第30話 若旦那、ライバルは店の空気を見る
昼過ぎ。
茶屋では、おいなり包みが残り二つ。
卯の花は売り切れ。
しるべは猫待ち台で昼寝。
豆助は日なたで大あくび。
最近の青柳屋は、呉服屋なのか縁側なのか、自分でも少し分からなくなってきた。
その時、暖簾が静かに揺れた。
「ごめんください」
聞き慣れた声だった。
黒瀬屋の黒瀬伊織。
何度も反物を見に来ては、値踏みをし、嫌味を置いて帰る。
町でも評判の切れ者であり、青柳屋にとっては避けて通れないライバルだった。
「いらっしゃいませ。」
私が頭を下げる。
黒瀬は反物には手を伸ばさず、店の中をゆっくり見渡した。
香袋。
巾着。
しるべ。
猫待ち台。
そして店先から聞こえる、茶屋の笑い声。
視線が一巡してから、ぽつりと言った。
「……若旦那。」
「はい。」
「最近のお前の店。」
一拍置いて。
「飯屋になったのか。」
私は思わず笑ってしまった。
「たしかに、そう見えますか。」
「茶屋へ客を送り、豆腐屋と組み、魚屋とも何か始めたそうだな。」
「はい。」
「呉服屋が。」
「呉服屋です。」
「布より飯の話ばかり聞こえてくる。」
「否定できません。」
黒瀬は鼻で笑った。
「町じゃ評判らしいな。」
「ありがたいことに。」
「子どもまで集まっている。」
「しるべ人気もありますので。」
その名前を聞いた途端、しるべが欠伸をした。
まるで会話に参加しているようだ。
「……猫まで商売に使うか。」
「本人は寝ているだけです。」
「だろうな。」
少しだけ空気が緩んだ。
黒瀬は店先を見ながら静かに言う。
「だが。」
その一言で空気が締まった。
「町に好かれる店と、呉服屋として一目置かれる店は違う。」
私は黙って聞いた。
「人は笑顔だけでは反物を任せん。」
「……はい。」
「腕を見る。」
黒瀬は反物へ目を向けた。
「仕立てを見る。」
香袋ではない。
卯の花でもない。
布そのものを見ている目だった。
「最近のお前は、町をよく見ている。」
「ありがとうございます。」
「だが。」
また”だが”だった。
「布を見る時間まで減らすな。」
その言葉は嫌味ではなかった。
ライバルだからこそ言う忠告だった。
私は深く頭を下げた。
「肝に銘じます。」
「俺はな。」
黒瀬は暖簾へ向かって歩き出した。
「町一番の呉服屋と競いたい。」
振り返らないまま続ける。
「飯屋とは競いたくない。」
私は思わず笑った。
「安心してください。」
「何だ。」
「私は布が好きです。」
「ならいい。」
黒瀬は暖簾をくぐる直前、小さく口元だけ笑った。
「次は布で驚かせろ。」
「はい。」
「その時は遠慮なく叩き潰す。」
「望むところです。」
黒瀬は店を出ていった。
しるべが一度だけ鳴く。
にゃ。
まるで、
「ちゃんとライバルしてこい。」
そう言っているようだった。
夕方。
私は帳場を開く。
今日の記録。
黒瀬屋来店。
『最近のお前の店、飯屋になったのか。』
『町に好かれる店と、呉服屋として一目置かれる店は違う。』
『布で驚かせろ。』
私はその三行だけを、少し丁寧に書いた。
このところ、私は町ばかり見ていた。
魚屋。
豆腐屋。
茶屋。
花街。
子どもたち。
どれも大切だった。
でも、私は若旦那だ。
布で人を笑顔にする人間だ。
人情だけでは足りない。
技だけでも足りない。
両方あって初めて、青柳屋になる。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は町に愛されるだけでなく、ライバルが思わず唸るような一枚を仕立てよう。
そのために、明日からまた反物と向き合う。
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