第35話 若旦那、同じ雨にも手の跡を見る
青柳屋と黒瀬屋の共同取引が始まった。
伊織は、あくまで共同取引と呼ぶ。
連携ではないらしい。
分業であり、仕入れであり、互いの得意を利用するだけ。
言葉をいくつ並べても、二つの店が一緒に羽織を作る事実は変わらない。
だが、そこを指摘すると伊織の眉間に一本、深い皺が増える。
私はもう学んだ。
人には、触れてはいけない呼び方がある。
黒瀬伊織にとっての「連携」は、猫にとっての「待て」と同じなのだ。
意味は理解している。
ただし、従いたくない。
その日の朝、黒瀬屋から三人の縫い手が青柳屋へやって来た。
年配の女性が一人。
中年の女性が一人。
まだ十代の終わりほどに見える娘が一人。
三人とも、働く手をしていた。
指先に、小さな針傷がある。
爪は短く整えられ、袖口には糸屑がついていた。
「基本の雨筋を教わりに来ました」
年配の女性が頭を下げた。
「黒瀬屋で縫い仕事をしております、お松と申します」
「おきぬです」
「千代です」
最後の娘だけ、声が少し硬かった。
緊張しているのだろう。
小春も緊張していた。
教わる側ではない。
今日は、教える側である。
自分より年上の縫い手にも、図案と手順を伝えなければならない。
前世の私にも覚えがあった。
自分より年上の人へ、新しい仕組みを説明する時の、あの独特の胃の縮み方。
知っていることを話すだけなのに、
偉そうではないか。
説明が足りないのではないか。
相手は本当は全部知っているのではないか。
そんな余計な考えが、脳内で盆踊りを始める。
「小春さん」
私は小さく声をかけた。
「はい」
「いつも通りで大丈夫です」
「いつも通りが、一番難しいです」
「わかります」
小春は一度、深く息を吸った。
それから、薄藍の見本布を広げた。
「基本の雨は三種類です」
細い雨。
斜めの雨。
雨上がりの雫。
それぞれの図案が、紙に描かれている。
伊織が作らせたものだ。
線の長さ。
間隔。
刺す位置。
糸の色。
驚くほど細かい。
「こちらの線に沿って縫えば、同じ雨筋になります」
伊織が言った。
自信に満ちた声だった。
仕組みにすれば、同じものを作れる。
それが黒瀬屋の強さである。
小春が一番細い雨の縫い方を見せる。
針を入れる。
抜く。
糸を引く。
引きすぎない。
緩めすぎない。
小さな雨が、布の上に落ちていく。
三人の縫い手は真剣に見ていた。
「では、お願いします」
それぞれに同じ大きさの見本布が渡された。
同じ図案。
同じ針。
同じ糸。
同じ時間。
これなら、ほぼ同じ雨が出来上がる。
私はそう思っていた。
半刻後。
四枚の見本布が並んだ。
そして私は首を傾げた。
「違いますね」
思わず口から出た。
小春の雨は、細く静かだった。
糸が布の中へすっと馴染み、本当に遠くの雨を見ているように見える。
お松さんの雨は、少し力強い。
同じ長さの線なのに、雨脚が太い。
夏の夕立に近い。
おきぬさんの雨は、間隔がやわらかい。
同じ図案なのに、どこか丸みがあり、軒下から眺める雨のようだった。
千代さんの雨は、細い。
ただし、少し震えている。
緊張が、そのまま糸に出ていた。
伊織の眉間に皺が寄った。
「糸の引きが揃っていない」
千代さんの肩が、小さく縮んだ。
「申し訳ありません」
「図案通りに縫えば」
「伊織さん」
私は口を挟んだ。
「何だ」
「同じ図案でも、同じ雨にはならないようです」
「だから、手順を揃える」
「手順は揃っています」
「なら、訓練が足りない」
間違ってはいない。
何度も縫えば、差は小さくなる。
品質を揃えるためには必要なことだ。
だが、私は四枚の雨を見ていた。
どれも、雑ではない。
失敗でもない。
ただ、手が違う。
「お松さん」
「はい」
「この雨、強く見えますね」
「すみません。昔から、糸を強く引く癖がありまして」
「洗っても緩みにくいですか」
「はい。仕事着の繕いを長くしていたので、丈夫に縫う方が得意です」
なるほど。
働く人の服を縫ってきた雨だ。
「おきぬさんは?」
「私は、子どもの着物が多かったものですから。肌に当たっても固くならないよう、少し緩く縫います」
子どもの着物を縫ってきた雨。
「千代さん」
「はい」
「緊張しましたか」
千代さんは顔を赤くした。
「……はい」
「普段は、何を縫っていますか」
「帯の裏や、見えないところを」
「表の刺繍は?」
「ほとんど、ありません」
見えない場所を縫ってきた手。
今日、急に人へ見られる雨を縫えと言われたのだ。
震えて当然かもしれない。
「若旦那」
伊織が言った。
「事情を聞いても、品の出来は揃わない」
「はい」
「客が選んだ基本の雨が、縫い手によって変わるのは困る」
「その通りです」
私は四枚を並べ直した。
伊織の正論は正しい。
細い雨を頼んだのに夕立が届いたら、客は困る。
だが、全部を小春と同じ雨にしようとすれば、縫い手たちは自分の癖を消すことになる。
癖を整える必要はある。
でも、癖そのものが悪いとは限らない。
前世の仕事でもあった。
同じ様式。
同じ言葉。
同じ手順書。
それなのに、担当者によって窓口の空気は違う。
説明が早い人。
ゆっくり聞く人。
要点を短く言う人。
余談で安心させる人。
全部を一人のコピーにしようとすると、たぶん誰かの良さが死ぬ。
「三種類ではなく」
私は言った。
「縫い方を、もう少し分けてはどうでしょう」
「増やすのか」
「細い雨、斜めの雨、雨上がりの雫。これは柄です」
「そうだ」
「そこへ、雨の強さを選べるようにします」
伊織が黙った。
「強さ?」
小春が聞いた。
「はい。静かな雨。やわらかな雨。丈夫な雨」
「丈夫な雨という言い方は、少し変では」
「では、働く雨」
さらに変かもしれない。
お松さんが、小さく笑った。
「私は、働く雨ですか」
「嫌でしょうか」
「いいえ。私らしい気がします」
おきぬさんは、自分の見本を眺めた。
「私は、やわらかな雨」
「小春さんが、静かな雨」
「千代さんは?」
千代さんが不安そうに自分の布を見る。
震えた細い線。
整ってはいない。
だが、よく見ると、雨が風に迷っているようにも見える。
「風の雨」
小春が言った。
「少し揺れているから、風に吹かれた雨みたいです」
「でも、これは失敗で」
「このまま商品にはできません」
小春は、きちんと言った。
優しく誤魔化さなかった。
「でも、線の揺れを整えれば、風の雨にできます」
千代さんは布を見つめた。
「私にも、できますか」
「一緒にやりましょう」
小春が隣に座った。
針の入れ方。
糸を引く呼吸。
手首の置き方。
震えを止めるのではなく、同じ方向へ流す方法を教える。
千代さんは、もう一度縫った。
最初の線は揺れた。
二本目は少し整った。
三本目。
風に押されるように、斜めへ細く流れた。
「きれいです」
お鈴が言った。
千代さんの顔が、少し明るくなった。
伊織は腕を組み、四種類の雨を見ている。
「品数が増える」
「はい」
「説明も増える」
「はい」
「管理が面倒になる」
「はい」
「帳面も増える」
藤兵衛の筆が止まった。
そこだけは聞き捨てならなかったらしい。
「でも、縫い手に合う仕事を振れます」
私は言った。
「丈夫さが必要な肩や背には、お松さんの働く雨。子どもの羽織には、おきぬさんのやわらかな雨。静かな景色には、小春さん。風の柄には、千代さん」
「客が迷う」
「見本を置きます」
「納期が変わる」
「それも伝えます」
「値も変わる」
「手間が違えば、変えるべきです」
伊織はしばらく黙った。
また、こちらの穴を探している。
私は少し怖かった。
自分で言っておきながら、品数が増える怖さもわかっている。
選べるのは楽しい。
だが、選択肢が多すぎると人は疲れる。
前世の私は、飲食店の注文画面でよく迷子になった。
麺の固さ。
脂の量。
味の濃さ。
トッピング。
ポイント利用。
袋の有無。
食べる前に判断力を使い果たす。
「雨の強さは、店側で提案しましょう」
私は付け加えた。
「全部を客に選ばせるのではなく、使い方を聞いて、合う雨をこちらから出す」
「誰が決める」
「青柳屋と黒瀬屋で」
「連携か」
伊織が低い声で言った。
自分から言った。
全員が伊織を見る。
伊織の顔が固まった。
「今、連携と」
「言っていない」
「言いました」
「聞き間違いだ」
「全員聞いていました」
お松さんが口元を押さえた。
おきぬさんも笑っている。
千代さんまで、少し笑った。
伊織は明らかに機嫌を悪くした。
だが、否定しながら帰ろうとはしなかった。
「見本を作る」
伊織が言った。
「四種すべて」
「はい」
「縫い目の幅と、最低限守る強度は決める」
「はい」
「その範囲で、手の違いを残す」
「ありがとうございます」
「まだ決めていない」
「今、かなり決まりました」
「若旦那」
「はい」
「お前は、話を勝手に完成させる癖がある」
「伊織さんは、完成しているのに認めない癖があります」
睨まれた。
だが、店先の空気は悪くなかった。
午後から、四種類の見本作りが始まった。
静かな雨。
やわらかな雨。
働く雨。
風の雨。
お鈴が札を書く。
雨の羽織
同じ図案でも、手の雨は少しずつ違います。
着る人に合う雨を、お選びします。
「また長い」
伊織が言った。
「では、伊織さんなら?」
「……手が違えば、雨も違う」
短い。
しかも、いい。
またこの男は、急に詩人になる。
「採用です」
「だから勝手に」
「黒瀬屋案と書いておきます」
「やめろ」
前回と同じやり取りである。
黒瀬伊織、学習しない。
いや、私も学習していない。
夕方、最初に注文した三人の客が、見本を見にやって来た。
傘が好きな娘には、やわらかな雨。
蛙を探す孫には、働く雨。
雨の中を歩き回っても、糸が緩みにくい。
水たまりを二つ欲しがった女性には、静かな雨。
「風の雨も素敵ね」
女性が言った。
「迷いますか」
「少し」
「でしたら、裾の一部だけ風の雨にしましょうか」
千代さんが驚いて顔を上げた。
「私の雨を?」
「ええ。歩いた時に、少し揺れて見えそう」
千代さんは何度も頭を下げた。
「丁寧に縫います」
その声は、朝より少し強かった。
見えないところばかり縫ってきた手に、初めて名前のある雨ができた。
それは、小さなことではない気がした。
夜。
帳場へ今日のことを書く。
黒瀬屋より縫い手三名。
同じ図案、同じ糸でも、雨の表情に差あり。
差をすべて消さず、用途へ分ける。
静かな雨。
やわらかな雨。
働く雨。
風の雨。
黒瀬伊織、連携と発言。
本人は否定。
最後の二行は、藤兵衛が後から書き足していた。
記録は正確でなければならないらしい。
私は四枚の見本布を眺めた。
同じように作ること。
同じ品質を守ること。
それは大切だ。
だが、人の手で作るものには、どうしても手の跡が残る。
全部を消す必要はない。
乱れを整える。
弱いところを補う。
そのうえで、誰の手なのかが少し見える。
それくらいが、ちょうどよいのかもしれない。
前世の私は、自分の癖を欠点だと思うことが多かった。
考えすぎる。
遠慮しすぎる。
急に妙な比喩を思いつく。
猫に弱い。
最後の一つは今世からだ。
癖を全部なくしたら、たぶん私は私ではなくなる。
でも、癖のまま人へ押しつけてもいけない。
整えて、使える場所を探す。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、人の違いを消すのではなく、仕事になる形へ整えられる人でいたい。
そう思ったところで、しるべが見本布の前へ座った。
「しるべ」
今日は踏まない。
くわえない。
ただ、四枚を見ている。
そして。
働く雨の前で、丸くなった。
お松さんが笑った。
「猫は、私の雨が好きらしいね」
「丈夫そうだからでしょうか」
「寝床にする気だろう」
伊織が言った。
しるべが前足を伸ばした。
見本布へ届く。
「待ってください」
私が布を持ち上げる。
しるべの前足は空を切った。
猫が、不満そうにこちらを見る。
今日は人間の勝ちである。
たぶん。
その直後、しるべは伊織が持ってきた図案紙の上へ座った。
伊織の眉間に、新しい皺が増えた。
「若旦那」
「はい」
「この猫を、どうにかしろ」
「連携して対応しましょう」
「取引だ」
「猫への?」
「うるさい」
私は笑いながら、しるべを抱き上げた。
逃げたのではない。
今日は、縫い手の雨を守るため、黒瀬屋と共同で猫の占拠から図案を救出したのである。




