくらいかかりますか」


「今日中に」


 小春が答えた。


「待ってください」


 私は言った。


「急がなくて大丈夫です」


「でも、お客様が」


「丁寧に直せる日を伝えましょう」


 小春は少し黙った。


 それから、二日ほしいと言った。


 私は女性へ頭を下げ、二日預かりたいことを伝えた。


 手直し代は、もちろん取らない。


 すると女性は、申し訳なさそうに言った。


「でも、私も着て歩いたものですし」


「こちらの仕立ての問題です」


「ただで直してもらうのは」


「ただではありません」


 女性が首を傾げる。


「最初にいただいたお代には、きちんと着ていただくところまで含まれています」


 言ってから、私は少しだけ胸が熱くなった。


 自分で言った言葉なのに。


 代金は、物を渡した瞬間までの値ではない。


 使えること。


 直すこと。


 相談できること。


 安心して戻ってこられること。


 そこまで含めて、店の値なのだ。


「では、お願いします」


 女性は深く頭を下げた。


「今度は、三つ目の水たまりまで歩きたいから」


「二つでは足りなくなりましたか」


「羽織には二つで十分。道の水たまりは、もう少し踏んでみるわ」


 いい。


 うれしい。


 だからこそ、きちんと直したい。


 女性が帰ったあと、伊織は言った。


「残り二枚も確認する」


「問題が出ていないのに?」


「同じ作り方だ」


「でも、客に不安を与えるかもしれません」


「あとから問題が出る方が、不安になる」


 その通りだった。


「こちらから伺いましょう」


 私は言った。


「持ってきてください、ではなく」


「手間がかかる」


「店側の確認ですから」


「三軒とも回る気か」


「はい」


 伊織は少し嫌そうな顔をした。


「青柳屋だけで行くな」


「え?」


「黒瀬屋の布も使っている」


 それは、共同責任ということだろうか。


 連携。


 いや、口に出すと怒られる。


「共同確認ですね」


「品質確認だ」


「二店で」


「そうだ」


「それを一般には」


「言うな」


 危ない。


 また皺が増えるところだった。


 その日の午後、私と伊織、小春の三人で二軒を回った。


 傘の娘の羽織。


 肩の突っ張りは、まだ出ていない。


 ただ、袖を上げた時、内側が少し引かれる。


 母親は驚いていた。


「気づきませんでした」


「今のうちに直させてください」


 娘は、袖の内側の傘を心配した。


「傘、消えない?」


「消しません」


 小春が答える。


「傘を守ったまま、肩を少し楽にします」


「肩も傘を差すの?」


「少し違います」


 説明は難しい。


 二軒目。


 蛙の羽織。


 孫は、羽織を着たまま近所を走り回っていた。


 働く雨は無事。


 蛙も無事。


 ただし、肘の裏側が少し突っ張っている。


「全然平気だよ!」


 孫は言った。


 子どもの「平気」は信用しすぎてはいけない。


 転んで血が出ても平気と言う。


 眠いのに平気と言う。


 絶対にトイレへ行きたい顔なのに平気と言う。


 平気の査定が甘い。


「もっと動きやすくなります」


 私が言うと、孫は腕を振った。


「これより?」


「はい」


「じゃあ、蛙をもっと探せる?」


「探せます」


「直して」


 決断が早い。


 蛙への情熱が強い。


 三枚すべてを預かり、青柳屋と黒瀬屋で手直しをすることになった。


 伊織は黒瀬屋へ戻ると、雨具布の仕入れ分をすべて確認した。


 小春は縫い方を直した。


 肩と背の布に、少しだけ余りを残す。


 全部を縫い止めず、必要なところだけを留める。


「離れているみたいで、不安ですね」


 お鈴が内側を覗きながら言った。


「でも、これで動けるんです」


 小春が答えた。


「離れているから、一緒に動ける」


 いい言葉だった。


 また名言採取係が、脳内で筆を持ち上げる。


 今日は忙しいから座っていてほしい。


 二日後。


 三枚の羽織は、それぞれの客へ戻った。


 水たまりの女性は肩を回した。


「軽くなった」


「布そのものの重さは同じです」


「でも、引っ張られないだけで、こんなに違うのね」


 傘の娘は、何度も腕を上げた。


 袖の内側から赤い傘が出たり隠れたりする。


「傘、速くなった!」


 速さの問題ではないが、喜んでいるのでよしとする。


 蛙の孫は、その場で腕を大きく振り回した。


 危ない。


 青柳屋の反物に当たりそうになる。


「外でお願いします」


「わかった!」


 言い終わる前に外へ走った。


 蛙探索隊、再出動。


 三人とも、手直しを怒らなかった。


 むしろ、店側から確認に来たことを喜んでくれた。


 だが、それで失敗が消えるわけではない。


 帳面には、きちんと残す。


 雨の羽織、初回三枚。

 内側雨具布に縮み。

 表布との動きに差。

 肩、背、肘に突っ張り。

 全品回収。

 雨具布を事前に水へ通す。

 内側に遊びを残して縫い直す。

 手直し代なし。


 藤兵衛は、新しい札を用意した。


 雨の羽織

 着ていて気になるところがあれば、いつでもお持ちください。

 最初の雨のあとに、肩と袖を確認いたします。


「失敗を札に書くのですか」


 お鈴が心配そうに聞いた。


「はい」


 私は答えた。


「売れなくなりませんか」


「なるかもしれません」


 不安はある。


 かなりある。


 店側から、問題が出る可能性を伝える。


 普通なら隠したくなる。


 黙っていれば、気づかない客もいるかもしれない。


 しかし、気づかないことを願う商いはしたくない。


「でも、隠したまま売るよりいいです」


 伊織が札を見た。


「文章が長い」


「そこですか」


「もっと短くしろ」


「では、伊織さんなら」


 伊織は少し考えた。


「最初の雨までが、仕立てです」


 全員が黙った。


 まただ。


 この男、突然だけ詩人になる。


「採用します」


「待て」


「お鈴さん、書いてください」


「はい!」


「黒瀬屋案と入れますか?」


「入れろ」


 珍しい。


 伊織が自分から認めた。


「その代わり、青柳屋だけの言葉にするな」


「では、二店の言葉として」


「そうしろ」


 店先に、新しい札が立った。


 最初の雨までが、仕立てです。


 着てみて。


 歩いてみて。


 濡れてみて。


 そこで初めてわかることがある。


 戻ってきてもいい。


 直してもいい。


 店は、売ったあとも暖簾を下ろさない。


 夜。


 帳面を書き終え、私は筆を置いた。


 うまくいったと思った。


 売れた。


 喜ばれた。


 共同取引も形になった。


 でも、雨が降って初めて、二つの布が引っ張り合っていることがわかった。


 二つのよいものを合わせれば、必ずもっとよくなるわけではない。


 違うものには、違う動きがある。


 ぴったり縫い合わせるだけでは駄目なのだ。


 少し遊びを残す。


 離れて動けるようにする。


 それでも、必要なところではきちんと留める。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は、誰かと組む時に、全部を同じにしようとしない人でいたい。


 違うまま、一緒に動ける余白を作る。


 そして、問題が起きた時には、誰のせいかを探す前に、一緒に羽織をほどく。


 そういう商いなら、長く続けられる気がした。


 その時、店先から、お鈴の声が聞こえた。


「若旦那! しるべが手直しの札の前に座っています!」


 見ると、しるべが新しい札の横で丸くなっていた。


 通りの子どもが、しるべを見て言う。


「猫も直してもらえるの?」


「猫は直しません」


 私が答える。


「しるべ、ちょっと目つき悪いよ」


「仕様です」


「直らないの?」


「直しません」


 しるべが、不満そうににゃあと鳴いた。


 そこへ別の子どもが、小さな人形を持ってきた。


「若旦那、この子の着物、袖が取れそう」


「え」


「手直しして」


 札を見て来たらしい。


 雨の羽織の手直し札が、人形の着物修理受付になった。


 小春が人形を受け取る。


「見てみましょうか」


「小春さん」


「小さな袖なら、すぐです」


 また仕事が増えた。


 しるべは札の横で、受付係のような顔をしている。


 何もしていない。


 ただ座っているだけ。


 だが、なぜか相談が集まる。


 私は人形と猫と手直し札を見比べ、静かに息を吐いた。


 逃げたのではない。


 今日は、雨の羽織を三枚直し、明日は人形の袖から青柳屋の信用を縫い直すのである。

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