第33話 若旦那、雨の羽織を水たまりへ送り出す
雨の羽織が仕上がったのは、注文を受けてから五日後だった。
薄藍色の布。
一本だけ道を間違えた糸。
その周りに、小春が細い雨を降らせた。
裾には、小さな水の輪。
袖には、雲の切れ間のような白い刺繍。
派手ではない。
むしろ、遠くから見れば普通の薄藍の羽織である。
けれど近くで見ると、雨がいる。
細い雨。
静かな雨。
歩くたび、裾の水たまりが少しだけ揺れる。
「できました」
小春が言った。
声は落ち着いていた。
しかし、指先が少し赤い。
何日も針を持った跡だ。
「お疲れさまでした」
「まだです」
「またですか」
「着てもらってからです」
小春は本当に厳しい。
完成した反物を前にしても、まだ仕事の途中だと言う。
職人というものは、自分で終わりの鐘を鳴らさない。
使う人が袖を通し、歩き、戻ってくるまで。
そこまでが仕事らしい。
前世の私は、提出ボタンを押した瞬間に全てを忘れたくなる人間だった。
送信。
提出。
はい終了。
以後の修正依頼は見えません。
心のシャッター、閉店。
しかし、呉服の仕事はそうはいかない。
布は、店を出てからが本番だ。
「若旦那」
藤兵衛が羽織を確認しながら言った。
「雨具としては、少々心もとないのでは」
「やはり」
羽織は美しい。
だが、水を完全に弾く布ではない。
多少の雨ならしのげる。
しかし強く降れば、染みる。
見た目だけで「雨の日の羽織」と売るのは、少し危うかった。
「黒瀬屋さんの布を使えれば」
私が言うと、暖簾の外から声がした。
「呼んだか」
黒瀬伊織だった。
相変わらず、話の少し嫌なところで現れる。
いや、今日は助かる。
助かるのだが、助かった顔を見せると負けた気がする。
何に。
わからない。
ライバルというものは、何となく常に一勝一敗でいたくなる。
「ちょうどよいところに」
「本当にそう思っている顔ではないな」
「思っています」
「半分くらいか」
「七分です」
伊織は鼻で笑った。
それから羽織を手に取った。
雨の刺繍を見る。
裾を見る。
一本だけ、元の乱れた糸を指でなぞる。
「仕上がったか」
「はい」
「悪くない」
出た。
黒瀬伊織語の高評価。
小春は何も言わなかったが、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
「ただし」
来た。
やはり来た。
伊織の褒め言葉には、だいたい後ろから「ただし」が追いかけてくる。
祝いの席に帳簿を持ってくる男である。
「このままでは、強い雨には使えない」
「藤兵衛さんにも言われました」
「うちに、雨具用の薄布がある」
「以前おっしゃっていた」
「言っていない」
「かなり近いことを」
「聞き間違いだ」
伊織は羽織の裏側を見た。
「内側に一枚、薄く仕込める。全部ではなく、肩と背の上だけだ」
「重くなりませんか」
「少しはな」
「動きにくくは」
「仕立て方次第だ」
小春が羽織を受け取り、内側を確かめる。
「肩と背だけなら、できます。脇は空けた方がいいです」
「蒸れるからな」
伊織と小春が、布を挟んで話し始めた。
厚み。
縫い合わせ。
雨水の流れ。
袖の付け根。
私は横で頷いていた。
わかる。
たぶん。
いや、半分くらい。
若旦那として、ここで「なるほど」と言っておけば何とかなると思っている。
脳内の私は完全に家電の説明を聞く客だった。
こちらは省電力です。
なるほど。
こちらは静音性が。
なるほど。
結局どれを買えばいいですか。
「若旦那」
小春に呼ばれた。
「はい」
「聞いていましたか」
「もちろんです」
「では、どこを空けますか」
「心を」
沈黙。
間違えた。
完全に間違えた。
「脇です」
小春が言った。
「脇を空けます」
「はい」
伊織が顔を背けた。
笑っている。
絶対に笑っている。
黒瀬伊織に笑われると、かなり悔しい。
だが反論できない。
私は今、羽織の構造を聞かれて「心を空ける」と答えた男である。
情緒が先走りすぎた。
その日のうちに、黒瀬屋から薄い雨具布が届いた。
値は、きちんと払う。
黒瀬屋の布。
青柳屋の反物。
小春の刺繍と仕立て。
初めて、二つの店の仕事が一枚の羽織の中で重なった。
「連携ですね」
私が言うと、伊織はすぐに否定した。
「仕入れだ」
「でも、黒瀬屋の布と青柳屋の仕立てが」
「取引だ」
「町の二店が力を合わせて」
「うるさい」
照れているのか。
いや、この男に限ってそれはない。
たぶん。
少しはあるかもしれない。
脳内の平成維新軍が、控室の扉から顔を出した。
まだだ。
まだ早い。
稲妻レッグラリアートも、ヒップアタックも、今回は布の内側で静かにしていてほしい。
これは共闘の入場曲が鳴るほどの話ではない。
肩と背に、薄布を一枚入れただけである。
だが、その一枚が大事だった。
二日後。
雨が降った。
朝から、細い雨だった。
屋根を叩くほどではない。
通りの土が濃い色になり、軒下からぽつぽつ雫が落ちる。
少女と母親が、青柳屋へやって来た。
少女は雨の音を聞きながら、母親の袖を握っていた。
「できています」
小春が羽織を広げた。
少女の顔が、少しだけ上がる。
「雨」
「はい」
「水たまりもある」
「あります」
小春が少女へ羽織を着せた。
肩を整える。
袖を通す。
紐を結ぶ。
薄藍色が、少女の身体を包んだ。
裾の水の輪が、ちょうど膝の下で揺れる。
「重くないですか」
私が聞くと、少女は肩を動かした。
「少し」
正直だ。
いい。
子どもの試着は容赦がない。
売り手への気遣いがない分、本当に助かる。
小春が背中を確認する。
「雨具の布を入れたので、少しだけ重くなっています」
「でも、あったかい」
「それならよかったです」
外では雨が降っている。
少女は暖簾の向こうを見た。
足が止まっている。
母親は何も言わなかった。
行きなさいとも。
大丈夫とも。
ただ、待っていた。
その待ち方がよかった。
怖くなくなるまで待つのではない。
怖いまま、一歩出られるまで待つ。
私は少女の前にしゃがんだ。
「雨は、まだ嫌いですか」
「うん」
「そうですか」
「嫌いなままでいい?」
「いいと思います」
少女は羽織の裾を見た。
「でも、水たまりは踏みたい」
「では、水たまりだけ踏みに行きましょう」
「若旦那も?」
「私もですか」
「若旦那、道を間違えるから」
まただ。
この町の子どもたちにまで浸透している。
若旦那は道を間違える。
もはや青柳屋の家訓に近い。
「店の前なら、たぶん大丈夫です」
「たぶん?」
「大丈夫です」
言い直した。
私と少女は、店の外へ出た。
小春も、母親も、軒下から見ている。
雨は細い。
羽織の肩に落ちた雫が、すぐには染み込まず、丸くなって流れた。
黒瀬屋の薄布が、内側で受け止めている。
少女が一歩進む。
もう一歩。
店先の水たまりの前で止まる。
そして。
踏んだ。
ぱしゃ。
小さな音。
裾の刺繍の水たまりも、一緒に揺れた。
少女が笑った。
もう一度踏む。
ぱしゃ。
今度は少し強く。
水が私の足袋へ飛んだ。
「冷たい」
思わず声が出た。
少女が、もっと笑った。
いい。
これはいい。
雨が怖くなくなったわけではない。
父親を思い出さなくなったわけでもない。
ただ、怖い雨の中に、水たまりを踏む音が一つ増えた。
それで十分なのかもしれない。
母親が、口元を押さえていた。
泣いているようにも見えた。
でも私は見ないふりをした。
見ない方がいい涙もある。
少女は、通りの端まで歩いた。
途中で一度、雨音に肩をすくめた。
それでも戻らなかった。
裾の水たまりを見て、また歩いた。
手習い所へ行く道の入り口で、振り返る。
「若旦那!」
「はい」
「これ、雨がやんでも着ていい?」
「もちろんです」
「水たまりないのに?」
「羽織の中にはあります」
少女は納得したように頷き、母親と歩いていった。
私は青柳屋へ戻った。
足袋が濡れている。
小春が笑っている。
「若旦那も、雨具が必要ですね」
「そうですね」
「水たまり用の」
「大人用も作りますか」
「若旦那は、道に迷わない柄がいいですね」
「どんな柄ですか」
「矢印」
「嫌です」
羽織の裾に、こちらです、と矢印。
町内の笑いものになる。
いや、すでにかなり笑われている。
これ以上は守りたい。
店の奥では、伊織が腕を組んで立っていた。
「いつからいました」
「少女が外へ出る前からだ」
「声をかけてください」
「邪魔になる」
伊織は、少女が歩いていった方を見ていた。
「薄布は」
「雨を受けています」
「重さは」
「少し感じるそうです。でも、温かいと」
「次は、もう少し軽くできる」
次。
伊織が、自分から次と言った。
「また連携を?」
「改良だ」
「黒瀬屋と青柳屋で」
「試作だ」
「力を合わせて」
「その言い方をやめろ」
やはり、ほとんど連携である。
私は笑った。
「ありがとうございました」
伊織は少し黙ったあと、羽織が掛けられていた場所を見た。
「布で驚かせろと言った」
「はい」
「驚いたかは、まだ保留だ」
「まだですか」
「だが」
伊織は暖簾へ向かった。
「あの子が水たまりを踏んだ音は、悪くなかった」
それだけ言って、帰っていった。
黒瀬伊織。
相変わらず、褒め方が遠い。
でも、その遠さが今日は少し心地よかった。
夜。
帳面へ今日のことを書く。
雨の羽織、納品。
黒瀬屋薄布、肩と背に使用。
少女、少し重いと言う。
温かいとも言う。
店先の水たまりを二度踏む。
笑う。
黒瀬屋、次は軽くできると発言。
本人は連携を否定。
最後に、一行書き足した。
布は、使われて初めて布になる。
反物のままでは、まだ可能性だ。
縫っても、まだ途中。
誰かが袖を通し、歩き、水たまりを踏む。
そこでようやく、その布の役目が始まる。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、完成しただけで満足せず、誰かの明日で使われるところまで見届けられる人でいたい。
その時、店先から、ぱしゃ、と音がした。
嫌な予感がする。
外を見る。
しるべが、水たまりの中を歩いていた。
白い足先が、泥で灰色になっている。
「しるべ!」
猫は振り返った。
そして、その足で店の中へ入ろうとした。
「待ってください」
止まらない。
「反物があります」
止まらない。
「本当に待って!」
私はしるべを抱き上げた。
しるべが暴れる。
足が私の羽織へ当たる。
泥の肉球印が、胸元についた。
小春が吹き出す。
藤兵衛が目を閉じる。
お滝が台所から大笑いしている。
私は自分の羽織を見た。
泥の足跡。
雨の日仕様。
新柄。
いや、商品化はしない。
絶対にしない。
私はしるべを抱えたまま、静かに息を吐いた。
逃げたのではない。
今日は、少女の羽織を雨へ送り出し、自分の羽織を猫に仕上げられたのである。




