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第28話 若旦那、花街へ卯の花を届ける

 翌朝、青柳屋の台所には、卯の花の匂いがしていた。


 豆腐屋の甚八さんから届いたおから。


 お滝の手で、水気を飛ばされ、出汁を吸い、人参とこんにゃくと油揚げの端を抱き込み、静かに小鉢になる。


 派手ではない。


 まったく派手ではない。


 だが、朝の台所にこの匂いがあると、なぜか少し安心する。


 腹の底に、畳が一枚敷かれる感じだ。


 前世の私は、派手な食べものに元気をもらう日もあった。


 ラーメン。

 唐揚げ。

 カツ丼。

 半額寿司。


 だが、本当に疲れている日には、そういうものを受け止める胃袋すら残っていないことがある。


 そういう時、卯の花みたいな味が、静かに横へ座ってくれる。


 「まあまあ、今日はこれくらいにしときなさい」と言ってくれる。


 お滝は鍋を混ぜながら言った。


「若旦那、花街へ持っていく分はこれくらいでいいかい」


「はい。多すぎないように」


「わかってるよ。華やかな場所だからって、腹の中まで飾り立てる必要はないからね」


 お滝、朝から強い。


 台所の哲学が、出汁と一緒に立ちのぼっている。


 小春は、卯の花を入れる小さな包みを用意していた。


 しるべ足跡包み紙ではない。


 花街用に、少し落ち着いた紙。


 隅に、小さく青柳屋の印。


 それから、猫の足跡は一つだけ。


「足跡、入れるんですか」


 私が聞くと、小春は少し笑った。


「一つだけなら、かわいいかと思って」


「白菊さんのところに猫の足跡」


「しるべも、白菊さんのところに出入りしていたそうですし」


「それはそうですが」


 しるべを見る。


 店先で丸くなっている。


 まるで、自分は関係ありませんという顔だ。


 関係ある。


 かなりある。


 この猫の足跡が、いまや青柳屋の包装意匠に入り込んでいる。


 前世なら、ロゴ展開である。


 猫、ブランド化。


 本人、寝ているだけ。


 理不尽だが、強い。


「若旦那」


 藤兵衛が帳場から声をかけた。


「花街への道順表でございます」


「ありがとうございます」


 渡された紙には、豆腐屋、茶屋、花街までの道順が丁寧に書かれていた。


 角を右。

 橋を渡る。

 赤い提灯の前を左。

 猫について行かない。


 最後。


 最後の一行。


「藤兵衛さん」


「はい」


「これは必要ですか」


「必要かと」


 反論できない。


 実績がある。


 私は道順表を懐へ入れた。


 小春が、卯の花の包みを籠に入れる。


「私も一緒に行きます」


「やはり?」


「やはり」


「道順表がありますが」


「猫について行かない、と書いてある時点で不安です」


 お鈴が横で吹き出した。


 お滝も笑っている。


 青柳屋の若旦那、町内での信用は少し上がっているが、道案内能力だけはまだ低い。


 悲しい。


 だが、仕方ない。


 花街へ向かう道は、昼前の光で少しやわらかかった。


 夜の花街は、灯りと香の印象が強い。


 だが、昼の花街は、思ったより生活の匂いがする。


 水を撒く音。

 髪を結う女の声。

 座敷の畳を叩く音。

 誰かが洗った襦袢を干す手。


 華やかな場所にも、朝の準備がある。


 白粉の前に、水仕事がある。


 香の前に、掃き掃除がある。


 花街もまた、店なのだ。


「若旦那」


 小春が小さく言った。


「昼の花街は、少し静かですね」


「そうですね」


「でも、忙しそうです」


「始まる前の忙しさですね」


 祭りの前日。

 茶屋の仕込み。

 豆腐屋の朝。

 花街の昼。


 全部、同じだ。


 人に見える華やかな時間の前に、見えない手がある。


 白菊さんは、店の奥で迎えてくれた。


「若旦那、小春さん。ありがとうございます」


「こちらこそ」


「若葉が、昨日から楽しみにしていました」


 その声に、奥から若葉が顔を出した。


 今日は、いつもより少し軽い着物を着ている。


 花街の娘らしく整えてはいるが、表情は少しほぐれていた。


「若旦那さん、小春さん」


「若葉さん。卯の花、お持ちしました」


「ありがとうございます」


 若葉は籠を覗き込んだ。


 その顔は、まるで小さな菓子をもらう子どものようだった。


 いや、卯の花である。


 地味だ。


 菓子ではない。


 だが、若葉にとっては少し特別なのかもしれない。


「こちらで召し上がりますか」


 私が聞くと、白菊さんが笑った。


「ええ。できれば、座敷ではなく、裏の部屋で」


「裏の部屋」


「表で食べると、皆、姿勢を作ってしまいますから」


 なるほど。


 華やかな場所の人は、食べる場所まで気を使う。


 若葉たちは、裏の小さな部屋へ案内してくれた。


 そこには、若い娘が三人いた。


 若葉と同じくらいの年の子もいれば、少し年上の子もいる。


 皆、きれいにしている。


 だが、よく見ると、目の下に少し疲れがある。


 着物の襟元を直す手が、少し慣れすぎている。


 大人の顔をしているが、腹はきっと普通に減る。


「これが、卯の花?」


 一人が言った。


「豆腐屋のおからだって」


「おからかあ」


「でも、若葉が昨日おいしいって」


 若葉は少し照れた顔をした。


「地味だけど、ほっとするの」


 地味だけど、ほっとする。


 その言葉は、卯の花にとても合っていた。


 お滝が聞いたら、たぶん鼻で笑いながら喜ぶ。


 小春が、小さな包みを開いた。


 湯気はもう少し落ち着いている。


 でも、香りは残っていた。


 豆の甘さ。

 出汁。

 油揚げ。


 花街の裏部屋に、卯の花の匂いが広がる。


 香袋とは違う。


 白粉とも違う。


 飾るための香りではない。


 腹へ戻るための匂いだ。


 若い娘たちは、最初おそるおそる箸を伸ばした。


 ひと口。


 少し黙る。


 それから、表情が緩む。


「あ、これ」


「懐かしい」


「うちでも食べたことある」


「お腹にやさしい」


 声が、少しずつほどけた。


 さっきまで花街の娘だった人たちが、急に台所にいる娘たちの顔になる。


 私は少し目をそらした。


 見すぎてはいけない気がした。


 これは、見世物ではない。


 彼女たちが肩書きの外に出る、短い昼の時間だ。


 白菊さんは、部屋の隅で静かに卯の花を食べていた。


 所作は美しい。


 だが、いつもの大人の余裕とは違う。


 少し、身体が休んでいる。


「白菊さん」


「はい」


「お昼、抜きがちと聞きました」


 白菊さんは若葉を見た。


 若葉は、しまったという顔をした。


「若葉ですね」


「すみません」


「いいのよ」


 白菊さんは微笑んだ。


「抜きがちなのは、本当ですから」


「お忙しいのですね」


「忙しいというより、食べる頃合いを逃すのです。支度、稽古、客の知らせ、座敷の準備。気づくと、あとでいいわ、になる」


 前世の私の胸に、何かが刺さった。


 あとでいい。


 これは危険な言葉である。


 昼はあとでいい。

 休憩はあとでいい。

 返信はあとでいい。

 自分のことはあとでいい。


 あとで、あとで、と言っているうちに、だいたい自分が後回しのまま一日が終わる。


「あとでは、だいたい来ません」


 私はつい言った。


 白菊さんがこちらを見た。


 小春も見る。


 若葉も見る。


 しまった。


 若旦那、また人生訓の暖簾を出している。


 でも、もう出てしまった。


「いえ、私も前に……以前、そういうことが多かったので」


「若旦那も?」


 若葉が少し意外そうに言った。


「若旦那でも、昼を抜くんですか」


「若旦那というより、中身が」


 危ない。


 言いかけた。


「いえ。人間なので」


 雑な着地。


 だが、誰も深く突っ込まなかった。


 ありがたい。


「では」


 白菊さんが言った。


「卯の花を、昼の支度の前に少し置いておくのはどうでしょう。皆が、座敷へ出る前にひと口食べられるように」


「よいと思います」


「ただ、多くはいりません。食べすぎると動きにくいですから」


「少しだけ」


「ええ。強すぎない香りと同じです」


 強すぎない香り。


 軽い香袋。


 そして、少しの卯の花。


 白菊さんは、場に合う量をよく知っている。


 多ければよい、ではない。


 若い娘が、座敷へ出る前に少し腹を落ち着ける分。


 それでいい。


「では、豆腐屋さんと相談して、出せる日に少しだけ」


 私が言うと、白菊さんは頷いた。


「お願いします。毎日でなくて構いません」


「助かります」


「ない日がある方が、ありがたく食べるかもしれませんし」


 その言葉に、私は少し笑った。


 ない日がある方が、ありがたく食べる。


 青柳屋の最近の商いにぴったりだ。


 とろけ腹身も、魚次第。


 おいなり包みも、豆腐屋の朝次第。


 卯の花も、その日の分だけ。


 いつでもある便利さではなく、ある時にちゃんと受け取る商い。


 それも、この町には合っているのかもしれない。


 若い娘の一人が、卯の花を食べながら言った。


「これ、白いから、花街に合わないかと思ったけど」


「地味だから?」


 若葉が聞く。


「うん。でも、なんか落ち着く」


 白菊さんが静かに言った。


「花は、表だけに咲くものではないのよ」


 その場が、少し静かになった。


 いい言葉だった。


 あまりにいい言葉で、私の脳内が一瞬だけ筆を構えた。


 名言採取係が動き出す。


 やめろ。


 人の言葉を勝手に短冊にするな。


 でも、覚えておきたい。


 花は、表だけに咲くものではない。


 卯の花は、花街の裏部屋にも似合っていた。


 帰り際、若葉が私たちを見送ってくれた。


「若旦那さん」


「はい」


「今日、なんだか少し楽でした」


「卯の花が?」


「それもありますけど」


 若葉は、香袋を袖の中でそっと押さえた。


「青柳屋さんのものは、私に『無理に大人っぽくしなくていい』って言ってくれる感じがします」


 私は少し返事に困った。


 嬉しい。


 かなり嬉しい。


 でも、うまく受け取るのが難しい。


 前世の私なら、ここで「いやいやそんな」と全部薄めてしまった。


 今は、少しだけ受け取ろうと思う。


「ありがとうございます」


 若葉は笑った。


「また、卯の花の日に」


「はい。豆腐屋の朝しだいですが」


「それも、いいです」


 花街を出ると、小春が隣で言った。


「若旦那」


「はい」


「卯の花、花街に似合いましたね」


「似合いました」


「意外でした」


「私もです」


 華やかな場所に、地味な味。


 でも、合っていた。


 強い香りの中に、軽い香袋が必要なように。


 きれいな着物の中に、肌に触れる裏地が必要なように。


 花街にも、卯の花が必要な日がある。


 その発見が、今日はうれしかった。


 青柳屋へ戻ると、しるべが店先で丸くなっていた。


 まるで、全部知っていたような顔である。


「しるべ」


 私は言った。


「卯の花、花街でも好評でしたよ」


 にゃ。


「あなたは食べないのに」


 にゃ。


「でも、きっかけは作った」


 しるべは、ゆっくり目を閉じた。


 猫は答え合わせをしない。


 それが腹立たしくもあり、ありがたくもある。


 夜、私は帳面に今日のことを書いた。


 花街へ卯の花、少量。

 若葉、白菊、若い娘たち、食す。

 座敷前に少し置く案。

 毎日ではなく、豆腐屋の朝しだい。

 花は、表だけに咲くものではない。


 最後の一行は、白菊さんの言葉だ。


 私は少しだけ丁寧に書いた。


 表の花。


 裏の卯の花。


 どちらも、花なのだ。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は、表に見える華やかさだけでなく、その裏で誰かの腹を支えるものにも目を向けたい。


 誰かが少し楽に座敷へ出られるように。


 誰かが、大人の香りに追いつくまで、自分の鼻で息をできるように。


 そう思ったところで、藤兵衛が静かに言った。


「若旦那」


「はい」


「花街への卯の花配達、帳面上はどの分類にいたしましょう」


 来た。


 分類。


 現実の花は、帳面の欄に収まらない。


 私は少し考えた。


「町の腹支え、でどうでしょう」


 藤兵衛は黙った。


 しばらくして、筆を置いた。


「……少々、検討いたします」


「駄目ですか」


「駄目ではございませんが、帳面の見出しとしては、やや情緒が過ぎます」


 たしかに。


 私は静かに帳面を閉じた。


 逃げたのではない。


 今日は、分類できないくらい地味で大事な花を、花街へ届けたのである。




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