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第34話 若旦那、同じ雨を量産しない

 雨の羽織を納めた翌日。


 青柳屋の店先には、朝から三人の客が立っていた。


「昨日の、雨の羽織を見まして」


「うちの娘にも一枚」


「孫が水たまりの柄を気に入ったそうで」


 早い。


 噂が早すぎる。


 少女が羽織を着て水たまりを踏んだのは、昨日の昼である。


 なのに今朝には、町の反対側まで届いている。


 この町の噂には、脚がある。


 しかも、かなり健脚だ。


 籠屋より速い。


 途中で茶まで飲んでいる気配すらない。


「ありがたいお話ですが」


 私は三人の客を前に、慎重に言った。


「昨日の羽織と、まったく同じものは作れません」


 三人の顔に、少し落胆が浮かんだ。


「もう布がないのですか」


「布もそうですが、あの柄は、あの反物の糸の乱れから生まれたものです」


 一本だけ、道を間違えた糸。


 そこへ小春が雨を増やし、水の輪を描いた。


 最初から雨柄を作ろうとして作ったものではない。


 傷があった。


 それを見た少女が、自分で選んだ。


 だから、あの羽織になった。


「似たものなら、できますか」


 一人の母親が聞いた。


「雨の柄や、水の輪は作れます。ただ、その子に合う景色を、一緒に考えたいのです」


「景色?」


「はい。雨が好きなのか、苦手なのか。水たまりが好きなのか。傘が好きなのか。雨上がりの空が好きなのか」


 母親は少し考えた。


「そこまで聞くのですか」


「聞きます」


 答えてから、自分でも少し不安になった。


 聞きすぎではないか。


 呉服屋で羽織を頼むだけなのに、雨にまつわる個人面談が始まる。


 前世の役場なら、申請理由欄が一枚増える流れである。


 雨具仕立て申込書。


 雨への感情を具体的に記入してください。


 やめろ。


 絶対に様式化するな。


 藤兵衛が帳場の奥で筆を止めた気配がした。


 危ない。


 あの人なら、本当に項目を作る。


「うちの娘は」


 母親が言った。


「雨より、傘を差すのが好きです」


「傘を?」


「はい。家の中でも差そうとするくらい」


 それは困る。


 前世でも、子どもはなぜか室内で傘を開く。


 そして大人に怒られる。


 傘というものは、子どもの冒険心を刺激するらしい。


「では、傘の柄を入れるのはどうでしょう」


 小春が言った。


 いつの間にか、反物を抱えて横に立っていた。


「袖の内側に、小さな傘を一つ。腕を上げた時だけ見えるように」


 母親の顔が明るくなった。


「それ、喜びます」


 別の客は言った。


「うちの孫は、蛙が好きでねえ」


「蛙」


「雨の日になると探しに行くんです」


 蛙。


 雨。


 裾に蛙。


 悪くない。


 ただ、蛙をどの程度写実的にするかで、かなり印象が変わる。


 かわいい蛙。


 本物に近い蛙。


 妙に筋肉質な蛙。


 最後は嫌だ。


 羽織の裾で、仕上がった身体の蛙がこちらを見ていたら、雨どころではない。


「小さな蛙を、一匹だけ入れましょう」


 小春が言う。


「一匹?」


「探した時に、見つけられるくらいが楽しいと思います」


「なるほどねえ」


 客はうれしそうに頷いた。


 三人目の年配の女性は、しばらく黙っていた。


「私は、自分用なんです」


「お孫さんではなく?」


「ええ」


 女性は少し照れたように笑った。


「子どもばかり、ずるいでしょう」


「ずるくはありません」


 私はすぐに言った。


「大人にも、水たまりはあります」


 言ったあとで、少し情緒が前へ出すぎた気がした。


 何だ、大人にも水たまりはあります、とは。


 深そうで、よく考えると当たり前である。


 雨が降れば、大人の前にも普通にできる。


 しかし女性は笑った。


「そうね。大人になると、避けて歩くだけになってしまうけど」


「踏みたいのですか」


「少しだけね」


 いい。


 とてもいい。


 子どものためではなく、自分が少し楽しく雨を歩くための羽織。


「では、水の輪を裾へ」


 小春が言った。


「ただ、子ども用より静かな色で」


「お願いできますか」


「はい」


 注文が三件入った。


 ありがたい。


 だが、問題もある。


 雨の刺繍には手間がかかる。


 小春一人で、すぐに三枚は無理だ。


 黒瀬屋の薄い雨具布も必要になる。


 値も安くはできない。


 そして何より、今後も注文が増えたらどうするのか。


 私は三件の注文を書きながら、胸の中に小さな重みを感じていた。


 売れるのはうれしい。


 でも、売れ始めた時が怖い。


 とろけ腹身の時にも思った。


 うまいから増やす。


 欲しがられるから全部受ける。


 それをやると、どこかの手が荒れる。


「若旦那」


 藤兵衛が言った。


「納期を決めねばなりません」


「はい」


「三件とも、いつまでに」


 私は小春を見た。


「小春さん」


「一枚ずつなら、十日ほど」


「三枚で三十日?」


「同時に少しずつ進めれば、もう少し早くできます。でも」


「でも?」


「急ぐと、雨が雑になります」


 雨が雑になる。


 いい言葉だ。


 いや、商いとしては困る言葉でもある。


 雑な雨。


 直線だけ引かれた雨。


 蛙が急ぎすぎて、何の生き物かわからなくなる雨。


 袖の傘が、きのこに見える雨。


 それは避けたい。


「一番早い方で、二十日」


 小春が言った。


「三枚目は、ひと月いただきたいです」


 客たちへ伝えると、三人とも少し驚いた。


「ひと月?」


「そんなにかかるのですか」


 私は頭を下げた。


「申し訳ありません。一枚ずつ、柄を決めて仕立てますので」


「昨日の羽織と同じでいいのに」


 一人が、ぽつりと言った。


 悪気はない。


 ただ、早く欲しいのだ。


 同じ柄を写せば、早い。


 図案もある。


 手順もわかっている。


 それなら、もっと作れるかもしれない。


 その時、暖簾が揺れた。


「同じものを作ればいい」


 黒瀬伊織だった。


 出た。


 合理性が着物を着て歩いてきた。


「伊織さん」


「三枚どころか、十枚でも作れる」


「簡単に言いますね」


「簡単ではない。仕組みにするだけだ」


 伊織は薄藍の反物を一本、店先へ置いた。


「雨具用の布も、昨日のものより軽い試作品を持ってきた」


「もう作ったのですか」


「改良すると言った」


「早いですね」


「お前が遅い」


 腹が立つ。


 だが、本当に早い。


 伊織は客たちに布を見せた。


「基本の雨柄を三つ用意する。雨、水輪、傘。それを選んでもらう。刺繍の位置も決めておけば、青柳屋の娘一人で全部やる必要はない」


 小春の顔が少し硬くなった。


「誰が刺繍をするのですか」


「黒瀬屋には、内職を頼める縫い手がいる」


「内職」


「基本の雨筋なら、手順を教えればできる」


 確かに。


 小春にしかできない部分と、他の人でもできる部分を分ける。


 伊織らしい考えだ。


 早い。


 数も出せる。


 小春の手も、少し守れる。


 だが。


 何かが引っかかる。


「昨日の少女の羽織と、同じものが町に増えることになります」


「人気があるなら当然だ」


「でも、あの子が自分で選んだ雨です」


「だから何だ」


「特別ではなくなります」


 伊織は私を見た。


「特別だから高く売るのか」


「違います」


「では、特別を守るために、他の客をひと月待たせるのか」


 痛い。


 正論である。


 黒瀬伊織の正論は、いつもよく研がれている。


 逃げ場をきれいに削ってくる。


「全部を同じにはしません」


 私は言った。


「では、どうする」


 私は三人の客を見た。


 傘が好きな娘。


 蛙が好きな孫。


 水たまりを少し踏みたい大人。


 欲しいのは、同じ雨ではない。


 雨の日を少し好きになれる何かだ。


「土台は、同じで構いません」


 私は言った。


「黒瀬屋さんの軽い雨具布。青柳屋の薄藍の羽織。基本の雨筋は、他の縫い手にもお願いする」


 伊織が黙って聞く。


「でも、最後の一つだけは、小春さんがその人のために入れます」


「最後の一つ」


「傘。蛙。水の輪。その人だけの一つです」


 小春が反物を見た。


「基本の雨は、皆で」


「はい」


「最後の景色は、私が」


「お願いできますか」


 小春は少し考えた。


 それから頷いた。


「できます」


 伊織は腕を組んだ。


「非効率だ」


「全部を小春さんが縫うよりは早いです」


「全部同じにするよりは遅い」


「少しくらい、遅くていいのです」


「なぜ」


「着る人が、自分の羽織だと思えるからです」


 伊織は黙った。


 客たちも、反物を見ている。


 傘が好きな娘の母親が言った。


「それなら、待ちます」


 蛙の祖母も頷いた。


「うちの孫だけの蛙がいるならね」


 年配の女性は笑った。


「私は、水たまりを二つにしてもらおうかしら」


「踏みすぎでは」


「大人だから、二つくらい許してちょうだい」


 店先に笑いが起きた。


 伊織は、ため息をついた。


「客が納得したなら、いい」


「では、連携成立ですね」


「共同仕入れと分業だ」


「それを一般には連携と」


「言うな」


 言う。


 絶対に言う。


 黒瀬屋の合理性。


 青柳屋の人情。


 普段なら同じ卓へ座っただけで、互いの算盤を奪い合いそうな二店が、今日は同じ羽織へ手をかけようとしている。


 これはもう、共同戦線である。


 脳内の場内が、急に暗くなった。


 黒瀬屋の真っすぐな合理性が、スタン・ハンセン。


 青柳屋の予測不能な人情が、ブルーザー・ブロディ。


 普段なら同じ控室へ入れた時点で、椅子の二、三脚は覚悟しなければならない二頭の超獣が、今日は同じコーナーに立っている。


 地鳴りのような声が、脳内の会場を揺らした。


 ――ウィー!


 いや、まだ吠えるな。


 今回は雨具の分業である。


 ウエスタン・ラリアットも、チェーンも必要ない。


 必要なのは、軽い裏地と丁寧な刺繍だけだ。


「若旦那」


 小春が言った。


「また、遠い目をしています」


「少し、超獣コンビを」


「ちょうじゅう?」


「いえ。分業を考えていました」


 危ない。


 ここでプロレスの説明を始めたら、夕方までかかる。


 藤兵衛は新しい帳面を開いた。


「では、雨の羽織。基本型三種」


「はい」


「個別の仕上げ、一点」


「はい」


「黒瀬屋雨具布使用」


「はい」


「黒瀬屋との連携」


「取引だ」


 伊織が即座に言った。


 藤兵衛は一瞬だけ筆を止めた。


 そして、静かに書いた。


 黒瀬屋との共同取引。


「藤兵衛さん」


 伊織の眉が動く。


「帳面上、必要でございますので」


 強い。


 番頭、最強。


 伊織は反論を諦めた。


 昼から、試しの図案作りが始まった。


 基本の雨は三種類。


 細い雨。


 斜めの雨。


 雨上がりの雫。


 そこへ、個別の一柄。


 傘。


 蛙。


 二つの水たまり。


 お鈴が札を書く。


 雨の羽織

 基本の雨を選べます。

 最後に、あなただけの一つを。


「長いですか」


 お鈴が聞いた。


「少し」


「でも、わかりやすいです」


 小春が言った。


 伊織は札を見て言う。


「もっと短くしろ」


「では、何と」


「皆の雨に、あなたの一滴」


 全員が伊織を見た。


 まただ。


 この男、時々急に詩人になる。


「いいですね」


 お鈴が言った。


「採用しましょう」


 私が言うと、伊織は少し嫌そうな顔をした。


「勝手に使うな」


「今、提案しましたよね」


「口から出ただけだ」


「では、黒瀬屋案と書いておきます」


「やめろ」


 小春が笑っている。


 藤兵衛まで、少しだけ口元を緩めていた。


 こうして、青柳屋と黒瀬屋の最初の共同商品が決まった。


 皆の雨。


 最後に、その人だけの一滴。


 全部を同じにしない。


 でも、全部を一人で抱え込まない。


 それは、今の青柳屋にちょうどよい形だった。


 夜。


 帳場へ今日のことを書く。


 雨の羽織、追加注文三件。

 基本の雨、三種。

 黒瀬屋の軽量雨具布。

 基本刺繍は分業。

 最後の一柄は、小春が個別に仕上げる。

 黒瀬屋との共同取引、開始。

 伊織本人は、連携という言葉を拒否。


 最後に、一行。


 同じ雨でも、濡れる人は違う。


 だから、全部を同じにはしない。


 でも、全部を一人で作ろうともしない。


 前世の私は、仕事を任せることが苦手だった。


 自分でやった方が早い。


 説明する方が面倒。


 頼んで失敗されたら困る。


 そう思って抱え込み、最後には自分の雨だけ土砂降りになっていた。


 今度は違う。


 基本の雨は、皆で降らせる。


 最後の一滴だけ、大事に置く。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は、誰かと組んでも、自分たちらしさを失わない商いをしてみたい。


 そう思ったところで、店先から、お鈴の声がした。


「若旦那! しるべが雨の見本札をくわえていきました!」


 またか。


 店先へ出る。


 しるべが「斜めの雨」の札をくわえて歩いている。


「しるべ、返してください」


 止まらない。


「それは見本です」


 止まらない。


「商品設計に猫の意見は求めていません」


 しるべは振り返り、札を地面へ置いた。


 そして、上から前足を一つ乗せた。


 肉球の跡。


 斜めの雨の隅に、猫の足跡が加わった。


 お鈴が目を輝かせる。


「若旦那、猫柄も作りますか?」


「作りません」


 即答した。


 しるべが、にゃと鳴く。


 小春が横で言った。


「一件くらい、注文が来そうですけど」


「来るでしょうね」


 私は頭を抱えた。


 皆の雨。


 あなたの一滴。


 そして猫の一歩。


 商品展開が増える未来しか見えない。


 私は静かに見本札を拾った。


 逃げたのではない。


 今日は、同じ雨を量産しない仕組みを作り、猫柄の量産だけは阻止したのである。

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