第32話 若旦那、傷のある反物に雨を降らせる
翌朝。
私は、薄藍色の反物を帳場の上に広げていた。
一本だけ、糸が乱れている。
昨日、小春が蔵から見つけた反物だ。
一見すれば、静かな水面のように美しい。
けれど、光へ透かすと、布の真ん中に細い筋が見える。
ほんのわずか。
知らずに買えば、気づかない人もいるだろう。
だが、青柳屋が黙って売っていいものではない。
「若旦那」
藤兵衛が言った。
「朝から、ずいぶん睨んでおりますな」
「睨めば糸が戻るかと思いまして」
「戻りません」
「ですよね」
わかっている。
布は反省しない。
しるべと同じである。
こちらが深刻な顔をしても、乱れた糸は乱れたままだ。
店先では、しるべがしるべ布の上で前足を伸ばしている。
お前は今日、関係ないからな。
絶対に反物の上へ乗るな。
私の視線に気づいたのか、しるべはゆっくり瞬きをした。
信用できない。
「若旦那」
小春が反物の端を持った。
「この筋、消すのは難しいです」
「やはり」
「織り直すことはできません。無理に糸を引けば、周りまで歪みます」
無理に直すと、周りまで歪む。
また、布に人生を教えられている。
この町へ来てから、私は油揚げと猫と反物に指導されてばかりだ。
人間の師匠はどこへ行った。
いや、小春と藤兵衛とお滝がいる。
ちゃんといる。
ただ、教材の幅が広すぎる。
「売れない、でしょうか」
私が聞くと、小春は首を振った。
「昨日も言いました。合う人を見つけていないだけです」
「この筋があっても?」
「この筋があるから、できることがあるかもしれません」
小春は反物を少し離れて眺めた。
薄藍の中を、一本だけ細い線が走っている。
「雨みたいです」
「雨」
「はい。静かな雨が、一筋だけ落ちたように見えます」
言われてみれば、そう見えなくもない。
布の傷。
織りの乱れ。
売り物にならない印。
それが、雨の筋だと思えば、急に景色になる。
「この一本を隠さずに、周りへ細い刺繍を足したらどうでしょう」
「刺繍を?」
「雨の筋を何本か増やすんです。裾に、水の輪を少し」
小春の指が、布の上を歩いた。
一本の乱れた糸から、雨が降る。
裾には、水たまり。
袖には、雲の切れ間。
失敗を消すのではない。
失敗に、仲間を増やす。
私の脳内で、傷の一本が急に部長へ昇進した。
待って。
さっきまで難あり在庫だったのに。
配置転換で責任者になった。
「できますか」
「手はかかります」
「値も上がりますね」
「はい」
小春は迷わず答えた。
いい。
最近の小春は、自分の手間を隠さなくなった。
その変化が、少しうれしい。
「では、試してみましょう」
私が言うと、藤兵衛が眉を上げた。
「買い手も決まっておらぬ反物に、さらに手をかけるのでございますか」
「はい」
「売れなければ、手間ごと在庫になります」
「はい」
「黒瀬殿に、布で驚かせろと言われたからではございますまいな」
刺さった。
まっすぐ刺さった。
藤兵衛の筆は、ときどき槍になる。
「……少しは」
「若旦那」
「でも、それだけではありません」
私は反物を見た。
「この布を、難ありのまま蔵へ戻したくないのです」
「情でございますか」
「半分は」
「残り半分は」
「意地です」
藤兵衛は、しばらく私を見た。
やがて小さく息を吐く。
「商人の意地ならば、帳面へ載せられます」
「載るんですか」
「ただし、失敗した場合も」
「そこは載せない方向で」
「載せます」
厳しい。
帳面は、成功だけを書く日記ではない。
知っている。
知ってはいるが、少しくらい情状酌量がほしい。
その日の昼から、小春は刺繍の図案を考え始めた。
雨を増やしすぎれば、布が重くなる。
少なすぎれば、元の筋だけが目立つ。
裾の水輪も、大きすぎれば派手になる。
小さすぎれば、ただの丸い染みみたいになる。
「難しいですね」
私が言うと、小春は針を止めずに答えた。
「難しいです」
「何か手伝えることは」
「若旦那は、糸を色ごとに分けてください」
「わかりました」
私は箱の中の糸を分け始めた。
薄い青。
濃い青。
銀に近い灰色。
白。
簡単そうに見える。
だが、薄い青と、少し薄い青と、かなり薄い青がある。
待って。
全部、青では。
前世の私は、家電量販店でテレビの画質を比較しても、途中から全部きれいに見えるタイプだった。
色の差はわかる。
わかるつもりだ。
しかし、糸になると急に難しい。
「小春さん」
「はい」
「これは薄い青ですか。それとも、かなり薄い青ですか」
「水浅葱です」
「こちらは」
「白藍です」
「これは」
「瓶覗です」
「急に名前が詩的すぎませんか」
瓶をちょっと覗いた色。
誰が最初に決めたのだ。
色の世界は、情緒が強い。
脳内の私は、糸箱の前で完全に迷子になっていた。
道では迷う。
色でも迷う。
若旦那、守備範囲が広い。
「若旦那は、こちらの白い糸だけまとめてください」
小春が優しく仕事を減らしてくれた。
「助かります」
「白なら、わかりますか」
「そこまで信用がないですか」
「少し」
笑われた。
でも、その笑い声は悪くなかった。
夕方。
雨の刺繍が、少しだけ布に増えた。
元の乱れた一本を中心に、細い糸が斜めへ落ちている。
まだ途中。
それでも、もう「傷」には見えにくい。
一筋だけ迷った糸が、雨の中へ戻っていた。
「きれいですね」
私が言うと、小春は首を横に振った。
「まだです」
「十分きれいに見えます」
「だから、まだです」
職人の顔だった。
小春は、褒め言葉で手を止めない。
完成していないものを、完成したことにしない。
その厳しさが、頼もしい。
そこへ、店先から声がした。
「ごめんください」
昨日、妹の祝言を控えて帯を結び直しに来た女性だった。
今日は、小さな娘を連れている。
「昨日は、ありがとうございました」
「無事に結べましたか」
「はい。妹も、とても喜んでくれました」
女性は頭を下げた。
「それで、少し見ていただきたいものがありまして」
娘の方を見る。
七つか八つくらい。
少女は母親の後ろに半分隠れていた。
着ている着物は丁寧に繕われているが、袖が少し短い。
「この子の、雨の日の羽織を探しているんです」
「雨の日の」
「父親が、雨の日に亡くなりまして」
店の空気が、少し静かになった。
女性は急いで続けた。
「だから、この子、雨が苦手なんです。音を聞くと、外へ出たがらなくて」
少女は俯いている。
「無理に好きにならなくてもいいと思っています。ただ、学校へ行く日もありますし、少しでも怖くないものがあればと」
私は、薄藍の反物を見た。
雨の筋。
裾の水輪。
まだ完成していない布。
これを勧めてよいのか。
雨が苦手な子に、雨の柄。
逆ではないか。
普通なら、明るい花や鳥を勧めるべきなのかもしれない。
小春も迷っているようだった。
私は少女の前へしゃがんだ。
「雨は、嫌いですか」
少女は小さく頷いた。
「音が、怖い?」
また頷く。
「雨が止んだあとは?」
少女は少しだけ顔を上げた。
「……水たまり」
「水たまりは、嫌いですか」
「踏むのは、好き」
よかった。
小さな入口があった。
「こちらの布を、見てみますか」
私は薄藍の反物を少し広げた。
完成前であること。
元は、糸に一本だけ乱れがあったこと。
それを隠さず、雨の柄にしようとしていること。
全部、母親へ説明した。
少女は、布をじっと見ていた。
「雨だ」
「はい」
「でも、下に丸いのがある」
「水たまりです」
「踏んでいい?」
「布なので、本当に踏むのは困ります」
少女が、少しだけ笑った。
小春も笑う。
「羽織になったら、裾の水たまりが歩くたびに揺れます」
「雨も?」
「雨も一緒に歩きます」
少女は布へ手を伸ばした。
指先で、一筋の乱れた糸をなぞる。
「これだけ、ちょっと違う」
「よくわかりましたね」
「間違えたの?」
私は少し考えた。
「布を織った時に、一本だけ道を間違えたようです」
「若旦那みたい」
小春が吹き出した。
待って。
この子、青柳屋の噂を知っているのか。
町は狭い。
本当に狭い。
「そうですね。若旦那みたいです」
私は認めた。
「でも、周りに雨が降ったので、今は一人ではありません」
少女は、もう一度布を見た。
「これがいい」
母親が驚いた。
「雨の柄でいいの?」
「水たまりがあるから」
決まった。
布が、合う人を見つけた。
傷が消えたわけではない。
糸の乱れも、そのままだ。
でも、それを含めて選ぶ人がいた。
「ただし」
私は母親へ言った。
「刺繍の手間がかかっています。もとの難がある分、布代は下げますが、小春さんの仕事の値はいただきます」
「もちろんです」
母親は迷わず答えた。
「この子が、自分から選んだものですから」
小春が、静かに頭を下げた。
「最後まで、丁寧に仕上げます」
女性と少女が帰ったあと、私は反物を見た。
雨の途中。
まだ完成していない。
でも、もう行き先がある。
「小春さん」
「はい」
「売れましたね」
「まだです」
「注文は入りました」
「仕上げて、着てもらって、雨の日に外へ出られたらです」
厳しい。
だが、正しい。
商いは、代金を受け取ったところで終わらない。
使う人の明日まで続く。
夜。
小春は、もう一度針を持った。
私は隣で、今度こそ白い糸だけを分ける。
そこへ、黒瀬伊織が暖簾の外を通った。
足を止める。
店の中の反物を見る。
「雨か」
伊織が言った。
「はい」
「難ありだった布だな」
「ご存じでしたか」
「織元から、うちにも話は来ていた。使えないと思って断った」
伊織は、刺繍の途中を見た。
長い沈黙。
「どうですか」
私が聞くと、伊織は鼻を鳴らした。
「まだ途中だ」
小春と同じことを言う。
似た者同士か。
本人たちへ言ったら、二人とも嫌な顔をしそうである。
「ただ」
伊織は反物から目を離さずに言った。
「傷を隠すよりは、ましだ」
「褒めていますか」
「保留だ」
「やはり」
伊織は店を出る前に、少女が選んだと聞くと、ほんの少しだけ眉を動かした。
「完成したら見せろ」
「もちろんです」
「その出来なら」
「その出来なら?」
「黒瀬屋の雨具の布と合わせてもいい」
私は顔を上げた。
「連携するということですか」
「まだ言っていない」
「今、かなり近いところまで」
「聞き間違いだ」
伊織はそのまま帰っていった。
外側は平静を保った。
だが内側の私は、かなり騒いでいた。
待って。
黒瀬屋と連携。
平成維新軍、見参の前触れか。
いや、まだ早い。
木村健悟の稲妻レッグラリアートも、越中詩郎のヒップアタックも、今は控室で待っていてほしい。
布一枚でリングへ上がるな。
まずは羽織を完成させる。
話はそれからだ。
帳場に、今日のことを書いた。
難あり薄藍反物。
乱れた糸を雨の柄へ。
雨を怖がる少女、羽織を注文。
布代は下げる。
刺繍の手間は下げない。
黒瀬屋、完成後の連携を匂わせる。
本人は否定。
最後の一行を書いて、少し笑った。
傷のある布。
道を間違えた糸。
雨が怖い少女。
迷子になりがちな若旦那。
うまくいかないものが、同じ反物の上で少しずつつながっていく。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は、傷をなかったことにするのではなく、その傷から景色を作れる人になりたい。
雨が降るなら、水たまりも描けばいい。
道を間違えた一本には、仲間の雨を降らせればいい。
そう思ったところで、しるべが反物の方へ近づいた。
「しるべ」
私は低い声で呼んだ。
しるべは止まった。
「これは、絶対に踏んではいけません」
しるべは反物を見る。
私を見る。
もう一度、反物を見る。
小春が針を置いた。
藤兵衛が筆を止めた。
青柳屋全員が、猫の一歩を見守る。
しるべは。
くるりと向きを変えた。
自分のしるべ布へ戻り、丸くなった。
勝った。
今日は人間が勝った。
脳内で小さな勝利の鐘が鳴る。
「若旦那」
藤兵衛が静かに言った。
「反物を片づけてから喜んでください」
「はい」
私はすぐに反物を巻いた。
逃げたのではない。
今日は、雨の反物と青柳屋の信用を、猫の肉球から守り切ったのである。




