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第27話 若旦那、花街の娘に卯の花を包む

 卯の花が茶屋に並びはじめて、二日目の昼。


 私は、青柳屋の帳場で、豆腐屋と茶屋と魚屋の出入りを見ながら、静かに頭を抱えていた。


 呉服屋の帳面である。


 そのはずである。


 なのに、そこにはこう書かれている。


 とろけ腹身。

 おいなり包み。

 卯の花。

 油揚げ、二日に一度。

 おから、日持ち注意。

 しるべ、豆腐屋方面へ夜歩き。


 最後の一行は、完全に猫の行動記録である。


 私は何を管理しているのだろう。


 前世の私なら、ここでフォルダを分けた。


 食品。

 布小物。

 猫関連。

 茶屋連携。

 その他。


 その他が一番太るやつである。


 役所でも会社でも、だいたい「その他」に人生の面倒が詰まる。


「若旦那」


 藤兵衛が静かに言った。


「卯の花、本日も茶屋へ少し出しております」


「はい」


「ただ、青柳屋の帳面で扱うには、やはり分類が難しゅうございます」


「ですよね」


「町の店をつなぐ信用、として別帳にいたしましょうか」


 町の店をつなぐ信用。


 藤兵衛、急にかっこいい分類名を出してきた。


 堅物番頭、たまに言葉が強い。


「それでお願いします」


「承知いたしました」


 新しい帳面が増える。


 怖い。


 でも、今回は少し嬉しい怖さだった。


 青柳屋の仕事が、反物だけでなく、町の小さな困りごとを包みはじめている。


 その記録なら、悪くない。


 そこへ、お鈴が店先から顔を出した。


「若旦那、お客様です」


「どなたですか」


「花街の、若葉さんです」


 若葉。


 白菊さんのところの若い娘だ。


 香袋の香りが強すぎるとくしゃみをしていた、まだ少しあどけなさの残る花街の娘。


 私は立ち上がった。


 店先に出ると、若葉が小さな包みを抱えて立っていた。


 薄い若草色の着物。


 髪はきれいに整っているが、白菊さんほどの落ち着きはまだない。


 どこか、きちんと立とうとしているのに、足元だけ少し迷っているように見える。


「若旦那さん」


「若葉さん。いらっしゃいませ」


 若葉は、少し緊張した顔で頭を下げた。


「白菊姉さんに、香袋のお礼を言ってきなさいって言われて」


「それはご丁寧に」


「それと」


 若葉は、ちらりと店の奥を見た。


「茶屋で出てる卯の花って、青柳屋さんが関わってるって聞いて」


「はい。豆腐屋さんのおからを、お滝さんが炊いて、茶屋で少し出しています」


「おから」


 若葉の顔が、少し懐かしそうになった。


 意外だった。


「お好きですか」


「好き、というか」


 若葉は言葉を選んだ。


「小さい頃、よく食べました」


 小さい頃。


 その言葉の奥に、私は少しだけ踏み込まない方がいいものを感じた。


 花街にいる娘の、小さい頃。


 華やかな着物や香の匂いの前にあった、もっと地味な台所。


 そこには、きっといろいろある。


 聞いていいことと、聞かない方がいいことがある。


「召し上がりますか」


 私は言った。


「茶屋へ行けば、少しあると思います」


 若葉は、少し困ったように笑った。


「花街の娘が昼に茶屋へ一人で行くと、目立つんです」


「あ」


 そうか。


 私はまた、当たり前のことを見落としていた。


 町の人にとって茶屋はただの茶屋でも、花街の娘が一人で入れば、目が集まる。


 それが悪意でなくても、視線は重い。


 前世でもそうだった。


 場所によって、人の見られ方は変わる。


 同じ人なのに、いる場所で意味が勝手につく。


 花街の娘。


 その肩書きが、若葉の昼の小腹まで縛っている。


「では、こちらで少し用意しましょう」


 私が言うと、若葉は驚いた顔をした。


「いいんですか」


「もちろんです」


 お滝に頼むと、すぐに小さな椀を出してくれた。


 卯の花。


 少しの漬物。


 それから、おいなり包みをひとつ。


「若い子は腹が減るだろ」


 お滝は、ぶっきらぼうに言った。


「ありがとうございます」


 若葉は両手で椀を受け取った。


 その手つきが、少し丁寧すぎる。


 もらい慣れていない人の手だった。


 店先の端で、若葉は卯の花を口に運んだ。


 そして、黙った。


 長い沈黙ではない。


 でも、その間に、彼女の顔から少しだけ花街の表情が抜けた。


 年相応の、ただの若い娘の顔になった。


「……これ」


「はい」


「地味ですね」


「はい」


「でも、ほっとします」


「小春さんも、そう言っていました」


 ちょうどその時、小春が店にやって来た。


 手には、若葉用の香袋の追加分がある。


「若葉さん」


「あ、小春さん」


 若葉は少し慌てて立ち上がろうとした。


「そのままで。食べていてください」


 小春はやわらかく言った。


 若葉は、少しだけためらってから、また腰を下ろした。


 花街の娘が、呉服屋の店先で卯の花を食べている。


 その光景は、たぶん少し珍しい。


 でも、不思議と青柳屋の店先には馴染んでいた。


 お鈴が水を持ってきて、しるべが少し離れたところで丸くなり、お滝が台所から様子を見ている。


 藤兵衛は帳場で見て見ぬふりをしている。


 青柳屋、だいぶ懐が妙な方向へ広がってきている。


「若葉さん」


 小春が香袋を出した。


「前に頼まれた、軽い香りのものです」


「ありがとうございます」


 若葉は香袋を受け取ると、そっと香りを確かめた。


 くしゃみは出なかった。


 顔が少し明るくなる。


「これなら、大丈夫です」


「よかった」


「白菊姉さんの部屋は、大人の香りがするんです」


「大人の香り」


「いい匂いです。でも、私はまだ少し、鼻が追いつかなくて」


 その言い方が、少し切なかった。


 大人の香りに、まだ鼻が追いつかない。


 花街の娘としては、きっと早く追いつかなければいけないものなのだろう。


 でも、身体はそう簡単には追いつかない。


 心も同じだ。


 大人の顔を先に作らされて、内側があとから走ってくることがある。


 私は、前世の自分を少し思い出した。


 仕事では大丈夫そうな顔をしていた。


 できるふりをした。


 気にしていないふりをした。


 でも、内側はよく鼻をすすっていた。


 追いつかないものは、追いつかない。


「若葉さん」


 私は言った。


「追いつくまで、少し軽い香りでもよいのでは」


 若葉は私を見た。


「でも、花街の娘なのに」


「花街の娘にも、いろいろな香りがあってよいと思います」


 言ってから、少し焦った。


 まただ。


 若旦那、急に語り始める。


 しかも相手は花街の娘。


 気をつけないと、人生相談の暖簾が勝手に出る。


 だが、小春が静かに続けた。


「布も同じです。強い柄が似合う人もいます。でも、淡い色がその人を引き立てることもあります」


 若葉は香袋を見つめた。


「私、白菊姉さんみたいにならなきゃって思ってました」


「白菊さんは素敵な方です」


「はい」


「でも、若葉さんが白菊さんになる必要は、たぶんありません」


 若葉の手が、香袋を少し強く握った。


「白菊姉さんにも、そう言われます」


「なら、きっと本当です」


「でも、町の人は、花街の娘ってだけで、勝手に大人だと思うんです」


 その言葉は、静かだった。


 怒りというより、少し疲れていた。


「そうですね」


 私は頷いた。


「肩書きは、便利なようで乱暴です」


「らんぼう?」


「はい。若旦那だからしっかりしている、とか」


 お鈴が小さく吹き出しそうになった。


 やめなさい。


 そこは笑うところではない。


 いや、笑っていい。


 私はかなりしっかりしていない。


「花街の娘だから大人だ、とか。仕立て屋の娘だから何でも縫える、とか。番頭だから固い、とか」


 藤兵衛が帳場で少し眉を動かした。


 聞こえている。


「肩書きは、入口にはなります。でも、その人全部ではありません」


 若葉は黙って聞いていた。


 しるべが、にゃ、と鳴いた。


 いい間だった。


 猫は時々、会話の句読点みたいな鳴き方をする。


「しるべは?」


 若葉が、少し笑って聞いた。


「しるべは、猫です」


「それは全部じゃないんですか」


「しるべは、猫で、看板猫で、無断持ち出し犯で、商品開発担当で、豆腐屋への案内役です」


 若葉が笑った。


 ようやく笑った。


 小春も、お鈴も笑った。


 しるべは不満そうに尻尾を動かした。


 悪口ではない。


 たぶん。


「若旦那さんのところは、不思議ですね」


 若葉が言った。


「そうですか」


「花街でもなく、茶屋でもなく、豆腐屋でもないのに、いろんなものがある」


「呉服屋なんですけどね」


「はい。でも、少し休めます」


 その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。


 少し休める。


 猫待ち台も、休み布も、香袋も、卯の花も。


 結局、青柳屋が作っているのは、そういう場所なのかもしれない。


 若葉は、おいなり包みを手に取った。


「これ、持って帰ってもいいですか」


「もちろんです」


「白菊姉さんに」


「白菊さんへ?」


「はい。白菊姉さん、忙しい時は昼を抜くんです」


 ああ。


 なるほど。


 華やかな人も、昼を抜く。


 大人の香りをまとっている人も、腹は減る。


 当たり前のことなのに、見落としそうになる。


「では、もうひとつ包みましょう」


 私が言うと、若葉は慌てた。


「そんな」


「白菊さんの分です」


「お代は」


「いただきます」


 若葉は一瞬驚いて、それから少し笑った。


「そこは、ちゃんとなんですね」


「ちゃんとです」


「安心しました」


 安心。


 無料にされるより、ちゃんと払える方が安心することがある。


 相手に借りを作りすぎない。


 自分が客として立てる。


 それは、若葉にとって大事なことなのかもしれない。


 お鈴が、しるべ足跡包み紙でおいなり包みを包んだ。


 若葉はそれを大事そうに抱えた。


「この足跡、かわいいですね」


「しるべの無断持ち出しから生まれました」


「無断持ち出し」


「はい」


 若葉はまた笑った。


「しるべ、悪い猫ですね」


 しるべは目を閉じた。


 反省なし。


 青柳屋の日常である。


 帰り際、若葉はふと足を止めた。


「若旦那さん」


「はい」


「卯の花、花街にも少し届けてもらえますか」


「花街に?」


「はい。若い子たち、華やかなものより、こういう地味なものを食べたくなる時があると思うんです」


 私は少し考えた。


 花街に卯の花。


 悪くない。


 ただし、持って行き方が大事だ。


 花街の娘たちが「余りもの」を食べる、という見え方にはしたくない。


 豆腐屋の朝から出た、腹を支える小鉢。


 そういう形にしたい。


「では、白菊さんに相談しましょう」


「ありがとうございます」


「ただし、日持ちしないので、その日の分だけです」


「はい」


「全部は商いにしません」


「それ、白菊姉さんが好きそうな言い方です」


「そうですか」


「はい。強すぎない感じが」


 強すぎない。


 香袋の時と同じだ。


 卯の花も、強くない。


 でも、腹に残る。


 花街の娘たちに必要なのは、もしかすると、そういう味なのかもしれない。


 夕方、白菊さんの使いが青柳屋へ来た。


 若葉から話を聞いたらしい。


「白菊姉さんが、卯の花を少しお願いしたいと」


「承知しました」


「ただ、白菊姉さんが言ってました。多くはいらない。若い子が、座敷の前に少し口にできる分だけでいい、と」


 さすが白菊さんだった。


 量を欲張らない。


 場に合う分だけ。


 私は頷いた。


「明日、豆腐屋さんと茶屋さんと相談して、少しだけ用意します」


「ありがとうございます」


 使いの若い衆は、しるべを見て笑った。


「白黒、また太りました?」


「しるべです」


「しるべ」


「青柳屋では、そう呼んでいます」


「白菊姉さんにも伝えておきます」


 しるべは、偉そうに目を閉じていた。


 名前が町へ広がっていく。


 猫は何もしていない。


 でも、存在だけで町の店をつないでいる。


 夜、私は帳面に今日のことを書いた。


 若葉、来店。

 卯の花を食す。

 軽い香りの香袋、良好。

 白菊殿へおいなり包み。

 花街へ卯の花、少量相談。

 肩書きは入口であって、全部ではない。


 最後の一行を書いたあと、私は筆を止めた。


 花街の娘。

 若旦那。

 仕立て屋の娘。

 番頭。

 女中。

 飯炊き。

 猫。


 肩書きは、それぞれにある。


 でも、その奥には、腹が減る人がいる。


 香りが強いとくしゃみをする娘がいる。


 昼を抜く白菊さんがいる。


 帳面に怯える若旦那がいる。


 手間賃を受け取るのが少し怖い小春がいる。


 足跡を勝手に商品にする猫がいる。


 いや、最後は少し違う。


 どうせ一度死んだ身だ。


 今度は、肩書きだけで人を見ないでいたい。


 花街の娘に、卯の花を。


 若旦那に、迷子札を。


 いや、迷子札はいらない。


 そこは忘れてほしい。


 その時、藤兵衛が静かに言った。


「若旦那」


「はい」


「花街への卯の花配達、道順表に加えておきました」


 早い。


 そして丁寧。


「ありがとうございます」


「迷われぬよう」


「……ありがとうございます」


 私は帳面を閉じた。


 逃げたのではない。


 今日は、花街の娘が卯の花を食べて、少しだけ肩書きの外に出られた日なのである。

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